一日目
「ねえ、お母さん。 歌を唄って」
少年が母親の膝の中でねだる。
「いいわよ、どんな歌?」
優しい声で母親は訊く。
「んっとねぇ、エルフの歌!」
「はっ」
夢を、見ていたようだ。
目が覚めると嫌な汗が額を伝う。
「最悪だ」
ベッドから起き上がり、顔を洗いに外に出ようとした。
だが、できなかった。
扉が壊れて開かなくなってる。
「最悪だ」
もう一度同じ言葉を繰り返す。
「おはよう、メルト。入るわよ」
扉の外から女の声が聞こえる。
「入れるものならな」
「何よそれ……あれ? 開かない……」
「壊れたらしい」
「……また? 良い加減買い替えた方がいいわよ」
カチャカチャと金属の触れ合う音がする。
フアノ・シーウェル。
以前拾った女だ。
今は俺の知り合い、ベン・マッケンジーの酒場、アラモードで働いている。
恩を返すとかなんとかで俺の世話を焼こうとしてくる。
「最悪だ」
もう一度言わずにはいられなかった。
「メルト、開いたわよ」
少しして扉が開く。
ようやく外に出られた。
「おはよう、メルト」
「ああ」
「さっきも言ったけど、扉、買い替えた方がいいわよ」
「考えておく」
「毎回開けるわたしの身にもなってよ」
「恩を返したいんじゃないのか」
「扉を開けるのはつまらない。 他のことで返したいの」
「まあ、金があったらな」
「あるじゃないそれも大金」
「扉に使う金はない」
「娼館で使うの?」
「バカか」
「したくなったらわたしに言えばしてあげるわよ?」
「いいからどけ」
布を持って井戸に向かって歩く。
古ぼけたボロボロの井戸で顔を洗うと冷たい水が頭を働かせた。
「ふう……」
「今日は、良い天気ね」
「こんな場所で良い天気も糞もあるか」
「……そう、ね」
遠くの方で女の声が聞こえた。
声は教会から聞こえているようだ。
「今日は教会でなにかあるのか?」
「今日はお祈りの日でしょ」
「……天使か」
「なに? 後で顔出してみる?」
「はっ、まさか……。 祈って救われるのなら苦労しないさ」
「お仕事は?」
「後で酒場に行く」
「あら、わたしに会いに?」
「そんなわけあるか」
「知ってたわよ」
「なら言うな」
「冗談よ」
家に入りフアノが持ってきたパンを齧る。
「美味しい?」
「まずい」
「そ、残念」
「残念そうには聞こえん」
「そう?」
「……」
「そろそろ行くわ。 また後でね」
そうして、フアノは俺の家から出ていった。
夕暮れにアラモードに行く。
「おう、メルト」
ベンが酒をグラスに注いでいる。
店内は結構な賑わいだ。
何か注文するか?というベンの問いを手で断る。
「ロキウェルは?」
「来てるわよ、そこ」
給仕をしていたフアノが、端の席を指差す。
指さされた場所を見ると、ジャラジャラと装飾品を着けた男、政府の役人であり、俺の依頼人、ロキウェル・ベスターが手を振っていた。
「よお、座れよ」
「で、何だ?」
「依頼だよ、お仕事だ」
「それはわかってる」
声を潜めてロキウェルは言う。
「娼館街で新種の麻薬が出回ってるらしい。 こいつがかなり強力なやつでな。 ウチも困ってるわけよ」
「麻薬はご法度だからな」
「そうそ、だから、お偉いさん方が遊んでたら引っかかっちゃわないか心配でねぇー」
「麻薬の売人を捕まえればいいのか」
「殺すなよ? 情報を吐かせるからな」
ロキウェルは酒を煽る。
「飲まないのか?」
「これから仕事だってのに飲めるか」
「真面目だねー」
「効率が悪いからな」
騒がしい声を背中に受けながらアラモード出た。
崩れた瓦礫の山は薬の取引にはうってつけだ。
瓦礫の中に埋まっているのは家だったもの。
未曾有の大災害が起きたためにこの世界に残ったのはたった一つの都市だけだ。
十八年前、俺は家族を失い住んでいた街も地震で見る影も無くなった。
あの時からこの場所の時間は止まっている。
政府の連中は俺たちを見捨て、ここは封鎖された。
災害の傷跡を色濃く残す場所、そして俺の生まれた場所。
「嫌な場所だ」
物音が聞こえる。
薬の売人だろうか。二人組の男だ。
ここにくる時点で善人ではないだろう。
こんな場所は滅びの爪痕でしかないのだから。
話し声に耳を澄ます。
「今日のはすごいぞ……!」
「高い金払ってんだ、そうじゃなきゃ困る」
「エルフなんて、今じゃほとんど見やしねえ」
「へっ、昔はたくさんいたけどなあ」
「みんな奴隷か娼婦、美しい女が惨めな仕事さ」
「エルフってのは犯しても犯しても死なないからなあ……へへっ、ユルくもならないし」
「稼ぎ頭はエルフ。 そんなこともあったなあ」
「まあ、ふざけた誇りなんか捨てれば良かったんだ。 そしたら自害なんかしなかったのによ」
エルフ……?
あいつら、人身売買してるのか?
まあ、エルフを人と呼ぶのかどうかは謎だが。
また面倒なことになった。
(最悪だ)
麻薬の売買よりも厄介だ。
人身売買は当然ながら違法だ。
(麻薬の話も聞かせてもらえるかもな)
「へへっ、娼館に売ればいい商売になるぜ」
「その前に犯しとかねえか? エルフを抱く機会なんてもう無いだろうしな」
行くか……
男たちの前に姿を現す。
「なんだ、てめえ⁉」
「政府の役人か⁉」
「何でも屋だよ」
二人の男が剣を抜く。
それよりも速く後ろに回り一人目の首を折る。
「ぐぎゃっれ!」
ぐったりした男を捨て、ナイフを抜く。
「話をしようか、エルフと麻薬についてのな」
剣を持った手首を掴み、逆の腕を切り落とす。
「ひっ! あぅあぐゃる……!」
そのまま気絶させる。
「面倒事はさっさと片付けるに限る」
男が引いてきたのであろう、馬車の中には二人の影があった。
「どっちがエルフだ?」
月明かりがちょうど馬車の中に差し込む。
淡く、儚い光に照らされその影が女だとわかる。
耳を確認すると少しだけ笑ってしまった。
耳が長いのは二人ともだった。