一章
何て日だ。
ちょっとそこら辺では見かけないくらい可愛い女の子に放課後呼び止められたら、ホスト系でもなく、二次元系でもなく、親がモンスターペアレント系でもない、一六才の真っ当な男子としては、期待するなと言う方が無理な話だ。
おまけに呼び止めた、王木家の者と名乗った少女は、熱い視線で両印学園高等部二年、六葉心を見つめていた。
そりゃもう、焼ごてで門派の証を刻印出来そうなほどだ。
そんな彼女の情熱を前にして、しかし心は、丁重に辞退する事にした。
「このお付き合いはなかった事にして頂きたいと思います」
「いつお前に交際を申し込んだっ!」
ほらな、と心はため息をついた。熱い眼差しの下に、二つの開掌を揃えられていれば、嫌でも分かってしまう。
素手での路上格闘で、余程鍛えぬいた者意外で、まずほとんど拳を握る事はない。
試しに何かを殴ってみると良い。少し力を入れただけで、手首から先、どこかしらにダメージを受けるだろう。
逆に開掌なら、かなりの力を込めても痛める事はない。
と言う事は、格闘の専門家と言う事だ。
よだれが出てくるほどの太ももの張り、引き締まったウェスト。
細くしなやかな腕には、機能と造形の双方に申し分のない量の筋肉がついている。
反して不釣合いなほど掌は大きく厚い。
開掌での打撃を得意とする者特有の掌をしていた。
そこに視線が止まる。いささか以上に黒く染まった右手が、特にやばそうだ。
あれが心の知っている鉄砂掌なら、かなりやばい。
酢酸鉄を長期に亘ってしみこませた掌は、人が死ぬほどの威力を体内に浸透させる。
チラリと心は、彼女の足元を見た。
運足、足付き、歩法。
様々な呼び方があるが、安定し、かつ素早く動ける足運びも身についている。
自然体の背骨の下に、しっかり重心が置かれていた。
――双鶴劈掛拳。
中国は槍州で知られる猛拳だと見当をつける。
ブレのない姿勢。
かなりの使い手だと、心は彼女の力量を読んだ。
運が悪い事に、心は何故かその手の実践派と関わる事が多かった。
それにしても心当たりがない。
こんな特A級の女の子に恨みを買うような覚えも甲斐性も、自分には全くない。
自分で思っていて、うっすら涙がにじんできそうなくらい情けなくなるが、事実だから仕方がない。
いや、一つだけ思い当たる事があった。
それは主に、一人の人物に起因するものだった。
「酔螺は、どこにいるっ!」
不幸の元凶の固有名詞を、彼女は叩き付けてきた。
「知らん」
心は正直に答えた。
若干、相手が諦めてくれるかも知れないと言う希望を込めて。
「酔螺最後の弟子だろうっ」
青くなる心。
どこでそんな恐ろしいデマが流れているんだ。
「何だそれは、いつどこで誰がそんな先祖の墓にもお参りできなくなるような鬼畜外道なことをした、濡れ衣だっ!」
いぶかしむ目で、彼女は心を見つめた。
「あの女の弟子になるのは犯罪行為と同じ事か。なぜ自分の師をそこまで貶す?」
何か根本的な誤解があるらしい。
「確かに、〈師匠〉とは、小さな頃からの知り合いだが、おれは弟子でも、親戚でも、借金の保証人でも何でもないぞ」
「嘘を言うな」
「嘘じゃあないっ」
「嘘に決まっている」
「何で決まっているんだっ!」
「あの女が公言しているからだ、用があるなら閉門弟子の六葉心に聞け、と」
武術において閉門弟子とは、全伝を受け継いだ最後の弟子と言う意味だ。
師匠の実力の集大成を受け継ぐ事が多く、意味合いも重みもただの弟子とは全く異なる。
思わず絶句する心。
心は武術はおろか、スポーツの経験さえなかった。
酔螺のおかげで知識だけはあるが、できる事と言えば簡単な気功法と、二、三の基本的な技だけだった。
――あのエロ妖怪、とんでもない事を。
内心で毒づく。
本気で嫌だった。
底なし沼に、片足を引っ張り込まれたようなイメージが浮かぶ。
嫌な予感はしていた。
発端は、自分のパソコンに送られてきた、添付ファイル付の一通のメールだった。
『あるものを預かって欲しい』
メールの内容は、その一文だけだ。
数年ぶりに消息が分かった酔螺は、いつものように何の前触れもなく、厄介事を押し付けてきた。心は直ぐさま削除した。
彼女はいつも突然だった。
ふらっと現れては、騒動に発展しかねない土産を持ってくる。
それは、ある時は物だったり、人だったり、出来事だったりと毎回異なるが、いずれもただでは済まないものだった。
六歳の時、酔螺に届け物を頼まれ、運んだ先に警察のスペシャルチーム〈SAT〉が突入し、もみくちゃにされながら救出された事がある。
後で聞いたら、ドア前まで運んだものは、遠隔操作できる発煙弾だった。
どう言う経緯か、酔螺は警察に協力していた。
豪い、初めてのお使いだった。
酔螺の容貌は、銀を通り越して白に近い長い髪。大柄で豊満な肢体を誇る、妙にエロいお姉さんで、自称永遠の二十九歳を、心が物心つく遥か以前からやっていた。
心は小さな頃から、彼女に妙に気に入られ、あれやこれやと教えられた。
と言えば聞こえは良いが、実状はからかわれたり、引きずり回されただけだったように思う。
酔螺を知る者は、酔螺を〈師匠〉と呼ぶ。
何故そう呼ばれているのか、心は知らない。
何をしているのかも、いつからそう呼ばれているのかも知らなかった。町中の誰も知らなかったからだ。
気がつくと、心や他所の家に上がりこんでは一杯やっていたりして、町中の人も当たり前と思っていた。
外見は豊満な美女、中身は賢者兼トラブルメーカー。
博識で変な知人が多く、助けられる事も多いが、借金取りやら○クザやら、得体の知れない連中と関わって、迷惑をこうむる事も多い。
ここ四、五年は見かけなくなって清々していたところだったのだが。
第一心に、弟子になった覚えなど全くない。
エロババアめ、今度は何をやらかしたと言うんだ?
いつの間にか知らないところで理不尽な立場に置かれ、心は腹が立ってきた。
「あの女は家宝の伝書を持って逃げたんだ、居場所を教えろ!」
立ち眩みがしてきそうだった。
とうとう公にも一線を越えてしまったらしい
そんな人物と関わるのは、金輪際ごめんだった。
「知らん、くどい、どっかの掲示板で情報でも募れ!」
心が思わず叫んだ途端、彼女の体が一回り膨らんだように見えた。
が、それは予備動作なしで間合いに踏み込まれた目の錯覚だった。
――まずい、行き成りやばいのがくるっ!
致命傷になりかねない一撃。
自分の髪の毛が逆立つのが分かった。
腕を跳ね上げられ、胸に右掌が叩き付けられた。
間一髪、心は体を捻るようにして飛び退る。
そこへ、体重全てを乗せた掌が打ち下ろされた。
間二発目、心は転がって何とか避けた。追撃を受けないように素早く立ち上がり、構えを取る。
振りをして、踏み込む。
ただし、後方へ。
裏門の方へ、心は脱兎のごとく逃げ出したのだ。
三十六計逃ぐるにしかず。
土地勘に任せて路地やら私道やら山道を抜ける。振り返って後を追う姿のない事を確認して、心は大きく息を吐いた。
とりあえず逃げきった。
が、事態は変わっていない。
明日からを思いやり、心は憂鬱な気分と二人三脚で、帰り道を歩き出した