おはるちゃん6
静男は台所に立つ春代を見つめていた。
台所からは、まな板をたたく小気味よい音が聞こえてくる。春代には確かに我が強く、独占欲のようなものがある。しかしそれは、よほど注意深く観察しなければ気付かないほどのものである。と、静男は感じていた。
「ウフ、なに見ているの? わたしの顔に何か付いている?」
春代はたくあんを小皿に盛って、こたつに入った。
「姉妹か――」
「え、なに?」
「いや、独り言さ。お春ちゃんは美人だね――」
「バカ、おかしなひとね」
静男は盃を傾けた。冷めた酒がゆるやかに喉を刺激する。
春代の言動は普通の人と変わらない。むしろ天の衣をまとい、松林を舞い踊るような優雅な立ち振舞いなどは、とても常人の及ぶところではない。
降る雨音が生活の雑音を消し去り、部屋には奇妙な静寂が漂っている。ここには、二人がじゃれ合う、他愛もない会話しか聞こえてこない。二人は酒を呑み、静男は深く酔ったと感じた。
「わたしは静男さんが好き。お義兄さんはわたしのもの」
祈祷師が呪文を唱えるように小さくつぶやき、盃に酒を満たす春代。
静男はグイと呑んだ。冷めた辛口の酒が、たやすく喉を通り胃に染み込む。酒の注ぎ方が変化したことに、静男は気が付かなかった。
電話のベルが鳴っている、静男には夢の中の出来事のように思えた。
「電話よ、出てもいい?」
「ああ、お願い」
こたつから立とうとしたその時、春代のスカートが乱れた。あらわになった太股が薄暗闇の中で、青白く妖しく光る。
静男はその美しさに言葉を失った。
露出した脚を隠すでもなく、春代は無表情に静男の顔色をうかがう。注意深くはあるが、大胆に躰をよじった。まるで、静男という男がどのように反応するか、試すかのようであった。
「はい、上柳です」
しばらくして、春代は急かされるようにして、受話器を上げた。
「まあ、お春なの。あなた、なんでそこにいるの」
「あの――。そうだ、お義兄さんにお昼のおかずを届けに来たの」
「なんでもいいわ、用が済んだらすぐに帰りなさい。なにをやってるの、いったい」
「・・・・」
「静男さんはいるのでしょう。だして、早く」
「ハイ」
秋子の声は明らかに不機嫌である。春代は青ざめた表情で、「お義兄さん電話よ、おねえちゃんから」と、受話器を差し出した。
「いま、なにしているの」
静男は後ろめたく、惨めな言い訳をした。春代はこたつの上のミカンを突いているが、その表情は硬い。
「そんなこと、どうでもいいわ。山芋をもらったの、今夜はとろろでいいかしら。あ、ちょっと。それから、帰りは少し遅くなりますから、よろしくね」
静男は「わかった、気を付けてね」と、ありきたりの返事をして、電話を置いた。
「おねえちゃん、怒っていた?」
「いや、いつもあんな風だよ。気にしなくてもいい」
静男は小さくため息を吐くと、こたつに戻った。
小さな声ではあったが「痛い」と、春代が悲鳴を上げた。こたつに入るとき、静男が春代の足を蹴ってしまったのだ。
「あ、ごめん。痛かった?」
静男は慌ててこたつの中に手をいれる。春代の太股が、意外と近くにあった。
静男の手が、春代の太股のつけ根付近に触れる。
「ダメ」
春代は両手で力いっぱい、静男の手を上から押さえつけた。
そこでふたりの動きが止まった。
春代の手が汗ばむ。静男が男の本性をむき出しにしようとしたその瞬間、春代は静男の手を払い、逃げた。
静男は部屋の隅に春代を追いつめた。春代は抵抗し、荒い息の下で意外なことを言った。
「ちょっとまって。お義兄さんはサチ子って女、知っている?」
静男は、エっと絶句して、硬直した。その隙に、春代は玄関先に逃れた。静男は慌てて後を追った。
裸足で外に飛び出すと、春代はおもてに佇んでいた。
「お、おはるちゃん」
荒れた息を整えるように、肩で息をしながら春代は言った。
「いいこと教えてあげる。サチ子さんは、うお座の女よ」
ゆっくり振り向くと、春代は表通りへと歩き出した。そして、彼女の後姿は、夕闇が迫る雑踏の中に消えた。
強い雨はいつの間にか上がり、あたりは冷たい霧雨になっている。