明日の遠回り
娘の凪を保育園へ迎えに行くのは、卒園まであと二十七回だった。
園から家までは、近道なら八分。けれど、私たちはいつも二十分以上かけて帰った。
青い郵便ポストに触る。錆びた塀の染みをキリンと呼ぶ。パン屋の換気扇から流れてくる甘い匂いを吸い込み、小さな橋の継ぎ目を三つ、両足で跳び越える。
凪はそれを「遠回りの儀式」と呼んでいた。
「今日も全部やるからね」
そう言って差し出される手は、まだ私の手のひらにすっぽり収まった。
一回目。二回目。
数え始めると、毎日の帰り道が、少しずつ減っていく砂時計のように思えた。
小学生になっても、一緒に帰ることはあるだろう。休日には散歩だってできる。分かっている。それでも、夕方五時に園の門を出て、今日のおやつや、誰が泣いたかや、折り紙の犬がどうして猫になったのかを聞く時間は、三月で終わる。
終わると気づいただけで、まだ目の前にある時間まで寂しくなった。
風の強い日も、買い物袋が重い日も、全部の儀式をした。凪の話は途中で何度も飛び、登場人物が増え、昨日と今日が混ざった。私は分からないまま相づちを打ち、ときどき二人で笑った。
ある雨の日、仕事の電話が長引いた。夕食の支度も遅れていた。
「今日は近道で帰ろう」
凪は「うん」と言い、長靴で私の横を歩いた。郵便ポストのある角を曲がらず、橋にも寄らなかった。家に着くまで、凪は一度も水たまりを踏まなかった。
玄関で靴を脱ぎながら、小さな声で尋ねた。
「遠回り、嫌いになった?」
私は急いで首を振った。
嫌いになったのではない。いつでもできると思って、今日の一回を雑に扱っただけだった。
それは、二十三回目の帰り道だった。残りは四回。
翌日から、私たちはまた遠回りをした。
二十四回目。二十五回目。二十六回目。
卒園式の日は、二十七回目だった。
門を出た凪は、私の手を取らなかった。
「もう一年生になるから、一人で歩ける」
「そっか」
私は空いた手をコートのポケットに入れた。
最後なのに、と思った。でも、最後だからつないでほしいと言うのは、大人の都合のような気がした。
青い郵便ポストを過ぎ、錆びたキリンを過ぎた。パン屋の前で、凪は大きく息を吸った。やがて橋に差しかかると、三つ目の継ぎ目の手前で立ち止まった。
そして振り返り、黙って手を差し出した。
「一人で歩けるんじゃなかったの?」
「歩けるよ。でも、一緒にも歩けるでしょ」
私はその手を握った。
二十七回目につないだ手も、まだ私の手のひらに収まった。
橋を渡りきるまでに、視界が少しにじんだ。
「保育園の道、なくなっちゃうね」
私が言うと、凪は不思議そうに見上げた。
「なくならないよ。明日からは、学校の道も歩くんだよ」
その言葉のとおり、道は増えた。
小学校への道。習い事から帰る道。部活帰りの凪を、駅まで迎えに行った夜道。
中学生になったある夜、腹を立てた凪が玄関の扉を強く閉めた。私は暗い廊下に一人で残された。あんなに小さかった手が、こんなに強い音を出すようになっていた。
それでも翌朝、食卓には二人分のパンが並んでいた。
十三年後、凪は家を出ることになった。
遠くの大学に進み、初めて一人で暮らす。駅へ向かう朝、凪は大きな鞄を引きながら、突然、懐かしい角を曲がった。
「電車、間に合う?」
「大丈夫。最後に遠回りの儀式をしておこうと思って」
青い郵便ポストは新しくなり、錆びた塀は白い家に変わっていた。パン屋だけは残っていて、あの頃と同じ甘い匂いがした。凪は照れたように一度だけ深呼吸した。
小さな橋は、驚くほど短かった。
凪は継ぎ目を跳ばず、ゆっくり歩いた。
「あの日、なんで手を出したか分かる?」
私が首をかしげると、凪は前を向いたまま言った。
「本当は、ちょっと怖かったから」
橋の真ん中で、凪は立ち止まった。
「でも、そのあとも楽しい道、いっぱいできたね」
駅で凪を見送り、私は家へ戻った。
一週間後、仕事からの帰り道、私は一人であの橋を渡った。
携帯電話が鳴った。
凪から二枚の写真が届いていた。
一枚は、大学まで続く真っすぐな道。もう一枚は、桜の咲く川沿いの道だった。
〈寮から大学まで、近道なら八分〉
続けて、もう一通届いた。
〈でも、川沿いを歩くと二十分。こっちの方が好き〉
私は橋の上で立ち止まり、振り返った。
もう小さな手はない。それでも、ここを二人で歩いた時間は、何ひとつ失われていなかった。
私は携帯電話をポケットにしまい、甘い匂いのする方へ歩き出した。
明日も、少し遠回りして帰ろうと思った。




