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明日の遠回り

作者: ぱっちー
掲載日:2026/08/22

娘の凪を保育園へ迎えに行くのは、卒園まであと二十七回だった。


園から家までは、近道なら八分。けれど、私たちはいつも二十分以上かけて帰った。


青い郵便ポストに触る。錆びた塀の染みをキリンと呼ぶ。パン屋の換気扇から流れてくる甘い匂いを吸い込み、小さな橋の継ぎ目を三つ、両足で跳び越える。


凪はそれを「遠回りの儀式」と呼んでいた。


「今日も全部やるからね」


そう言って差し出される手は、まだ私の手のひらにすっぽり収まった。


一回目。二回目。


数え始めると、毎日の帰り道が、少しずつ減っていく砂時計のように思えた。


小学生になっても、一緒に帰ることはあるだろう。休日には散歩だってできる。分かっている。それでも、夕方五時に園の門を出て、今日のおやつや、誰が泣いたかや、折り紙の犬がどうして猫になったのかを聞く時間は、三月で終わる。


終わると気づいただけで、まだ目の前にある時間まで寂しくなった。


風の強い日も、買い物袋が重い日も、全部の儀式をした。凪の話は途中で何度も飛び、登場人物が増え、昨日と今日が混ざった。私は分からないまま相づちを打ち、ときどき二人で笑った。


ある雨の日、仕事の電話が長引いた。夕食の支度も遅れていた。


「今日は近道で帰ろう」


凪は「うん」と言い、長靴で私の横を歩いた。郵便ポストのある角を曲がらず、橋にも寄らなかった。家に着くまで、凪は一度も水たまりを踏まなかった。


玄関で靴を脱ぎながら、小さな声で尋ねた。


「遠回り、嫌いになった?」


私は急いで首を振った。


嫌いになったのではない。いつでもできると思って、今日の一回を雑に扱っただけだった。


それは、二十三回目の帰り道だった。残りは四回。


翌日から、私たちはまた遠回りをした。


二十四回目。二十五回目。二十六回目。


卒園式の日は、二十七回目だった。


門を出た凪は、私の手を取らなかった。


「もう一年生になるから、一人で歩ける」


「そっか」


私は空いた手をコートのポケットに入れた。


最後なのに、と思った。でも、最後だからつないでほしいと言うのは、大人の都合のような気がした。


青い郵便ポストを過ぎ、錆びたキリンを過ぎた。パン屋の前で、凪は大きく息を吸った。やがて橋に差しかかると、三つ目の継ぎ目の手前で立ち止まった。


そして振り返り、黙って手を差し出した。


「一人で歩けるんじゃなかったの?」


「歩けるよ。でも、一緒にも歩けるでしょ」


私はその手を握った。


二十七回目につないだ手も、まだ私の手のひらに収まった。


橋を渡りきるまでに、視界が少しにじんだ。


「保育園の道、なくなっちゃうね」


私が言うと、凪は不思議そうに見上げた。


「なくならないよ。明日からは、学校の道も歩くんだよ」


その言葉のとおり、道は増えた。


小学校への道。習い事から帰る道。部活帰りの凪を、駅まで迎えに行った夜道。


中学生になったある夜、腹を立てた凪が玄関の扉を強く閉めた。私は暗い廊下に一人で残された。あんなに小さかった手が、こんなに強い音を出すようになっていた。


それでも翌朝、食卓には二人分のパンが並んでいた。


十三年後、凪は家を出ることになった。


遠くの大学に進み、初めて一人で暮らす。駅へ向かう朝、凪は大きな鞄を引きながら、突然、懐かしい角を曲がった。


「電車、間に合う?」


「大丈夫。最後に遠回りの儀式をしておこうと思って」


青い郵便ポストは新しくなり、錆びた塀は白い家に変わっていた。パン屋だけは残っていて、あの頃と同じ甘い匂いがした。凪は照れたように一度だけ深呼吸した。


小さな橋は、驚くほど短かった。


凪は継ぎ目を跳ばず、ゆっくり歩いた。


「あの日、なんで手を出したか分かる?」


私が首をかしげると、凪は前を向いたまま言った。


「本当は、ちょっと怖かったから」


橋の真ん中で、凪は立ち止まった。


「でも、そのあとも楽しい道、いっぱいできたね」


駅で凪を見送り、私は家へ戻った。


一週間後、仕事からの帰り道、私は一人であの橋を渡った。


携帯電話が鳴った。


凪から二枚の写真が届いていた。


一枚は、大学まで続く真っすぐな道。もう一枚は、桜の咲く川沿いの道だった。


〈寮から大学まで、近道なら八分〉


続けて、もう一通届いた。


〈でも、川沿いを歩くと二十分。こっちの方が好き〉


私は橋の上で立ち止まり、振り返った。


もう小さな手はない。それでも、ここを二人で歩いた時間は、何ひとつ失われていなかった。


私は携帯電話をポケットにしまい、甘い匂いのする方へ歩き出した。


明日も、少し遠回りして帰ろうと思った。


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