トゥルーエンドを解放した夜に死んだので、婚約破棄の先は未プレイです
《TRUE ENDが解放されました》
その通知と同時に、病室の消灯を知らせる音が鳴った。
長かった。五人の攻略対象を一人ずつ幸せにして、すべての要素を回収し、ようやくトゥルーエンドを解放したのだ。
けれど、その晩の私はもう、指一本動かすのにも苦労していた。
続きは明日見ればいい。
そう思って目を閉じた私に、明日は来なかった。
そして次に目を開けたとき、私は恋愛ゲーム『祝杯のお相手はお決まりですか?』の悪役令嬢、オリアーヌになっていた。
転生に気づいたのは七歳のとき。それから十二年が過ぎても、忘れられないことが一つだけあった。
私が死んだ翌日に見るはずだった、トゥルーエンドのことだ。
五つの通常ルートでは、どれを選んでも主人公である妹エロイーズが攻略対象と結ばれ、悪役令嬢オリアーヌは断罪され、画面から消えた。
なかでもクレマンルートでは、クレマンの婚約者であるオリアーヌが、聖上を迎える晩餐会で婚約を破棄される。たいへん華々しい退場だった。
その晩餐会の先で何が起きるのかだけは、十二年が過ぎた今も知らない。
オリアーヌとして十九歳になった私は、その晩餐会を翌日に控えていた。
◇◆◇
「オリアーヌ。聖上の御前で、くれぐれもエロイーズに恥をかかせるな」
帝国巡幸団を迎える朝、父が私へ最初にかけた言葉がそれだった。
三日ほとんど眠らず歓迎の支度をした娘に、ほかに言うことはないらしい。
「承知しています。私から恥をかかせるつもりはありません。エロイーズが自分で転ぶところまでは止められませんけれど」
「その口の利き方を改めろ! おまえは昔から、妹に譲るということを知らない!」
南向きの部屋も、新しいドレスも、母の形見の髪飾りも譲った。家庭教師と侍女は父が勝手に移し、婚約者は自分から妹の隣へ移った。
あと何を譲れば、私は妹思いになれるのだろう。
「お姉様、朝からお父様を困らせているの?」
階段を下りてきたエロイーズは、空色のドレスを着ていた。
胸元には、大粒の紺碧石を嵌めた首飾りが光っている。
「きれいな首飾りね。初めて見るものだけれど」
「クレマン様からいただいたの。今日のわたくしには、これくらい特別なものが必要だとおっしゃってくださったのよ」
エロイーズは石を指先で包み、私の婚約者へ笑いかけた。
クレマンは帝室の遠い傍系に生まれ、皇族籍と帝位継承権を持っている。
一族は長く地方にあり、彼自身も聖上へ拝謁したことはないが、現在の皇帝に子がないため、自分こそ次の玉座に最も近いと日頃から口にしていた。
もっとも、今の彼が最も近くに置いているのは、帝位ではなく私の妹だった。
「明日の晩餐会で、聖上へ最初の杯をお渡しするのはエロイーズだ。歓迎のために尽くした者として、私から推挙した」
「歓迎の支度をしたのは私ですが」
「君はいつもそうやって、自分の功績ばかり数え上げる! エロイーズのように、見返りを求めず人を喜ばせようとは思わないのか?」
当のエロイーズは、私が三日かけて作った部屋割り表すら見ていない。
なるほど。確かに見返りを求めようがなかった。
「明日の夜は余計なことを言わず、壁際に控えていろ。君との今後についても、大切な話がある」
クレマンの台詞も表情も、ゲームで見たものとほとんど同じだった。
婚約破棄の準備はできているらしい。
私もできている。
婚約契約では、正当な理由を公的に立証できないまま、一方的な破棄を宣言した側が責任も違約金も負う。十二年間、私を縛ってきた縄を、明日の夜は彼自身に切ってもらうつもりだった。
だから私は何も言わず、エロイーズの首元で揺れる青い石から目を離した。
◇◆◇
正午、銀角笛とともに帝国巡幸団が到着した。
先頭の白馬から下りた男性を見て、出迎えに並んだ女性たちが一斉に息を呑む。
星のように煌めく金髪。大きな琥珀色の瞳。人の警戒を解く華やかな笑顔。
ゲームの画面で何度も見た《聖上》だった。
この帝国では、即位した皇帝の個人名を臣下が口にせず、公文書にも御名は記されず、皇帝の印だけが押される。聖上は公の場へほとんど姿を見せず、その顔を間近に知る者もごく一部に限られる。だから地方で暮らす私も、皇帝の御名を知らず、ただ聖上と呼んでいた。
帝国は長く平穏で、近年の巡幸は地方の暮らしを知るための視察を兼ねた祝い事になっていた。
「出迎えを嬉しく思う。堅苦しい礼は減らし、皆と近く言葉を交わしたい」
彼が告げると、父とクレマンが競うように頭を下げた。
エロイーズは頬を染めている。どうやら、聖上が自分に微笑んだと受け取ったらしい。
けれど、私が見ていたのは聖上ではなかった。
その半歩後ろで、到着時刻を手帳へ記している随行書記官だった。
光を吸う黒髪。深い紺色の瞳。切れ長の目元では、縁なし眼鏡の細いブリッジだけが銀色に光っている。
帝都では、明るい髪と大きな目を持つ華やかな男性が好まれる。彼のような暗い色彩と鋭い目元は、造作が整っていても地味だと片づけられていた。
私の好みは、帝国の流行とたいへん仲が悪いらしい。
彼の名はシルヴェリオ。
ゲームにも登場していた。ただし攻略対象ではない。画面の端で記録を取り、ときどき的確な助言をするだけの脇役だ。
前世の私は、出てくるたびに惜しいと思っていた。
なぜ、この顔を攻略できないのかと。
視線に気づいたらしく、シルヴェリオが手帳から顔を上げた。
まともに目が合った。
彼は一瞬だけ眉を上げると、歓迎の列が解散したあと、まっすぐ私のところへ歩いてきた。
「聖上付きの書記官を務めております、シルヴェリオです。歓迎の実務を取りまとめた方を探していたのですが、あなたで間違いありませんか?」
「オリアーヌと申します。名目上の責任者は妹のエロイーズですが、必要なことは私へお尋ねください」
「やはり、あなたでしたか。到着してから、指示を求める使用人が全員あなたのところへ走っていました」
人の動きをよく見ているところは、ゲームと同じだった。
私が黙っていると、シルヴェリオが少しだけ首を傾けた。
「先ほどから私の顔を熱心にご覧になっていますね。長旅の間に、何か余計なものでもついたでしょうか?」
「いいえ。たいへん好みの顔だと思って見ていました」
正直に答えると、縁なし眼鏡の奥で紺色の瞳が瞬いた。
「ずいぶん迷いのないお答えですね」
「誤解なさらないでください。私は婚約中ですので、今のところは純粋な感想です」
「『今のところ』という部分だけは、聞き流さなくてもよいのでしょうか?」
「そこだけ拾うのは、書記官として公平ではないと思います」
シルヴェリオは声を立てずに笑った。
切れ長の目尻がわずかに下がる。
困った。
その顔は、立ち絵よりもよほどよかった。
「安心してください。婚約中の方へ手を伸ばす趣味はありません。ただ、今日いただいた感想の中では、いちばん嬉しかった。忘れずにおきます」
「できれば、少しは忘れてください。自分で申し上げておきながら、急に恥ずかしくなってきました」
「それは難しい注文です。私の仕事は、見聞きしたことを残すことですから」
そう言って、彼は私から客室の鍵を受け取った。
指先が触れただけなのに、その冷たさまで覚えられてしまいそうな気がした。
◇◆◇
次の滞在地へ向かう街道が崩れ、先発するはずだった十二人の随行官も、予定を変えてこの屋敷へ泊まることになった。
空き部屋はどうにか作れたが、一人分だけ毛布が足りない。
私は自室から紺色の毛布を持ち出し、厨房で豆と鶏肉の煮込み、黒パン、熱い紅茶を盆へ載せた。
巡幸団からは、名簿上の身分どおりに扱うよう求められていた。
身分の高い者から部屋を割り振り直した結果、最後の一室へ回されたのは、随行団の名簿上、最も身分の低い書記官だった。
夜半近くに扉を叩くと、シルヴェリオは上着を脱いだ姿で現れた。
白いシャツの袖を肘まで折り、机には各地から集めた報告書が積まれている。眼鏡のレンズが、燭台の光を淡く返した。
「到着早々、顔を褒められ、今夜は寝具と夕食まで届けていただけるのですか。地方巡幸がこれほど恵まれたものだとは知りませんでした」
「本来なら、どちらも到着したときに用意されているべきものです。遅くなって申し訳ありません」
私が頭を下げると、彼の冗談めいた表情が消えた。
「あなたが謝ることではありません。急な予定変更をお願いしたのはこちらです。それに、この毛布はあなたのものですね」
「どうして分かったのですか?」
「客用の品にしては、端の刺繍が丁寧すぎます。何度も洗われ、きれいに繕われている」
幼い頃、母が私の名前の頭文字を刺してくれたものだった。
隠すように畳んだつもりだったのに、彼は見つけている。
「受け取ってください。客人を寒い部屋へ寝かせて、自分だけ暖かく眠るほうが落ち着きません」
「では、お借りします。その代わり、その夕食をここで半分食べてください。あなたはまだ何も口にしていないでしょう」
「どうして、それまで分かるのですか?」
「夕食を済ませた人は、煮込みの匂いを前にして、そのような顔をしません」
どのような顔かは教えてくれなかった。
扉は開けたままにし、廊下には侍女を待たせていた。私はシルヴェリオの向かいへ座り、分けてもらった黒パンを受け取った。
彼はきっちり半分に切ったつもりらしいが、私のほうが少し大きい。
「シルヴェリオ様は、人を見るのがお仕事なのですか?」
「書類より、人のほうが肝心なことを隠すのが上手ですから。あなたも、何かを待っていますね」
私の左手へ、彼の視線が落ちた。
「明日の晩餐会で、クレマンが私との婚約を破棄します」
「それを悲しんでいるようには見えません」
「十二年もあれば、悲しみ終えるには十分でした。私から解消すれば家に責任が生じますが、彼が聖上の御前で言い出せば、言葉と一緒に責任も持ち帰ってもらえます」
「だから、止めずに待っているのですね」
「ええ。明日の私は、婚約者に捨てられる予定なので」
シルヴェリオは笑わなかった。
「恥をかくのはクレマンです。今日、誰が働いていたかは私が見ています」
思わず、パンを持つ手が止まった。
彼は慰めるのではなく、今日見た事実だけでクレマンを切り捨てた。
「顔以外まで好ましいと思わせるのは、今夜はお控えいただけますか? まだ指輪が外れていません」
「努力します。ただ、今日一日、ほかの誰かのために走り回り、最後にはご自分の食事と毛布まで差し出す方を、好ましく思うなというのは難しい注文です」
彼は紅茶のカップを私の手元へ寄せた。
「手が冷えています。まずは飲んでください。私へ向けたお気遣いの、半分くらいはご自分へ戻すべきです」
カップを受け取るとき、また指先が触れた。
今度はどちらも、すぐには離さなかった。
「明日の晩餐会が終わったあと、少しだけ残っていただけますか?」
「書記官として、婚約破棄の記録を確認なさるのですか?」
「いいえ。今は申し上げられないことを、指輪が外れたあとでお話ししたいのです」
静かな声なのに、見つめ方は少しも曖昧ではなかった。
「分かりました。明日の夜は、見ないふりをせずに伺います」
シルヴェリオは、昼間よりも深く笑った。
その夜、私が眠れなかったのは、毛布を手放したせいではなかった。
◇◆◇
翌夜、大広間には地方貴族と帝国巡幸団が集まっていた。
私は母が遺した深緑のドレスを着て、聖上から離れた壁際に立っていた。すぐ脇の卓には、乾杯用の杯と葡萄酒が用意されている。どちらも晩餐前に、巡幸団の随行医が検査を済ませていた。
その斜め向かいにシルヴェリオがいる。
ほかの書記官と同じ黒い正装。同じように目立たない立ち位置。それでも一度見つけてしまえば、私の目には彼だけが妙にくっきりと映った。
視線が重なる。
シルヴェリオは私の左手を見てから、わずかに眉を上げた。
まだ指輪があることを確認したらしい。
晩餐が始まる前、クレマンが広間の中央へ進み出た。
「陛下。皆様にもお聞き届けいただきたいことがございます。私は今夜、オリアーヌとの婚約を破棄いたします!」
来た。
前世では画面越しに何度も見た場面なのに、自分へ向けられると声の大きさまで迷惑だった。
「彼女はエロイーズを妬み、歓迎の功績を独り占めしようとしました。誰かを立てる心を持たない女を、皇族の妻にはできません。私は、慈愛深いエロイーズと生きることを選びます!」
父が満足そうに頷き、エロイーズは目元へ指を当てた。
涙は出ていない。
「オリアーヌ。言い分があるなら聞こう」
勝ち誇った顔で、クレマンが私を見た。
「婚約破棄を承りました。今のお言葉は聖上をはじめ、こちらにいるすべての方が聞いています。明日になって、言い方を間違えたとはおっしゃらないでくださいね」
「後悔して縋っても遅いと言っているんだ!」
「ええ。そうならないよう、お互い気をつけましょう」
私は指輪を外し、すぐ脇の卓上へ置いた。
胸の奥に十二年引っかかっていたものが、驚くほど簡単に抜けていく。
顔を上げると、シルヴェリオがこちらを見ていた。
その視線が、今度は指輪のなくなった左手に止まる。
先ほどまでと同じ距離なのに、彼との間から一枚の扉がなくなったように感じた。
前世で知っている場面は、ここまでだった。
ゲームではクレマンとエロイーズの笑顔が映り、そのまま画面が暗転してエンドロールへ入る。
ここから先は、私にとって初めてだ。
「祝いの場を騒がせてしまいましたわ」
エロイーズが聖上の前へ進み出た。
「せめて、心を込めた乾杯の杯をわたくしからお渡ししてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ。今夜の働きに感謝する」
華やかな聖上が、エロイーズへ微笑みかける。
エロイーズは私のすぐ脇まで戻り、こちらへ半分背を向けて卓上の銀の盆から杯を取った。手元を隠したつもりなのだろうが、首元は横からよく見えた。
随行医の検査が終わってから、エロイーズが胸元の石へ触れるのは、これでもう三度目だった。
クレマンが見ていたのは聖上ではなく、エロイーズの首元だった。
その斜め向かいで、シルヴェリオが手帳を閉じた。
葡萄酒を注ぎ終えると、香りを確かめるように杯へ身を屈める。胸元から垂れた紺碧石が、杯の真上へ揺れた。
石を包んだ親指が動いた。
青い石が、瞼のように横へずれた。
首飾りの裏に小さな空洞が開き、透明な雫が一滴、杯の中へ落ちる。
石は音もなく元の位置へ戻った。
見ていなければ、ただの首飾りにしか見えない。あまりに迷いのない動作だった。
最初に浮かんだのは、葡萄酒へ香りを添えるための香料ではないかという考えだった。
地方によっては、祝いの杯に花の香りを加えることもある。透明な雫を見ただけで、それが危険なものだと決めつけることはできない。
けれど、香料なら、どうして首飾りの中へ隠す必要があるのだろう。
なぜ、随行医の検査が終わったあとに、誰にも見られないよう加えるのか。
エロイーズは何もなかった顔で聖上のもとへ戻り、杯を差し出した。
聖上がそれを受け取り、口元へ運ぶ。
あの雫が毒だという証拠はない。
それでも、飲ませてから確かめることだけはできなかった。
シルヴェリオはすでに聖上の傍らへ着き、その耳元へ短く何かを告げた。
私も、ほとんど同時に声を上げた。
「陛下、その杯を飲まないでください! エロイーズが首飾りから何かを入れました!」
楽師の弓が、弦の上で止まった。
聖上の唇へ届く寸前で、杯が止まる。
金髪の聖上の顔から、華やかな笑みが消えた。
彼は杯を卓上の銀の盆へ戻した。
一瞬だけシルヴェリオを振り返り、それから帝国兵へ向き直る。
「扉を閉めろ。誰も広間から出すな。杯と葡萄酒を確保し、エロイーズを卓から離せ。首飾りには触れさせるな」
聖上の命令が終わるより早く、帝国兵が動いた。
二人が広間の扉を閉ざす。エロイーズの手が胸元へ走るより早く、女性の帝国官がその両手を押さえ、卓から引き離した。別の兵士が杯と葡萄酒を銀の盆ごと引き取り、随行医を呼び寄せた。
地方貴族たちは突然の出来事に動けず、黒衣の書記官から短い進言を受けた聖上と、慣れた様子で広間を封鎖する兵士たちを交互に見ていた。
シルヴェリオは元の位置へ戻り、手帳を開き直した。先ほどまでと同じ随行書記官の顔で、広間の動きを一つずつ記録している。
聖上は杯と葡萄酒が確保されたのを見届け、随行医へ命じた。
「まず、何を入れたのか確かめろ」
「違います!」
クレマンが、待っていたように私を指さした。
「毒を用意したのはオリアーヌです!」
広間が静まり返った。
聖上の琥珀色の瞳が、クレマンへ向けられた。
「私はまだ、毒とは言っていないが」
クレマンの指先が揺れた。
「そ、それほど怪しいものなら、毒と考えるのが当然でしょう!」
「そうか。では、続きを聞こう」
「葡萄酒も杯も、すべて彼女が用意しました! 私が婚約を終えるつもりだと知って、検査のあとで杯へ毒を混ぜたのです! 今になって、エロイーズへ罪をなすりつけようとしている!」
「さようでございます! 歓迎の品を管理していたのは、すべてオリアーヌです!」
父は確かめるより先に、クレマンの言葉へ飛びついた。
聖上が片手を上げると、女性官はエロイーズの両手を押さえたまま告げた。
「首飾りを外してください。中を確かめます」
「嫌です! これはクレマン様から贈られた大切な品ですわ!」
「エロイーズ、黙って渡せ! 従わなければ、かえって怪しまれる!」
女性官はエロイーズの背後へ回り、首飾りを外した。
巡幸団の随行医が紺碧石を横へ滑らせる。裏の空洞には、まだ透明な液体が残っていた。
細い検毒紙が、触れた途端に黒く染まる。
別の紙が杯へ浸され、同じ色へ変わった。
「杯と首飾りから、同じ種類の毒が検出されました。一滴でも命を落とす毒です」
背中を冷たいものが走った。
私は毒だと見抜いたわけではなかった。ただ、説明のつかないものが入った杯を飲ませまいとしただけだ。
もし、エロイーズの指先が石を隠していたら。
もし、香料だろうと自分を納得させていたら。
目の前の華やかな男性は、今頃もう立っていなかったかもしれない。
続いて葡萄酒も改めて調べられたが、そちらからは毒が出なかった。晩餐前の検査結果とも一致している。
毒が入ったのは、杯へ注がれたあとだ。
エロイーズの顔から血の気が引いた。
聖上が、黒く染まった検毒紙へ一度だけ目を落とす。
「これで、何を入れたのかは分かった。次は、誰の命を奪うつもりだったのか、誰が命じたのかを聞こう」
「私はクレマン様に言われたとおり、石を動かしただけです! 聖上さえいなくなれば、クレマン様が皇帝になれるとおっしゃったではありませんか!」
「皇妃になりたいとせがんだのはおまえだろう! オリアーヌなら疑われると言い出したのも、おまえだ!」
互いを選んだはずの真実の愛が、毒より早く崩れていく。
聖上は二人が黙るまで待ってから、静かに告げた。
「皇帝を殺して玉座を得ようとしたことは、今の自白で十分明らかになった。計画が失敗しても、その殺意まで消えるわけではない」
クレマンの膝が崩れた。
「陛下、お待ちください! 私は帝国の未来を考えただけです! オリアーヌ、君からも説明してくれ! 十二年も婚約していた君なら、私が本気で人を殺せる男ではないと分かるだろう!」
「今さら私へ戻ってこないでください。あなたが十二年で初めて、私の望みどおりにしてくださったのが、先ほどの婚約破棄なのですから」
「あれは間違いだった! 君との婚約を元へ戻せば、陛下も――」
「明日になって言い方を間違えたとおっしゃらないよう、先ほどお願いしましたよね?」
冷ややかな視線が、いっせいにクレマンへ集まった。
エロイーズが今度は私へ手を伸ばした。
「お姉様、助けて! わたくしは騙されただけなの。昔のように、今回もわたくしへ譲ってくださるでしょう?」
「ドレスや部屋なら、これまでのように譲れたかもしれません。でも、その首飾りの中身まで姉のものにはできません」
伸ばされた手が、宙で止まった。
父は家族内の行き違いだと訴えたが、毒を入れた首飾りと、たった今交わされた二人の自白がある。
家族という言葉で包むには、どれも形が悪すぎた。
聖上の命令で、クレマンとエロイーズは別々の扉から連れ出された。
二人は姿が見えなくなるまで、どちらが先に毒殺を言い出したのかを争っていた。
◇◆◇
予備の取り調べと証拠の封印が終わるころには、夜半を過ぎていた。
音楽も人いきれも消えた大広間に続く小応接室で、私は待っていた。
昨夜、約束したからだ。
あれほどの騒ぎのあとでも、聖上付きの書記官との約束が有効なのかは分からなかった。
最後の兵士が扉の外へ下がると、シルヴェリオが私の前へ歩いてきた。
黒い正装も、縁なし眼鏡も、昨夜と何も変わらない。
口を開こうとしたとき、扉が二度叩かれた。
「入れ」
シルヴェリオの返事に続いて入ってきたのは、金髪の聖上だった。
私が慌てて礼を取ろうとすると、聖上は問いかけるようにシルヴェリオへ目を向けた。
シルヴェリオが小さく頷く。
「構わない。彼女には明かす」
その言葉を受け、聖上がシルヴェリオの前へ片膝をついた。
「陛下。クレマンとエロイーズの拘束、証拠の封印、予備の取り調べを終えました」
意味を理解するまでに、ほんの一呼吸かかった。
「ご苦労。立て、フロリアン。医師の診察は?」
「異常はございません」
それを聞いたシルヴェリオの肩から、わずかに力が抜けた。
立ち上がった金髪の男性が、私へ向き直った。
「改めまして、フロリアンです。皇帝陛下の側近を務めています。広間では陛下の代理として、皇帝の役を演じておりました」
シルヴェリオが黒い正装の襟元から、細い鎖を引き出した。その先には、親指ほどの黒い印章が下がっている。
翼を広げた双頭の鳥と、その胸に刻まれた一つの星。
歓迎のために届いた勅書に押されていた、皇帝ただ一人の印だった。
御名が記されない帝国で、その印だけが皇帝の意思を証明する。模造は、それだけで反逆罪に問われる。
重くなった空気を和らげるように、フロリアンが尋ねた。
「今宵の私は、うまくやれていたでしょうか」
シルヴェリオはようやく印章から手を離した。
「よくやった。あの場を任せられるのは、おまえだけだ。さすがだな、フロリアン」
「それなら、満点をいただけますか」
「一つだけ。私が耳打ちしたあと、こちらを見返したな」
「……お気づきでしたか」
「難しい判断の前に私を見る癖は、昔から変わらない」
「やはり、陛下の目はごまかせませんね」
フロリアンが苦笑する。
思い返せば、ゲームの《聖上》は難しい問いへ答える前に、画面の端へ一度だけ目を向けることがあった。
シルヴェリオが助言したあとで、《聖上》の方針が決まった場面も一度や二度ではない。
私はそれを、優秀な補佐役を示すための演出だと思っていた。
けれど、あれは助言ではなかった。
皇帝自身の判断を、フロリアンが表で伝えていたのだ。
ゲームで《聖上》だった金髪の男性は、フロリアンという側近。
どの場面にもいた地味な書記官こそ、本物の皇帝だった。
おそらく、これが私の見られなかったトゥルーエンドで明かされるはずだった真相だ。
「随行医の検査が終わったあと、クレマンが見ていたのはフロリアンではなく、エロイーズの首元でした。彼女も同じ場所へ何度も触れていた。何かを仕掛けると察し、フロリアンには杯へ口をつけないよう伝えました。ただ、私の位置からは、彼女が何を使ったのかまでは見えなかった」
「けれど、声を上げるまで迷いました。香料かもしれないと思っていたのです」
「それで十分です。飲ませてから確かめるわけにはいかない。あなたが見たものを声にしてくださったから、迷わず首飾りまで押さえられた。私だけでは杯は止められても、彼女に証拠を処分する隙を与えていたかもしれません」
フロリアンも私へ深く頭を下げた。
「私が杯へ口をつける前に止めてくださり、ありがとうございました」
「フロリアン。おまえに表を任せる視察は、今夜で終わりだ」
「私は、自分の意思で引き受けた役目です」
「それでも、続けるつもりはない。これまでの巡幸は平穏で、襲撃など一度もなかった。だが、その前提は今夜なくなった。視察のために、最も信頼する友人の命まで使うつもりはない」
フロリアンの琥珀色の瞳が、わずかに和らいだ。
「承知しました、陛下」
シルヴェリオが、今度は私へ向き直る。
「正式に姿を公にするのは、証拠と証言を帝都へ送り、混乱を収めてからです。それまでは、今夜知ったことを口外しないでいただけますか?」
「もちろんです。でも、私に明かしてよかったのですか?」
「もうフロリアンを表に立たせることはありません。それに、身分を偽ったまま、昨夜のお話の続きをするつもりはありません」
フロリアンはもう一度私へ礼を告げ、部屋を出ていった。
扉が閉じると、張りつめていたものが切れたのか、シルヴェリオの右手がわずかに震え始めた。
皇帝の座が狙われたことより、友人を危険にさらしたことのほうが、彼にはよほど堪えていた。
私は震えの残る手を取った。
「フロリアン様は、無事にここへ戻っていらっしゃいました。反省は明日になさってください。今夜はまず、安心してもよいと思います」
紺色の瞳が、重ねた手から私の顔へ上がった。
「皇帝の反省を明日へ延ばす権限は、どの官職に付いているのですか?」
「今だけ、毛布を貸した者の権利ということにしてください」
「そのままでいてください。今は、とても助かります」
指がゆっくり動き、彼のほうから私の手を握り返した。
触れている場所だけが熱を持つ。
「昨夜、今は申し上げられないことがあるとお話ししました」
「皇帝であることですか?」
「それは、視察が終わるまで明かせなかったことです。昨夜、あなたの指輪が外れたあとでお話ししたいと思ったのは、もう一つのほうです」
シルヴェリオの視線が、何もなくなった私の左手へ落ちる。
「皆がフロリアンを見ていた中で、あなただけが私を見ていました。最初は、正体を疑われたのかと思ったのです」
「申し訳ありません。見ていたのはお顔でした」
「それは聞きました。けれど、そのあとであなたが誰を見て、何をしていたかも、私は見ていました」
彼が私の手を握る力を、ほんの少し緩めた。
離れようと思えば、いつでも離れられるように。
「あなたが私を見るたび、私もあなたを見ていました。ただ、まだ二日です。これを恋と決めつけ、あなたにも同じものを求めるほど性急にはなりたくありません」
あまりに真面目に言うので、私は少しだけ目を見開いた。
「昨夜のお言葉から、もっと違うことを想像していました」
「失望なさいましたか?」
「いいえ。むしろ、顔以外まで好ましいと思う理由が増えました」
「それは安心しました」
シルヴェリオがわずかに笑う。
「今の私は、あなたに強く惹かれています。これからも会いたい。あなたにも、書記官でも皇帝でもない私を見ていただきたい。その機会をいただけませんか?」
私は前世から、彼を知っているつもりでいた。
けれど、私が知っていたのは、決められた台詞と画面の端に置かれた立ち絵だけだ。
黒パンを私のほうへ少し大きく分けることも、友人のために手を震わせることも、私へ返事を急がせまいとすることも知らなかった。
目の前にいるシルヴェリオは、まだほとんど未読だった。
「私も、あなたをもっと知りたいです。顔以外に気になるところが、もういくつか増えていますから」
「それを一つずつ教えていただけますか?」
「すぐに全部お教えしたら、次にお会いする理由がなくなってしまいます」
「では、まずは次に会う約束だけいただけますか?」
「次も、そのお顔で来てくださるなら」
「顔以外も増やすつもりで伺います」
彼は私の左手を取る前に、問いかけるようにこちらを見た。
私は手を引かなかった。
指輪の跡が残る薬指へ、唇がそっと触れる。
口づけは短かったのに、離れたあとも熱だけが残った。
「続きは、あなたが明日も望んでくださったら」
「明日まで待たなければいけませんか?」
思わず尋ねると、シルヴェリオの目が見開かれた。
珍しく、彼のほうが言葉に詰まっている。
「今の質問は忘れてください。婚約を解消したばかりで、少し気が緩んでいるようです」
「できません。見聞きしたことを残すのが、私の仕事ですから」
同じ言葉を返され、私は笑った。
今度の明日は、目を閉じてもなくならない気がした。
◇◆◇
私は事件の翌朝、父の屋敷を出て、領都で暮らす母方の叔母のもとへ身を寄せた。
クレマンとエロイーズは、拘束されて三日目に、毒殺を考え出したのは相手だという申立書をそれぞれ提出した。
彼らが誇っていた真実の愛は、署名と印章つきで双方から否定されたことになる。
後日の裁定で、二人には重い処分が下された。
クレマンは皇族としての身分と帝位継承権を剥奪され、北の砦へ終身幽閉となった。皇帝になろうとした結果、皇族の身分まで失ったのである。
エロイーズも暗殺未遂の実行犯として、南の塔へ終身幽閉となった。皇妃になるため身につけた紺碧石は、反逆罪の物証として封印された。
父は暗殺計画を知らなかったため、反逆罪には問われなかった。
しかし、暗殺犯の言い分へ即座に便乗し、事件を止めた私へ罪を着せようとした責任を問われ、帝都への出入りを禁じられた。
裁定後、父から届いた最初の手紙に書かれていたのは、私への謝罪ではなく、エロイーズの刑を軽くするよう陛下へ頼めという命令だった。
私は返事を出さなかった。父の言うとおりに妹へ譲る娘は、あの晩、あの家へ指輪と一緒に置いてきた。
シルヴェリオは約束どおり、事件から十日後に会いに来た。
今度は誰の後ろにも隠れず、本物の皇帝として。
彼が姿を公にすると、暗い色彩と切れ長の目は、たちまち「怜悧で気品がある」顔立ちの見本になった。帝都の流行は、御触れより素早く変わるらしい。
「急に皆様からお顔を褒められるようになりましたね」
「私の顔は、十日前と変わっていないはずですが」
「変わったのは、見る方々の目でしょう。私は書記官として現れたときから見つけていましたので、一番乗りは譲りません」
「それなら、最後まで見ている権利も予約していただけますか?」
「予約だけでしたら。正式なお返事は、顔以外をもっと確かめてからにいたします」
シルヴェリオは不満を言わず、確かめる時間をくれた。
その日、彼が最初に差し出したのは宝石でも花束でもなく、巡幸記録の草稿だった。
「歓迎の実務について、記録に誤りがないか見ていただきたいのです」
書類の冒頭には、部屋割りから食料の調達、急な宿泊者への対応まで、私が行った仕事が並んでいた。
父とクレマンがエロイーズの功績だと言い張った仕事も、すべて私の名で記録されていた。
「ずいぶん詳しく書かれていますね」
「誰が働いていたかは見ていると、あの晩申し上げたでしょう」
私は最後まで目を通し、いくつかの名前が抜けていることに気づいた。
「厨房を取りまとめた料理長と、夜中に寝台を運んだ使用人、それから不足した食器を貸してくれた宿屋の女主人も加えてください。私一人で行ったことではありません」
「ご自分の働きについて、減らしてほしい箇所はないのですか?」
「事実なら、そのままで結構です。していないことまで書かれるのは困りますが、したことを妹へ譲るつもりもありません」
シルヴェリオは声を立てずに笑い、私が挙げた名前を一人ずつ手帳へ記した。
「あなたが何を自分のものとし、何を人へ返すのか、少し分かった気がします」
「私を調べるために、記録を持ってきたのですか?」
「記録を確かめていただくついでに、あなたのことも少し知りたかっただけです」
「皇帝陛下は効率がよろしいのですね」
「あなたに会うことに関しては、使える理由を無駄にしたくありません」
それから私たちは、数日おきに手紙を交わした。
シルヴェリオの手紙は、視察で気づいたことや帝都で起きたことから始まり、最後の数行だけが私個人へ向けられていた。
今日は食事を抜かなかったか。
叔母の家では眠れているか。
領都の市場で見つけたという本は面白かったか。
短い問いばかりなのに、適当な返事を許さないところが書記官らしかった。
私も、取り繕わずに答えるようになった。
よく眠れた日は眠れたと書き、父から手紙が届いて食事を残した日は、そのことも書いた。
何もかも自分一人で片づけようとしていると、手紙の行間から見抜かれることもあった。
父が母の遺品を返そうとしないと知ったとき、シルヴェリオは皇帝の命令一つで取り戻せると言った。
「私の代わりに決めないでください」
私がそう答えると、彼は言い訳をしなかった。
「分かりました。では、どこまでなら手を貸してよいですか?」
「帝都の法に詳しい方を紹介してください。返還を求めるのは、私自身の名で行います」
「承知しました。それ以上は、あなたが望むまで何もしません」
彼は本当に、それ以上のことをしなかった。
紹介された法務官は私の代理ではなく助言者として働き、母の遺品は正式な手続きを経て戻ってきた。
箱の中には古い本と裁縫道具、それから紺色の毛布に使われたものと同じ刺繍糸が残っていた。
シルヴェリオは、忙しい合間を縫って何度も会いに来た。
私が困っていても、彼は勝手に解決せず、まず私の意思を確かめた。
私も彼を、何でも解決してくれる皇帝としてではなく、一人の人間として見るようになった。
人前では隙のない彼が、二人で話しているときには眼鏡を外して眉間を押さえ、疲れたと正直に言う。
政務で判断を誤った日は、取り繕わずに悔しがった。反対意見を述べた臣下の言葉が正しければ、自分の判断を改め、その経緯まで記録へ残した。
ある日、いつもより口数が少ないことへ気づき、理由を尋ねた。
「今日は、少し疲れました」
彼はためらったあと、それだけを言った。
「では、今日は何もお話しにならなくて結構です」
「せっかく会いに来たのに?」
「会うたびに、何か立派なことを言わなければならない決まりはありません」
私たちは同じ卓で紅茶を飲み、しばらく何も話さなかった。
帰り際、シルヴェリオは、今日がいちばん休めたと笑った。
あの晩に貸した紺色の毛布は、返してくれなかった。
「返却を忘れていませんか?」
「忘れてはいません。あなたに会いに来る理由を一つ、私の手元へ残しているだけです」
そう言いながら、訪ねてくるたびに毛布を持参しては、帰りにまた持ち帰る。
どうやら、一度きりの理由で済ませるつもりはないらしい。
◇◆◇
半年後、私は彼に前世のことを話した。
この世界が、私のいた世界では物語だったこと。
五つの結末を見た夜、隠された結末が開いたこと。
続きを始める前に死んだこと。
話しているうちに、声が震えた。
死んだ瞬間より、「明日が来なかった」と口にしたときのほうが怖かった。
シルヴェリオは途中で遮らず、私の手を握っていた。
「信じてくださるのですか?」
「半年かけて知ったあなたが、これを冗談に使わないことは知っています」
彼は重ねた手を離さないまま、静かに尋ねた。
「あの夜、明日まで待たなければならないのかとおっしゃったのは、そのためですか?」
「たぶん。あのときの私は、明日を楽しみにすることが、少し怖かったのだと思います」
「それでも、私と次に会う約束をしてくださった」
「あなたには、もう一度会いたいと思いましたから」
握られた手に、ほんの少し力がこもった。
「あなたの知っていた物語で、私はどのような男でしたか?」
「画面の端で記録を取る書記官でした。私はあなたが出てくるたびに、どうしてこの顔を攻略できないのかと残念に思っていました」
「死を越えた秘密を打ち明けるときでさえ、最後はやはり私の顔へ戻ってくるのですね」
「私にとっては大切なことです。あなたを最初に見つけた理由ですから」
シルヴェリオは笑い、それから私の手へ額を寄せた。
「半年前、私は二日で抱いた気持ちを恋と決めつけたくないと申し上げました」
「覚えています。たいへん慎重な方だと思いました」
「今は、もう早すぎるとは思いません」
彼が顔を上げる。
「あなたが怒るときほど静かに話すことも、誰かへ譲ったものを恩として数えないことも、自分の人生を他人へ決めさせないことも知りました。助けを拒むのではなく、受け取る範囲を自分で選ぶことも」
縁なし眼鏡の向こうにある紺色の瞳が、まっすぐ私を見ていた。
「あなたがどの世界から来たとしても、私が愛しているのは、今ここで自分の続きを選んでいるあなたです」
胸の奥に、ゆっくりと熱が広がった。
私も半年をかけて、画面の端にいた書記官ではない彼を知った。
人の働きを正しく記録し、間違えれば書き直し、友人を大切にし、疲れたときには疲れたと言える人。
顔から始まった気持ちは、もう顔だけでは到底収まらなくなっていた。
「あなたが遊んだどの結末にも、今の私たちはいなかったのでしょう。それなら好都合です。これから私がすることは、一つも既読ではない」
シルヴェリオは私の手を取り、指先へ唇を寄せた。
「未読のまま、お答えください。私と結婚していただけますか?」
前世の記憶にも、ゲームの筋書きにも、答えは書かれていない。
だから私は、自分で選んだ。
「はい。あなたの隣で、この物語の続きを知りたいです」
その夜の口づけには、もう明日まで待つという断りはつかなかった。
◇◆◇
事件から一年後、私たちは結婚した。
婚礼を終え、二人きりになった寝室には、あの紺色の毛布が掛けられていた。
皇帝の寝台へ載せるには古く、端に縫われた私の頭文字も少しほつれている。
けれどシルヴェリオは、帝室の紋章が入った新品より、こちらを寝台の中央へ掛けさせた。
私は前世で、ただ一つだけ心残りがあった。
それは、あの物語のトゥルーエンドを見られなかったことだ。
けれど今は、もう心残りではない。
あの物語とは違う結末かもしれない。それでも、これが私の選んだトゥルーエンドだから。
私がその顔を見つめていることに気づき、シルヴェリオは縁なし眼鏡を外した。
「今夜は、お好きなだけ」




