二―二章
「いえ、作法を知りません」
「畏〈かしこ〉まる事はありません」
行斗は茶を、心に勧めた。
椀には茶が、丁度良い量だけ立てられていた。
「〈茶〉は宇宙です」
調和を乱してしまいそうで、手をつける事に躊躇する心を余所に、再度自分に茶を立てながら、行斗は語り出した。
「この空間には、必要なものしかありません」
障子も閉められているので、風も入ってこない。
「必要にして十分」
明かりは、そこから漏れてくる日の光だけだった。
「どうですか」
再度、行斗は心に問い掛けた。
が、内容は異なる。
深い意味合いが込められている事に、心は気づいた。
「何だかつまらないような気がします」
問われて、心は珍しく素直に思うところを口にした。
唐突だが真摯な問いかけのような気がしたからだ。
茶せんで溶く行斗の手が止まった。
「つまらない?」
初めて、行斗は顔を上げた。
ここまで、一度も心を見ようとはしていなかった。
「調和しています。
完成しています。
でも、おれには当たり前過ぎて、面白みに欠けるような気がします。
いや……」
「続けなさい」
不意の変化。
言葉に鋭気が込められていた。
行斗の全身から迸〈ほとばし〉る鋭気にこじ開けられるように、心は感じるままに言葉を続けた。
「調和し、完成し、必要なものだけがある。
でもそれだけじゃあ足りない。
そう訴えかけられているように思えます」
少し考えて、言葉を付け足す。
「驚きが足りない」
「意外です」
行斗に見つめられて、心はぞくりとした。
想像以上に、現実離れして整った顔立ちをしている。
過去の偉大な芸術家達が導き出した美の数値、黄金率を、極限まで極めたような造形だった。
ここまでくると、むしろ薄気味が悪い。
「あなたとこのような話ができるとは」
馬鹿にされているのかと言う疑問と、居心地の悪さも手伝って、心は更に続けた。
「例えばおれが、石動さんに見事にお茶を立てたら、軽い驚きと興味を持たれるかも知れません。
或いは、石動さんの知らない立て方をしたら。
そうすると、ここの空気が少し揺らぐ。
その変化は小さいけれども、次はどうなるのかと言う期待が生まれます」
「確かに」
更に続けようとする心を遮るように、行斗は同意した。
「完結していては、つまりませんね」
行斗の顔にうっすら笑みが浮かんでいた。
「あなたには、何か求めるものはありますか?」
真っ直ぐな問い。
自分自身にさえ嘘をつく事がある心には、答え辛らかった。
「あるような、ないような。
一言では言えません」
「訂正しましょう。
〈これだけはやっておきたい〉と思う事はありますか?」
何故こんな事を問われているのか。
何故こんな事に答えているのか、自分でも良く分からない。
でも誤魔化せない。
自分を形作る根本に関わるとこを突かれていて、心は逃げられなかった。
「より広い実感の世界へ踏み出して……、済みません、良く分からなくなりました」
行斗は再度茶せんを動かした。
「まあ良いでしょう」
自分に茶を立てると、しかし行斗はそれには口をつけなかった。
茶は、椀からこぼれそうなほど並々と立てられていた。
「私には欲しいものがあります」
その告白は、心を軽く驚かせた。
能力も資産も地位も、欲しいものは全て揃ろっているように心には思える。
「欲しいものばかりです。
そう、私は何一つ得てなどいません」
行斗は、すっと自然に椀を持ち上げた。
その並々と立てられた茶をこぼしもせずに。
余程体の使い方に長けた者でも、なかなかこうはいかない。
「今の私に得られるのは、この手の届くものだけでしかない。
或いは、目に映るもの。
或いは、学ぶ事ができるもの。
或いは、想像できるもの。
今の自分に分かるものしか、得られない」
行斗は、椀を目の高さまで上げた。
「物、地位、財産。
私が得たいのは、そんなものではありません。
表面的なもの、ではないものです」
椀を、すーっと臍の前まで下ろす。
「人であるとは、どういう事でしょうか」
自問自答するように、行斗は続けた。
「人であると言う事は、制限されていると言う事です。
人とは不自由なものです。
でも、それに抗うように人は様々なものを手に入れてきました。
人とは、抗うものです」
手元で椀を回しながら、行斗は続けた。
「考えてみると、面白いものです。
制限に抗い続ける。
自分以外のものに抗い続ける。
欲望にさえ抗い続ける。
或いは自然の理にも。
人はまるで、人である事に不満を持っているようではありませんか」
行斗は、その手を止めた。
「太古、人は何かであった。
その制限された何かは、しかし、やがてその制限を超えて人となった」
椀の中の茶を、行斗は静かに見つめた。
その瞳に映る茶の色は、本物よりも濃く深い色をしていた。
「では、人である制限を超えたらどうなるのでしょうか。
人は何に変わるのでしょうか。
何がくるのでしょうか。
そう思った事はありませんか?」
行斗は椀を、口元まで持ち上げた。
「観たいのですよ」
並々と立てられた茶を、一気に飲み干した。
「人の次を」