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女装が趣味の俺、異世界で「役を纏う」魔法を得たので追放先の辺境を立て直します

掲載日:2026/07/02

 転生して最初に覚えたのは、魔法より先に、リボンの結び方だった。


 前世の俺――成瀬蓮は、都内のイベント会社で衣装制作をしていた。


 舞台衣装、展示会用の制服、子ども向けショーの着ぐるみ。売れない俳優のために何度も補修したジャケットも、雨で台無しになった屋外イベントの衣装も、全部覚えている。


 高価な布を使えば良い服になるわけではない。


 着る人がどこで働き、何を怖がり、何を守り、どんなふうに動くのか。


 それを考え抜いて初めて、一枚の服は役に立つ。


 前世の俺は、そのことだけは誇りに思っていた。


 だから、トラックに轢かれそうになった小学生を突き飛ばし、その代わりに道路へ投げ出された時も、最後に思ったのは仕事のことだった。


 ――あの子のランドセル、肩紐が切れかけてたな。


 次に目を開けた時、俺は豪奢な天蓋付きの寝台に寝かされていた。


 自分の手は小さく、白く、前世よりはるかに整っている。鏡を見れば、赤茶色の髪をした五歳くらいの少年が、ぽかんと口を開けていた。


 名はルシアン・ヴェルデ。


 王国有数の服飾貴族、ヴェルデ伯爵家の次男だった。


 ヴェルデ家は、衣服に補助魔法を刻む《装衣魔法》を受け継いでいた。


 防寒の外套。毒草を扱う薬師の手袋。火の粉を避ける鍛冶師の前掛け。傷ついた兵士の止血布。王族の礼装。


 布と糸に魔力を通し、着る人の生活を少しだけ支える。


 派手な雷や炎を出す魔法ではない。


 だが王国の暮らしは、ヴェルデ家の服によって静かに支えられていた。


 そして俺は、その家で唯一、《役を纏う》という奇妙な魔法を得た。


 衣装に込められた役割を、着る人間へ短時間だけ与える魔法。


 料理人の服なら、包丁を握る手が安定する。


 坑夫の作業着なら、崩れやすい地面の振動に気づきやすくなる。


 書記官のローブなら、文字の読み違いが減る。


 役者の衣装なら、観客の前で声が通る。


 そして――女性用の衣装でも、当然ながら効果は発揮された。


 服には性別などない。


 あるのは、着る者が果たすべき役目だけだ。


 俺は幼いころから、家の工房に入り浸った。


 姉のドレスを直し、母の帽子を整え、使用人の制服のほつれを縫った。着る人に合わせた服を作るためには、試着も必要だった。


 最初は単純な理由だった。


 袖の長さを見るため。


 襟元の形を確かめるため。


 裾が階段で踏まれないか調べるため。


 だが十歳を過ぎる頃には、俺は女物の服を着ること自体を嫌いではなくなっていた。


 長い裾が床を流れる感覚。


 硬い礼装とは違う、柔らかい布の重み。


 色の組み合わせ一つで、相手に与える印象が変わる面白さ。


 男物か女物かではない。


 服が持つ役目と表現の幅が、俺にはただ面白かった。


 しかし、ヴェルデ伯爵家の者たちはそう考えなかった。


 特に、俺の異母兄ガイウスは。


「ルシアン。おまえは本当に、我が家の恥だな」


 十八歳になった俺へ、二十四歳の兄はそう言った。


 その日、俺は伯爵家の工房で、深い青の礼装を着ていた。


 王都の劇場から依頼された、女役用の舞台衣装だ。星明かりを思わせる刺繍を入れ、暗い舞台でも輪郭が浮かぶように魔法を仕込んだ。


 自分で着て動き、裾の流れを確認していた。


 そこへ、兄が来た。


「役者の真似事か?」


「確認作業です」


「伯爵家の人間が、女の服を着て?」


「衣装です」


「同じだ」


 兄は俺の袖口をつまみ、吐き捨てた。


「父上は、おまえに装衣魔法の未来を期待していた。だが、おまえが作るのは踊り子の服、歌姫のドレス、平民の防寒具ばかりだ。王家へ納める儀礼服を作れ。貴族のための服を作れ」


「現場で必要な服を作っています」


「必要なのは、権威だ」


 兄は鏡の中の俺を見た。


「おまえには分からないだろう。男としての矜持も、伯爵家の責任も」


 俺は反論しなかった。


 反論しても、兄は聞かない。


 ガイウスにとって服は、立場を示す記号だった。


 伯爵は伯爵らしく。


 騎士は騎士らしく。


 女は女らしく。


 男は男らしく。


 その枠から外れる者は、役に立たない。


 だから彼は、俺が一番嫌いだった。


 俺は《役を纏う》という魔法を持っていた。


 けれど兄は、俺が自分の決めた役から外れていることを許せなかった。


     *


 すべてが崩れたのは、王太子レオンハルトの婚約披露宴だった。


 俺は二十三歳になっていた。


 王太子は二十六歳。


 彼の婚約者は、隣国の公爵令嬢アリシアだった。


 王都じゅうの貴族と商人が集まる、年に一度あるかないかの大舞踏会。ヴェルデ伯爵家は王家の礼装を任されており、俺も工房の一員として出席していた。


 俺が着ていたのは、黒い燕尾服だった。


 いかにも伯爵家の次男らしい、無難な服だ。


 その背後で、俺は別の仕事をしていた。


 舞踏会に集まる女性たちのドレスを、匿名の仕立屋シエルとして整えること。


 数年前から、俺は工房の片隅で小さな仕事を始めていた。


 名を出せない若い踊り子。


 貴族の家に仕える侍女。


 商会で働く女性。


 戦傷で片腕を動かしにくくなった元騎士。


 誰もが、今の自分に合う服を求めていた。


 動きやすい服。


 仕事がしやすい服。


 人前に出る勇気をくれる服。


 俺は依頼人の名前を聞かず、体の寸法と目的だけを聞いた。


 そして匿名の仕立屋シエルとして、服を届けていた。


 《シエル》は、王都では少し知られた存在になっていた。


 誰が作っているのかは誰も知らない。


 ただ、シエルの服を着ると、少しだけ前を向ける。


 そんな噂だけが広がっていた。


 舞踏会の夜も、俺は裏方として、会場の隅にいた。


 アリシア公爵令嬢のドレスは、俺が作ったものではない。


 王家専属の工房――ガイウスが管理する工房が作ったものだった。


 黄金の糸。宝石を縫い込んだ裾。重く、豪華で、見る者を圧倒する。


 だが、令嬢は何度も肩を動かしていた。


 着慣れない硬さがある。


 呼吸が浅い。


 歩幅も不自然だ。


 俺は遠くから見ているだけだった。


 余計な口出しをすれば、兄に怒鳴られる。


 その時、舞踏会の中央で、アリシア令嬢が倒れた。


 悲鳴が上がる。


 王太子が駆け寄る。


 侍女たちが令嬢を支える。


「締め付けが強すぎる!」


「医師を呼べ!」


 誰かがドレスの背をほどこうとするが、王家の礼装には複雑な魔法式が刻まれている。下手に切れば、宝石を固定している術式が暴走する危険があった。


 俺は走った。


「失礼します」


「誰だ!」


「ヴェルデ伯爵家のルシアンです。礼装の構造を確認させてください」


 王太子が俺を睨む。


「ガイウスの弟か」


「はい」


「早くしろ」


 俺はアリシア令嬢の背へ手をかざした。


 魔法式を見る。


 予想どおりだった。


 胸元と腰を強く固定し、美しい姿勢を保つための補助術式。しかし魔力の流れが乱れている。誰かが本来の設計より強い式を入れた。


 見栄えを優先しすぎた。


 着る人の呼吸を犠牲にして。


「外します」


「できるのか」


「できます」


 俺は指先で縫い目をなぞった。


 《役を纏う》を使う。


 この服は、婚約者のための礼装だ。


 ならば本来の役目は、彼女を美しく見せることではない。


 王太子妃となる女性を、守ることだ。


「ほどけ」


 俺が呟くと、背中の糸が一つずつ外れた。


 宝石は落ちない。


 布だけが、令嬢の身体を締めつける役目をやめた。


 アリシア令嬢は大きく息を吸い、ゆっくりと目を開けた。


「……苦しく、ありません」


 会場が静かになった。


 俺はその場から退こうとした。


 だが、兄の声が響いた。


「待て、ルシアン」


 ガイウスは、人々の前へ出てきた。


「おまえは今、王家の礼装に勝手に手を加えたな」


「令嬢の容体が危険でした」


「王家の紋章が刻まれた礼装だぞ。おまえのような半端者が触れて良いものではない」


「ですが」


「黙れ」


 兄は俺の胸倉を掴んだ。


 周囲の貴族がざわつく。


「最近、王都では妙な仕立屋が流行っているらしいな。名はシエル。正体を隠し、女の姿で依頼人の家へ出入りしているという」


 俺の背筋が凍った。


「兄上」


「何だ。否定するのか?」


 ガイウスは、俺の内ポケットから一枚の布片を取り出した。


 それは、俺が作った《シエル》の印だった。


 淡い空色の糸で、雲の形を刺繍した小さな布札。


「王家の式典へ出入りする仕立屋が、女の姿をして貴族の屋敷へ入り込む。しかも、その正体は伯爵家の次男。これは看過できない」


 会場に、嫌悪と好奇心が混ざったざわめきが広がる。


 俺は兄を見た。


 最初から知っていたのだ。


 俺がシエルであることを。


 そして、今日この場で暴くつもりだった。


 王太子レオンハルトが、冷たい声で言った。


「ルシアン・ヴェルデ。おまえは我が王国の貴族社会を愚弄した。男でありながら女の姿を取り、身分を偽り、貴族の家へ出入りしたのか」


「私は、依頼を受けて服を作っていただけです」


「女の姿で?」


「仕立屋として、衣装の動きを確認していました」


「言い訳だな」


 王太子はアリシア令嬢の方を見た。


「このような者が、我が婚約者の服へ手を入れた。危険極まりない」


 俺は唇を噛んだ。


 アリシア令嬢は、何か言いたそうにしていた。


 だが、王太子に止められた。


「ルシアン・ヴェルデを、伯爵家の権利と役職から除外する。王都から追放し、北東辺境セレスタの旧織物倉庫へ移送せよ」


「殿下!」


 俺の父――伯爵が声を上げた。


 しかし、ガイウスが父の腕を掴んだ。


「父上。これ以上、家名を傷つけるわけにはいきません」


 父は黙った。


 俺は、父の目を見た。


 そこには怒りもあった。


 困惑もあった。


 けれど、俺を守る意思はなかった。


 それだけだった。


 王太子は、俺へ最後に言った。


「女装などというくだらぬ遊びの代償を、辺境で支払え」


 俺は少しだけ笑った。


「承知しました」


 女装がくだらないのではない。


 人間を服だけで判断する者が、くだらないのだ。


 だが、その場で言っても意味はない。


 だから俺は、何も言わなかった。


 ただ、王太子の礼装の袖口に触れた時に見えた、薄い魔力の歪みだけを覚えておいた。


 そこには、見覚えのない工房印があった。


 ガイウスの工房が使う印ではない。


 王家の礼装に、誰かが粗悪な術式を混ぜている。


 アリシア令嬢が倒れたのは、事故ではないかもしれなかった。


     *


 北東辺境セレスタは、王都の人間が「何もない土地」と呼ぶ場所だった。


 冬は長い。


 夏は短い。


 山から吹く風は冷たく、雪解け水は畑を壊し、魔獣が時々街道を横切る。


 俺が送られた旧織物倉庫は、町外れにあった。


 窓は割れ、屋根は半分落ち、織機には錆が浮いている。


 荷物として与えられたのは、古い寝具と、最低限の食料、それから追放命令書だけだった。


 伯爵家からの手紙はなかった。


 兄からも、父からも。


 俺は倉庫の中央に立ち、深く息を吐いた。


「さて」


 何をするか。


 普通なら、絶望する場面なのだろう。


 だが前世の俺は、何度も何もない会場からイベントを作った。


 机がないなら箱を使う。


 照明がなければ昼の光を使う。


 予算がなければ、必要なものを削る。


 衣装が破れたなら、その破れを演出に変える。


 人間は、条件が悪いから何もできないわけではない。


 条件が悪いからこそ、工夫がいる。


 俺は倉庫の織機に触れた。


 魔力が残っている。


 古いが、まだ使える。


 次に、壁に残された帳簿を調べた。


 セレスタは、かつて織物の産地だった。


 山羊毛と薬草染めの布を作り、王都へ送っていた。しかし十年前、王家が大規模な軍服発注を別の商会へ回した。以後、織物工房は次々と閉鎖。


 若者は都市へ流れ、残った者は農業と狩りで細々と暮らしている。


 だが、町には技術が残っていた。


 織る技術。


 染める技術。


 革をなめす技術。


 雪と風に耐える服を作る技術。


 俺は倉庫の扉を開け、通りへ出た。


 最初に見つけたのは、荷車の前で困っている女性だった。


 年齢は二十代後半。厚手のコートを着ているが、左袖が大きく破れている。荷車には薬草の籠が積まれ、隣には疲れた馬がいた。


「すみません」


 俺が声をかけると、女性は警戒した。


「何ですか」


「袖、直しましょうか」


「直せるの?」


「応急処置なら」


 俺は彼女の袖を見た。


 布自体が悪い。


 王都から仕入れた量産品だろう。寒さを防ぐための魔法が入っているが、縫い目が粗く、薬草の棘に引っかかりやすい。


「少し時間をください」


 俺は荷車のそばに座り、持っていた糸と針を出した。


 縫い目をほどく。


 袖口の形を変える。


 内側へ薄い革を当てる。


 薬草採取用の手袋としても使えるよう、指先に小さな補強を入れる。


 最後に、魔力を通した。


「《役を纏う》」


 この服の役目は、薬草を採る人を守ること。


 だから、棘と冷気だけを少し避ける。


 派手な魔法ではない。


 だが、彼女が袖を通した瞬間、目を丸くした。


「軽い」


「布の重さは変わっていません」


「でも、腕が動かしやすい」


「肩の位置を少し変えました」


「あなた、仕立屋?」


「そうです」


「王都から来た人?」


「追放されてきました」


「……何をしたの?」


「服を作りました」


 女性は数秒、黙った。


 それから笑った。


「変な人ね」


「よく言われます」


「私はヴェラ。薬師です。この町で薬草を扱ってる」


「ルシアンです」


 俺は少し考えた後、付け加えた。


「仕立屋のシエルでもあります」


 ヴェラは俺の顔と名前を見比べた。


「シエルって、女の仕立屋じゃないの?」


「そう思われているだけです」


「違うの?」


「服は、着る人で変わります。仕立屋も同じです」


 ヴェラは、破れた袖を何度も動かした。


「……町の人に紹介してあげる」


「本当ですか」


「ただし、仕事ができるなら」


「できます」


「その自信は嫌いじゃない」


 それが、セレスタでの最初の仕事だった。


     *


 最初の一週間で、俺は七件の依頼を受けた。


 狩人の外套。


 坑夫の手袋。


 子どもの靴。


 雪かき用の帽子。


 荷運び人の腰当て。


 縫い目がほつれた制服。


 亡くなった妻が残した古いストールの補修。


 王都なら、どれも大した仕事ではない。


 だがセレスタでは、服が壊れれば仕事が止まる。


 仕事が止まれば、食料が減る。


 食料が減れば、冬を越せない。


 俺は一つずつ直した。


 高い金は取らなかった。


 代わりに、材料と労働を交換にした。


 糸を持ってくる者。


 古い布を持ってくる者。


 倉庫の屋根を直してくれる者。


 織機を整備する者。


 染料になる草を採ってくる者。


 十日後、旧織物倉庫には、人が集まるようになった。


 最初は服を直してほしい人だけだった。


 次に、自分で縫い方を覚えたい人が来た。


 さらに、昔織物工房で働いていた老人たちが、織機の前に座るようになった。


「この織機は、もっと細い毛を使えた」


「いや、山羊毛なら先に洗うべきだ」


「染めの温度が違う」


 彼らは毎日喧嘩をした。


 だが、手は止めなかった。


 俺はその様子を見ながら、新しい布を考えた。


 セレスタの問題は、寒さだけではない。


 雪解けの時期には、水を吸った布が重くなる。


 山へ入る人間は、魔獣の匂いを避ける必要がある。


 薬草採取者は棘に苦しむ。


 鉱山では毒気が出る。


 兵士は防寒具が足りない。


 つまり、必要なのは「綺麗な服」ではない。


 この土地で生きる人を支える服だ。


 俺は、古い織機の前に立った。


 毛糸を通す。


 糸に魔力を流す。


 《役を纏う》を、服そのものではなく、布の段階へ刻む。


「セレスタ防寒布。試作一号」


 できあがったのは、地味な灰色の布だった。


 表面は風を防ぐ。


 内側は熱を逃がしにくい。


 濡れても重くなりにくい。


 そして、山の魔獣が嫌う薬草の匂いを、ほのかに残す。


 見た目は地味だった。


 けれど、セレスタの狩人たちは黙って布を触り、その後、まとめて注文を入れた。


 次に、炭鉱で働く男たちが来た。


「毒気が出た時に、分かる服は作れないか」


 俺は考えた。


 服に役目を与える。


 坑夫の作業着なら、危険を知らせる。


 袖口の糸が、空気中の毒に反応して色を変えるようにした。


 魔法としては弱い。


 だが、弱いからこそ量産できた。


 それを見た炭鉱夫が、震える声で言った。


「これがあれば、弟は死ななかったかもしれない」


 俺は、何も言えなかった。


 服で、すべてを救えるわけではない。


 もっと早く作れていればと思う。


 けれど、今から作る服が、次の誰かを救えるかもしれない。


 だから作る。


 それしかできない。


     *


 《シエル》の名は、セレスタでも広がった。


 俺は昼はルシアンとして工房を動かし、夜に依頼人の前へ出る時だけ、シエルの姿になった。


 理由は単純だった。


 王都では、シエルを女性だと思っている依頼人が多い。


 俺の正体が知られれば、伯爵家や王家が余計な干渉をしてくる可能性がある。


 それに、シエルとして話す方が、素直に相談してくれる人もいた。


 服に関する悩みは、案外、言いにくい。


 身体が動かしづらい。


 古傷が見えるのが嫌だ。


 男らしい服を着ろと言われる。


 女らしい服を着ろと言われる。


 仕事をするには不便だ。


 人前に出る勇気がない。


 そういう相談を受けるたび、俺は思った。


 服は、ただ布を着る行為ではない。


 他人から「こう見られろ」と押しつけられるものでもある。


 だからこそ、選ぶ自由が必要なのだ。


 ある夜、工房へ若い兵士が来た。


 二十歳くらいだろう。顔には浅い傷があり、軍服の袖を隠すように立っていた。


「シエルさん、ですか」


 俺は淡い藍色のドレスを着ていた。髪は長いかつらで隠し、顔には簡単な化粧をしている。


「そうです。ご依頼は?」


「俺……いや、自分は、軍を辞めることになりました」


「怪我ですか」


「左腕が、前ほど動かなくて」


 彼は袖をめくった。


 肘のあたりに、深い火傷の跡がある。


「軍服を着ると、皆に言われるんです。『まだ兵士ぶるのか』って。でも、普通の服を着ると、今度は自分が何だったのか分からなくなる」


 俺は少し考えた。


「兵士だったことを、捨てる必要はありません」


「でも、もう戦えない」


「戦えないことと、兵士だったことは別です」


 俺は彼の軍服を受け取り、布を触った。


 擦り切れた袖。


 雨に濡れた肩。


 何度も繕われた胸元。


 そこには、仲間の名前が小さく刺繍されていた。


「この服を、作り替えましょう」


「作り替える?」


「軍服ではなくします。でも、あなたが守ってきたものは残します」


 数日後、俺は彼に、動きやすい短い上着を渡した。


 軍服の濃紺を残しつつ、左腕には大きな余裕を持たせた。背中には荷物を背負いやすい補強を入れ、袖口には火傷の傷を擦らない柔らかな布を使った。


 胸元の刺繍は、内側へ移した。


 他人に見せるためではなく、自分が忘れないために。


 彼は服を着て、しばらく鏡を見ていた。


「……これなら」


「はい」


「これなら、町の見回りの仕事ができるかもしれない」


「できます」


 彼は泣きそうな顔で笑った。


「ありがとう、シエルさん」


 俺は頷いた。


「役目は、誰かに決められるものではありません」


 その言葉は、彼に向けたものだった。


 同時に、自分にも向けたものだった。


     *


 セレスタの工房が黒字になった頃、王都から使者が来た。


 雪解け前の、冷たい朝だった。


 銀の馬車。


 王家の旗。


 そして、かつて俺を追放した兄、ガイウス・ヴェルデ。


「久しぶりだな、ルシアン」


 兄は、倉庫の入口に立った。


 王都にいた時と変わらない、完璧な服装。毛皮の外套。磨かれた靴。白い手袋。


 ただし、目だけが以前より疲れていた。


「何の用ですか」


「王家から命令がある」


 兄は書状を差し出した。


「セレスタの織物工房、および装衣魔法による製品を、王家軍需局の管理下へ置く」


 俺は書状を読んだ。


 軍への供給。


 製法の提出。


 工房の財産を王家へ移管。


 従わなければ、無許可の魔法製品製造として処罰。


「断ります」


 俺が即答すると、兄の眉が動いた。


「考えろ。王家に納めるのだぞ。おまえが望んでいた仕事ではないか」


「違います」


「何?」


「私は、王家のためだけに服を作りたいわけではありません」


 俺は工房の中を指した。


 織機の前には、老人たちがいる。


 薬草を運ぶヴェラがいる。


 炭鉱夫がいる。


 元兵士がいる。


 子どもたちが、端切れで人形を作っている。


「ここで作っている服は、ここで生きる人のための服です。軍に売ること自体は構いません。ただし、工房の権利と働く人間の生活を奪う命令には従いません」


 ガイウスは鼻で笑った。


「辺境で少し商売が上手くいったからといって、勘違いするな。おまえは追放者だ。伯爵家の名がなければ、何者でもない」


「そうですね」


 俺は頷いた。


「だから、今は自分の名で働いています」


「何だと」


「ルシアン・ヴェルデではなく、シエルとして」


 兄の顔が固まった。


「まだその名前を使っているのか」


「使っています」


「恥を知れ」


「兄上こそ、知るべきです」


 俺は兄の外套を見た。


 王都の最新流行の、白銀の刺繍。


 だが、その糸には見覚えがある。


 王家の礼装に混じっていた、粗悪な魔力糸と同じものだ。


 俺は指先に魔力を集めた。


 布の記憶を読む。


 《役を纏う》は、着る人の役目だけを見せる魔法ではない。


 その服が、誰の手によって、どんな意図で作られたかも、薄く映し出す。


 兄の外套に浮かんだ文字を見て、俺は息を止めた。


 【製造:グレイヴ商会】

 【発注:王家軍需局】

 【混入術式:生命力吸収補助】

 【目的:装備着用者の魔力を蓄積し、王太子専用魔導具へ転送】


 寒気がした。


 王家軍需局が求めているのは、セレスタの織物技術ではない。


 俺たちの技術を使って、兵士たちから魔力を吸い上げる装備を完成させるつもりだ。


 そして、その魔力を王太子のために使う。


「兄上」


 俺は低い声で言った。


「王都では、何が起きているんですか」


 ガイウスは一瞬、目を逸らした。


 それだけで分かった。


 兄は知っている。


 全部ではなくても、何かを知っている。


「余計な詮索をするな。これは王太子殿下のご意向だ」


「兵士の命を削る装備を作ることが?」


「国を守るためだ!」


 兄の声が響いた。


「北方諸国との戦争が近い。王太子殿下には、強大な魔導具が必要だ。多少の犠牲は仕方ない」


「多少?」


 俺は工房の中を見た。


 元兵士。


 炭鉱夫。


 薬師。


 子ども。


 生活を支える人たち。


「犠牲になるのは、いつも自分ではない人間ですね」


「綺麗事を言うな!」


「綺麗事ではありません。服を作る者として、当たり前の話です」


 俺は書状を兄へ返した。


「セレスタ工房は、王家軍需局の命令を拒否します」


「ならば、後悔するぞ」


 兄はそう言い残し、馬車へ戻った。


 その背中は、王都にいた時より少し小さく見えた。


     *


 三日後、セレスタへ新しい税が課された。


 織物税。


 染料税。


 魔法製品登録税。


 運搬税。


 工房利用税。


 雪害対策協力金。


 名称はいろいろあったが、要するに「セレスタが稼いだ分を王都へ寄越せ」ということだった。


 町の人々は怒った。


「また王都か」


「工房を閉じろということか」


「働いても取られるなら、何のために作る」


 俺は帳簿を広げた。


 感情だけで反発しても、相手の思う壺だ。


 王都は、こちらが混乱して工房を止めるのを待っている。


「まず、支出を整理します」


 俺が言うと、皆がこちらを見た。


「税そのものをすぐ消すことはできません。ですが、払えない仕組みを作られているなら、払える形に変えます」


「どうやって?」


 ヴェラが尋ねた。


「工房を一つの家ではなく、共同組合にします」


 俺は紙に書いた。


 出資した者。


 働いた者。


 糸を作った者。


 染めた者。


 運んだ者。


 販売した者。


 全員が工房の一部を持つ。


「税が来ても、一人の仕立屋を潰せば終わる形にはしません。工房の利益を、町の水路、学校、診療所、備蓄へ回す。王都が工房を止めれば、町の生活を止めることになる。その責任を、王都にも見せます」


「そんなことができるのか」


「できます」


「貴族が許す?」


「許させます」


 それから、俺は新しい服を作り始めた。


 王都へ見せるための服ではない。


 セレスタのための服だ。


 雪原を歩く荷運び人の外套。


 炭鉱で働く者の防毒マスク。


 薬草採取者の防棘手袋。


 料理人の耐熱前掛け。


 子どもの成長に合わせて丈を調整できる制服。


 片腕を動かしにくい人のための上着。


 車椅子でも裾を巻き込まない長衣。


 魔獣の接近を知らせる狩人の帽子。


 そして、誰でも着られる式典用の服。


 貴族のためだけではない。


 町の人が、自分の仕事と生き方を誇れる服。


 俺はその服に、小さな空色の糸を縫い込んだ。


 シエルの印。


 空は、誰のものでもない。


 だから、空を名乗った。


     *


 春になる頃、セレスタは《装衣市》を開くことになった。


 町の人間が自分たちで作った服を持ち寄り、他の地域の商人へ売る市場だ。


 ただの即売会ではない。


 服の実演をする。


 防寒布がどれだけ風を防ぐか。


 毒気に反応する袖口がどう変わるか。


 片腕でも着やすい上着の仕組み。


 仕事着の補修方法。


 子ども服の調整方法。


 町の女性たちは、自分たちで作った服を着て歩いた。


 炭鉱夫たちは、黒い作業着のまま胸を張った。


 狩人たちは、防寒外套の襟を立てた。


 薬師たちは、薬草染めの手袋を見せた。


 皆、自分の服を着ていた。


 誰かに決められた役ではない。


 自分で選び、果たしている役の服だ。


 市が始まった朝、俺はシエルの姿になった。


 淡い灰青色の長い上着。


 女性用のドレスと男物のコートの中間のような、ゆるやかな形。


 動きやすく、風を受け、汚れにくい。


 俺自身が作った、《誰のためでもない仕立屋の服》だった。


 広場には、予想以上の商人が集まっていた。


 隣の領地。


 山向こうの都市。


 北方の遊牧民。


 王都から来た若い職人たち。


 皆、セレスタの布を見に来た。


「これが、シエルの服か」


「本当に女の仕立屋だったのか」


「いや、声が少し低いぞ」


「どうでもいい。性能を見ろ」


 そんな声が飛ぶ。


 俺は笑いそうになった。


 どうでもいい、と言ってくれる人間がいる。


 それだけで、ここへ来た意味があった。


 だが、昼過ぎ。


 広場の入口に、王家の旗が現れた。


 王太子レオンハルト自身が、兵を連れて来た。


 その後ろには、ガイウスもいる。


 王太子は、広場を見渡し、俺――シエルへ視線を向けた。


「貴様が、仕立屋シエルか」


「そうです」


 俺は答えた。


「王太子殿下」


「妙な格好だな」


「仕事着です」


「男か女かも分からぬ者が、王国の職人を名乗るのか」


 広場の空気が凍る。


 以前の俺なら、ここで言葉を失ったかもしれない。


 王都の舞踏会で、皆の前に晒された時のように。


 だが、もう違う。


 俺の後ろには、セレスタの人々がいる。


 俺一人の問題ではない。


「服に性別はありません」


 俺は静かに言った。


「あるのは、着る人の目的と、作る人の技術です」


「口答えするな」


「事実を述べています」


 王太子は、書状を掲げた。


「セレスタ工房は、王家軍需局の命令を拒んだ。よって工房と全製品を没収し、関係者を反逆の疑いで拘束する」


 兵が動く。


 ヴェラが前へ出ようとした。


 俺は手を上げて止めた。


「殿下。王家は、軍需局の装備について公開説明を行えますか」


「何?」


「王家がセレスタの技術を求める理由です」


「国防のためだ」


「では、なぜ現在の軍服に、生命力を吸い上げる術式が混ぜられているのですか」


 王太子の表情が、わずかに変わった。


 広場がざわついた。


 俺は続ける。


「なぜ、北部防衛隊の兵士たちが、任務の後に原因不明の衰弱を訴えているのですか」


「証拠はあるのか」


「あります」


 俺は、広場の端に置かれた箱を開けた。


 中には、北部防衛隊から密かに送られてきた軍服が入っている。


 袖口。


 胸当て。


 靴。


 それぞれに、王家の軍需局が使う印がある。


 俺は布へ触れた。


 《役を纏う》を使う。


 衣装に残る役目を読み取る。


 すると、布の上に淡い光が浮かんだ。


 魔法を使える者なら、誰でも見える形で。


 【着用者の魔力を吸収】

 【蓄積先:王太子専用魔導具《暁の冠》】

 【目的:大規模攻撃魔法の発動補助】


 広場が静まり返った。


 王太子は叫んだ。


「偽造だ!」


「偽造ではありません」


 別の声が響いた。


 広場の後方から、一人の女性が進み出た。


 アリシア公爵令嬢だった。


 彼女は王都の舞踏会で倒れた、王太子の婚約者。


 だが今日は、豪華なドレスではなく、動きやすい濃緑色の旅装を着ていた。


「私は、王太子殿下の婚約者として、王家専属工房の礼装を何度も着ました。そのたび、身体が重くなり、呼吸が苦しくなった」


 王太子が振り返る。


「アリシア。何をしている」


「真実を話しています」


「おまえは私の婚約者だ」


「だからこそ、見過ごせません」


 アリシア令嬢は、広場に集まった人々を見渡した。


「王太子殿下は、王国を守るためだと説明しました。けれど、その魔導具を使うために、兵士たちの魔力を奪うことは聞いていません」


「国家には必要な犠牲がある!」


 王太子の声が響いた。


「北方諸国が攻めてくれば、どれだけの民が死ぬと思っている。私には、王国を守る責任がある!」


「責任とは」


 俺は言った。


「自分ではない誰かを、勝手に犠牲にすることですか」


 王太子は俺を睨んだ。


「貴様に何が分かる」


「分かります」


 俺は一歩前へ出た。


「服を作る者は、着る人のことを考えます。兵士の服を作るなら、兵士が帰ってくることを考える。薬師の服を作るなら、薬師が倒れないことを考える。子どもの服を作るなら、その子が来年も着られることを考える」


 俺は《暁の冠》の設計書を取り出した。


 ガイウスがセレスタへ来た時、その外套から読み取った術式をもとに、俺は王都の技術者へ調査を頼んでいた。


 協力してくれたのは、かつて俺の服を着た職人たちだった。


 匿名の仕立屋シエルを知る者。


 王都で、理不尽に扱われてきた者たち。


「王太子殿下は、王国を守ると言いながら、王国を支える人間を消耗品として扱った」


 俺は王太子を見た。


「それは、王ではありません」


 長い沈黙が落ちた。


 その時、ガイウスが動いた。


 彼は王太子の後ろから、ゆっくりと前へ出る。


 兄の顔は、青ざめていた。


「……俺が、証言する」


 俺は目を見開いた。


「兄上」


「軍需局の発注書に、俺は署名した」


 ガイウスは、自分の手袋を外した。


「最初は知らなかった。魔力を効率化する補助術式だと聞かされていた。だが、北部から報告が来た。兵士が倒れた。軍服のせいだと気づいた」


「なら、なぜ止めなかった」


 俺は尋ねた。


 兄は、苦しそうに目を伏せた。


「怖かった」


 その言葉は、あまりに弱かった。


 けれど、嘘ではなかった。


「王太子に逆らえば、伯爵家は終わる。父上も、家臣も、工房も。俺は家を守ろうとした」


「結果として、兵士を切り捨てた」


「ああ」


 兄は頷いた。


「俺は、おまえを馬鹿にした。女の服を着て、名も隠して、くだらないことをしていると思っていた。だが違った。おまえは、服を着る人間を見ていた」


 広場の全員が、兄を見ていた。


「俺は、家名しか見ていなかった」


 ガイウスは、王太子の前に証拠書類を置いた。


「軍需局の帳簿だ。発注額、材料費、術式の変更記録。すべてある」


 王太子の顔が歪んだ。


「貴様、私を裏切るのか」


「違う」


 ガイウスは、初めて王太子をまっすぐ見た。


「俺は、これ以上、自分を裏切らない」


 その直後、広場の外から馬の蹄の音が聞こえた。


 王家近衛隊だった。


 しかし彼らは王太子の兵ではない。


 国王直属の近衛隊だ。


 先頭には、王国の宰相がいた。


「レオンハルト王太子」


 宰相は静かに告げた。


「国王陛下の命令により、あなたを王位継承権停止の上、王都へ同行させます」


「父上が?」


「北部防衛隊からも、同様の証言が届いております」


 王太子は何かを言おうとした。


 しかし、言葉は出なかった。


 彼は最後に俺を見た。


「貴様のせいだ」


 俺は首を振った。


「違います」


「何?」


「あなたが、自分で選んだ結果です」


 王太子は、何も答えなかった。


 近衛隊に囲まれ、そのまま馬車へ連れて行かれた。


 広場には、春の冷たい風だけが残った。


     *


 その後、王都では大きな裁きが行われた。


 軍需局の不正。


 兵士の魔力搾取。


 粗悪な礼装の横流し。


 王太子の私的な魔導具開発。


 ガイウスはすべてを証言した。


 兄自身も責任を免れなかった。


 伯爵家の後継者の座を失い、工房の管理権も剥奪された。


 だが、牢へ入る代わりに、北部防衛隊の装備改善へ十年間従事することになった。


 俺はその判決を聞いて、複雑な気持ちになった。


 兄を許したわけではない。


 俺を切り捨てたこと。


 服装を理由に侮辱したこと。


 王太子の不正を止めなかったこと。


 その全部が消えるわけではない。


 けれど、兄がこれから兵士たちの服を作るなら、少なくとも彼は、自分の決断の結果を毎日見ることになる。


 それは罰であり、同時にやり直す機会でもあった。


 父は、王都から手紙を送ってきた。


 内容は短かった。


 ――私は、おまえを守るべきだった。


 俺は返事を書かなかった。


 まだ、書けなかった。


 許すかどうかを急ぐ必要はない。


 傷つけられた側が、すぐに答えを出す義務はない。


 そのことも、前世では分からなかった。


     *


 セレスタ工房は、正式に《北東装衣共同組合》となった。


 工房の所有者は、俺一人ではない。


 織る者。


 染める者。


 縫う者。


 運ぶ者。


 売る者。


 使う者。


 町の人間が、それぞれ少しずつ権利を持つ。


 俺は代表仕立屋になった。


 ただし、代表だから偉いわけではない。


 帳簿を公開し、意見を聞き、必要な服を作る。


 それだけだ。


 《シエル》の名前も残した。


 王都では、俺が男だと知って驚く者もいた。


 女だと思っていた、と言う者もいた。


 男がそんな服を着るのか、と眉をひそめる者もいた。


 だが、セレスタでは誰も気にしなかった。


 俺がルシアンの姿で織機を回していても。


 シエルの姿で商談をしていても。


 作業着を着て雪道を歩いていても。


 皆、同じように言った。


「新しい外套、いつできる?」


「子どもの制服、丈夫にしてくれ」


「薬師用の鞄を作りたい」


「市場で売る服、もっと明るい色にしよう」


 それでよかった。


 ある日、ヴェラが工房へ来た。


 彼女は以前、俺が直した薬草採取用のコートを着ている。


「ルシアン」


「何ですか」


「今日、シエルの姿じゃないのね」


「昼ですから」


「別に、昼でもいいのに」


「そうですか?」


「そうよ。あんたは、どっちの姿でもあんたでしょ」


 俺は少し黙った。


 昔なら、その言葉を聞いても信じられなかったかもしれない。


 男として生きる自分。


 仕立屋シエルとして服を着る自分。


 伯爵家の次男だった自分。


 追放者だった自分。


 全部、どれか一つだけが本物ではない。


 選んだ服も、選んだ仕事も、選んだ生き方も。


 全部が俺の一部だ。


「そうですね」


 俺は笑った。


「今日は、新しい式典服の試作をします」


「また派手なの?」


「今回は、誰でも着られる服です」


「どんな?」


「男物とも女物とも決めない礼装です。仕事着の上からも着られて、年齢も体格も選ばない」


「難しそうね」


「難しいです」


「でも作る?」


「作ります」


 俺は織機の前へ立った。


 空色の糸を一本。


 深い藍の糸を一本。


 雪の白。


 土の茶。


 薬草の緑。


 炭鉱の黒。


 いろいろな色を、同じ布へ織り込んでいく。


 誰かの役を押しつける服ではない。


 誰かが、自分の役を選ぶための服。


 それが、俺の作りたかったものだった。


 窓の外では、春の風が吹いていた。


 セレスタの町を抜け、遠くの山へ向かって。


 王都で「貴族の恥」と笑われた俺の服は、今では兵士を守り、薬師を支え、子どもを温め、働く人の背中を押している。


 服一枚で、世界が変わるわけではない。


 だが、服一枚があれば、人は少しだけ前へ進める。


 寒い日に外へ出られる。


 傷ついた腕を隠さずに済む。


 人前に立てる。


 働ける。


 誰かと会える。


 そして、自分の役を自分で決められる。


 だから俺は、今日も針を持つ。


 女装をしても。


 男の姿でも。


 どんな服を着ていても。


 俺は俺のまま、誰かの明日を縫っていく。


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