女装が趣味の俺、異世界で「役を纏う」魔法を得たので追放先の辺境を立て直します
転生して最初に覚えたのは、魔法より先に、リボンの結び方だった。
前世の俺――成瀬蓮は、都内のイベント会社で衣装制作をしていた。
舞台衣装、展示会用の制服、子ども向けショーの着ぐるみ。売れない俳優のために何度も補修したジャケットも、雨で台無しになった屋外イベントの衣装も、全部覚えている。
高価な布を使えば良い服になるわけではない。
着る人がどこで働き、何を怖がり、何を守り、どんなふうに動くのか。
それを考え抜いて初めて、一枚の服は役に立つ。
前世の俺は、そのことだけは誇りに思っていた。
だから、トラックに轢かれそうになった小学生を突き飛ばし、その代わりに道路へ投げ出された時も、最後に思ったのは仕事のことだった。
――あの子のランドセル、肩紐が切れかけてたな。
次に目を開けた時、俺は豪奢な天蓋付きの寝台に寝かされていた。
自分の手は小さく、白く、前世よりはるかに整っている。鏡を見れば、赤茶色の髪をした五歳くらいの少年が、ぽかんと口を開けていた。
名はルシアン・ヴェルデ。
王国有数の服飾貴族、ヴェルデ伯爵家の次男だった。
ヴェルデ家は、衣服に補助魔法を刻む《装衣魔法》を受け継いでいた。
防寒の外套。毒草を扱う薬師の手袋。火の粉を避ける鍛冶師の前掛け。傷ついた兵士の止血布。王族の礼装。
布と糸に魔力を通し、着る人の生活を少しだけ支える。
派手な雷や炎を出す魔法ではない。
だが王国の暮らしは、ヴェルデ家の服によって静かに支えられていた。
そして俺は、その家で唯一、《役を纏う》という奇妙な魔法を得た。
衣装に込められた役割を、着る人間へ短時間だけ与える魔法。
料理人の服なら、包丁を握る手が安定する。
坑夫の作業着なら、崩れやすい地面の振動に気づきやすくなる。
書記官のローブなら、文字の読み違いが減る。
役者の衣装なら、観客の前で声が通る。
そして――女性用の衣装でも、当然ながら効果は発揮された。
服には性別などない。
あるのは、着る者が果たすべき役目だけだ。
俺は幼いころから、家の工房に入り浸った。
姉のドレスを直し、母の帽子を整え、使用人の制服のほつれを縫った。着る人に合わせた服を作るためには、試着も必要だった。
最初は単純な理由だった。
袖の長さを見るため。
襟元の形を確かめるため。
裾が階段で踏まれないか調べるため。
だが十歳を過ぎる頃には、俺は女物の服を着ること自体を嫌いではなくなっていた。
長い裾が床を流れる感覚。
硬い礼装とは違う、柔らかい布の重み。
色の組み合わせ一つで、相手に与える印象が変わる面白さ。
男物か女物かではない。
服が持つ役目と表現の幅が、俺にはただ面白かった。
しかし、ヴェルデ伯爵家の者たちはそう考えなかった。
特に、俺の異母兄ガイウスは。
「ルシアン。おまえは本当に、我が家の恥だな」
十八歳になった俺へ、二十四歳の兄はそう言った。
その日、俺は伯爵家の工房で、深い青の礼装を着ていた。
王都の劇場から依頼された、女役用の舞台衣装だ。星明かりを思わせる刺繍を入れ、暗い舞台でも輪郭が浮かぶように魔法を仕込んだ。
自分で着て動き、裾の流れを確認していた。
そこへ、兄が来た。
「役者の真似事か?」
「確認作業です」
「伯爵家の人間が、女の服を着て?」
「衣装です」
「同じだ」
兄は俺の袖口をつまみ、吐き捨てた。
「父上は、おまえに装衣魔法の未来を期待していた。だが、おまえが作るのは踊り子の服、歌姫のドレス、平民の防寒具ばかりだ。王家へ納める儀礼服を作れ。貴族のための服を作れ」
「現場で必要な服を作っています」
「必要なのは、権威だ」
兄は鏡の中の俺を見た。
「おまえには分からないだろう。男としての矜持も、伯爵家の責任も」
俺は反論しなかった。
反論しても、兄は聞かない。
ガイウスにとって服は、立場を示す記号だった。
伯爵は伯爵らしく。
騎士は騎士らしく。
女は女らしく。
男は男らしく。
その枠から外れる者は、役に立たない。
だから彼は、俺が一番嫌いだった。
俺は《役を纏う》という魔法を持っていた。
けれど兄は、俺が自分の決めた役から外れていることを許せなかった。
*
すべてが崩れたのは、王太子レオンハルトの婚約披露宴だった。
俺は二十三歳になっていた。
王太子は二十六歳。
彼の婚約者は、隣国の公爵令嬢アリシアだった。
王都じゅうの貴族と商人が集まる、年に一度あるかないかの大舞踏会。ヴェルデ伯爵家は王家の礼装を任されており、俺も工房の一員として出席していた。
俺が着ていたのは、黒い燕尾服だった。
いかにも伯爵家の次男らしい、無難な服だ。
その背後で、俺は別の仕事をしていた。
舞踏会に集まる女性たちのドレスを、匿名の仕立屋として整えること。
数年前から、俺は工房の片隅で小さな仕事を始めていた。
名を出せない若い踊り子。
貴族の家に仕える侍女。
商会で働く女性。
戦傷で片腕を動かしにくくなった元騎士。
誰もが、今の自分に合う服を求めていた。
動きやすい服。
仕事がしやすい服。
人前に出る勇気をくれる服。
俺は依頼人の名前を聞かず、体の寸法と目的だけを聞いた。
そして匿名の仕立屋として、服を届けていた。
《シエル》は、王都では少し知られた存在になっていた。
誰が作っているのかは誰も知らない。
ただ、シエルの服を着ると、少しだけ前を向ける。
そんな噂だけが広がっていた。
舞踏会の夜も、俺は裏方として、会場の隅にいた。
アリシア公爵令嬢のドレスは、俺が作ったものではない。
王家専属の工房――ガイウスが管理する工房が作ったものだった。
黄金の糸。宝石を縫い込んだ裾。重く、豪華で、見る者を圧倒する。
だが、令嬢は何度も肩を動かしていた。
着慣れない硬さがある。
呼吸が浅い。
歩幅も不自然だ。
俺は遠くから見ているだけだった。
余計な口出しをすれば、兄に怒鳴られる。
その時、舞踏会の中央で、アリシア令嬢が倒れた。
悲鳴が上がる。
王太子が駆け寄る。
侍女たちが令嬢を支える。
「締め付けが強すぎる!」
「医師を呼べ!」
誰かがドレスの背をほどこうとするが、王家の礼装には複雑な魔法式が刻まれている。下手に切れば、宝石を固定している術式が暴走する危険があった。
俺は走った。
「失礼します」
「誰だ!」
「ヴェルデ伯爵家のルシアンです。礼装の構造を確認させてください」
王太子が俺を睨む。
「ガイウスの弟か」
「はい」
「早くしろ」
俺はアリシア令嬢の背へ手をかざした。
魔法式を見る。
予想どおりだった。
胸元と腰を強く固定し、美しい姿勢を保つための補助術式。しかし魔力の流れが乱れている。誰かが本来の設計より強い式を入れた。
見栄えを優先しすぎた。
着る人の呼吸を犠牲にして。
「外します」
「できるのか」
「できます」
俺は指先で縫い目をなぞった。
《役を纏う》を使う。
この服は、婚約者のための礼装だ。
ならば本来の役目は、彼女を美しく見せることではない。
王太子妃となる女性を、守ることだ。
「ほどけ」
俺が呟くと、背中の糸が一つずつ外れた。
宝石は落ちない。
布だけが、令嬢の身体を締めつける役目をやめた。
アリシア令嬢は大きく息を吸い、ゆっくりと目を開けた。
「……苦しく、ありません」
会場が静かになった。
俺はその場から退こうとした。
だが、兄の声が響いた。
「待て、ルシアン」
ガイウスは、人々の前へ出てきた。
「おまえは今、王家の礼装に勝手に手を加えたな」
「令嬢の容体が危険でした」
「王家の紋章が刻まれた礼装だぞ。おまえのような半端者が触れて良いものではない」
「ですが」
「黙れ」
兄は俺の胸倉を掴んだ。
周囲の貴族がざわつく。
「最近、王都では妙な仕立屋が流行っているらしいな。名はシエル。正体を隠し、女の姿で依頼人の家へ出入りしているという」
俺の背筋が凍った。
「兄上」
「何だ。否定するのか?」
ガイウスは、俺の内ポケットから一枚の布片を取り出した。
それは、俺が作った《シエル》の印だった。
淡い空色の糸で、雲の形を刺繍した小さな布札。
「王家の式典へ出入りする仕立屋が、女の姿をして貴族の屋敷へ入り込む。しかも、その正体は伯爵家の次男。これは看過できない」
会場に、嫌悪と好奇心が混ざったざわめきが広がる。
俺は兄を見た。
最初から知っていたのだ。
俺がシエルであることを。
そして、今日この場で暴くつもりだった。
王太子レオンハルトが、冷たい声で言った。
「ルシアン・ヴェルデ。おまえは我が王国の貴族社会を愚弄した。男でありながら女の姿を取り、身分を偽り、貴族の家へ出入りしたのか」
「私は、依頼を受けて服を作っていただけです」
「女の姿で?」
「仕立屋として、衣装の動きを確認していました」
「言い訳だな」
王太子はアリシア令嬢の方を見た。
「このような者が、我が婚約者の服へ手を入れた。危険極まりない」
俺は唇を噛んだ。
アリシア令嬢は、何か言いたそうにしていた。
だが、王太子に止められた。
「ルシアン・ヴェルデを、伯爵家の権利と役職から除外する。王都から追放し、北東辺境セレスタの旧織物倉庫へ移送せよ」
「殿下!」
俺の父――伯爵が声を上げた。
しかし、ガイウスが父の腕を掴んだ。
「父上。これ以上、家名を傷つけるわけにはいきません」
父は黙った。
俺は、父の目を見た。
そこには怒りもあった。
困惑もあった。
けれど、俺を守る意思はなかった。
それだけだった。
王太子は、俺へ最後に言った。
「女装などというくだらぬ遊びの代償を、辺境で支払え」
俺は少しだけ笑った。
「承知しました」
女装がくだらないのではない。
人間を服だけで判断する者が、くだらないのだ。
だが、その場で言っても意味はない。
だから俺は、何も言わなかった。
ただ、王太子の礼装の袖口に触れた時に見えた、薄い魔力の歪みだけを覚えておいた。
そこには、見覚えのない工房印があった。
ガイウスの工房が使う印ではない。
王家の礼装に、誰かが粗悪な術式を混ぜている。
アリシア令嬢が倒れたのは、事故ではないかもしれなかった。
*
北東辺境セレスタは、王都の人間が「何もない土地」と呼ぶ場所だった。
冬は長い。
夏は短い。
山から吹く風は冷たく、雪解け水は畑を壊し、魔獣が時々街道を横切る。
俺が送られた旧織物倉庫は、町外れにあった。
窓は割れ、屋根は半分落ち、織機には錆が浮いている。
荷物として与えられたのは、古い寝具と、最低限の食料、それから追放命令書だけだった。
伯爵家からの手紙はなかった。
兄からも、父からも。
俺は倉庫の中央に立ち、深く息を吐いた。
「さて」
何をするか。
普通なら、絶望する場面なのだろう。
だが前世の俺は、何度も何もない会場からイベントを作った。
机がないなら箱を使う。
照明がなければ昼の光を使う。
予算がなければ、必要なものを削る。
衣装が破れたなら、その破れを演出に変える。
人間は、条件が悪いから何もできないわけではない。
条件が悪いからこそ、工夫がいる。
俺は倉庫の織機に触れた。
魔力が残っている。
古いが、まだ使える。
次に、壁に残された帳簿を調べた。
セレスタは、かつて織物の産地だった。
山羊毛と薬草染めの布を作り、王都へ送っていた。しかし十年前、王家が大規模な軍服発注を別の商会へ回した。以後、織物工房は次々と閉鎖。
若者は都市へ流れ、残った者は農業と狩りで細々と暮らしている。
だが、町には技術が残っていた。
織る技術。
染める技術。
革をなめす技術。
雪と風に耐える服を作る技術。
俺は倉庫の扉を開け、通りへ出た。
最初に見つけたのは、荷車の前で困っている女性だった。
年齢は二十代後半。厚手のコートを着ているが、左袖が大きく破れている。荷車には薬草の籠が積まれ、隣には疲れた馬がいた。
「すみません」
俺が声をかけると、女性は警戒した。
「何ですか」
「袖、直しましょうか」
「直せるの?」
「応急処置なら」
俺は彼女の袖を見た。
布自体が悪い。
王都から仕入れた量産品だろう。寒さを防ぐための魔法が入っているが、縫い目が粗く、薬草の棘に引っかかりやすい。
「少し時間をください」
俺は荷車のそばに座り、持っていた糸と針を出した。
縫い目をほどく。
袖口の形を変える。
内側へ薄い革を当てる。
薬草採取用の手袋としても使えるよう、指先に小さな補強を入れる。
最後に、魔力を通した。
「《役を纏う》」
この服の役目は、薬草を採る人を守ること。
だから、棘と冷気だけを少し避ける。
派手な魔法ではない。
だが、彼女が袖を通した瞬間、目を丸くした。
「軽い」
「布の重さは変わっていません」
「でも、腕が動かしやすい」
「肩の位置を少し変えました」
「あなた、仕立屋?」
「そうです」
「王都から来た人?」
「追放されてきました」
「……何をしたの?」
「服を作りました」
女性は数秒、黙った。
それから笑った。
「変な人ね」
「よく言われます」
「私はヴェラ。薬師です。この町で薬草を扱ってる」
「ルシアンです」
俺は少し考えた後、付け加えた。
「仕立屋のシエルでもあります」
ヴェラは俺の顔と名前を見比べた。
「シエルって、女の仕立屋じゃないの?」
「そう思われているだけです」
「違うの?」
「服は、着る人で変わります。仕立屋も同じです」
ヴェラは、破れた袖を何度も動かした。
「……町の人に紹介してあげる」
「本当ですか」
「ただし、仕事ができるなら」
「できます」
「その自信は嫌いじゃない」
それが、セレスタでの最初の仕事だった。
*
最初の一週間で、俺は七件の依頼を受けた。
狩人の外套。
坑夫の手袋。
子どもの靴。
雪かき用の帽子。
荷運び人の腰当て。
縫い目がほつれた制服。
亡くなった妻が残した古いストールの補修。
王都なら、どれも大した仕事ではない。
だがセレスタでは、服が壊れれば仕事が止まる。
仕事が止まれば、食料が減る。
食料が減れば、冬を越せない。
俺は一つずつ直した。
高い金は取らなかった。
代わりに、材料と労働を交換にした。
糸を持ってくる者。
古い布を持ってくる者。
倉庫の屋根を直してくれる者。
織機を整備する者。
染料になる草を採ってくる者。
十日後、旧織物倉庫には、人が集まるようになった。
最初は服を直してほしい人だけだった。
次に、自分で縫い方を覚えたい人が来た。
さらに、昔織物工房で働いていた老人たちが、織機の前に座るようになった。
「この織機は、もっと細い毛を使えた」
「いや、山羊毛なら先に洗うべきだ」
「染めの温度が違う」
彼らは毎日喧嘩をした。
だが、手は止めなかった。
俺はその様子を見ながら、新しい布を考えた。
セレスタの問題は、寒さだけではない。
雪解けの時期には、水を吸った布が重くなる。
山へ入る人間は、魔獣の匂いを避ける必要がある。
薬草採取者は棘に苦しむ。
鉱山では毒気が出る。
兵士は防寒具が足りない。
つまり、必要なのは「綺麗な服」ではない。
この土地で生きる人を支える服だ。
俺は、古い織機の前に立った。
毛糸を通す。
糸に魔力を流す。
《役を纏う》を、服そのものではなく、布の段階へ刻む。
「セレスタ防寒布。試作一号」
できあがったのは、地味な灰色の布だった。
表面は風を防ぐ。
内側は熱を逃がしにくい。
濡れても重くなりにくい。
そして、山の魔獣が嫌う薬草の匂いを、ほのかに残す。
見た目は地味だった。
けれど、セレスタの狩人たちは黙って布を触り、その後、まとめて注文を入れた。
次に、炭鉱で働く男たちが来た。
「毒気が出た時に、分かる服は作れないか」
俺は考えた。
服に役目を与える。
坑夫の作業着なら、危険を知らせる。
袖口の糸が、空気中の毒に反応して色を変えるようにした。
魔法としては弱い。
だが、弱いからこそ量産できた。
それを見た炭鉱夫が、震える声で言った。
「これがあれば、弟は死ななかったかもしれない」
俺は、何も言えなかった。
服で、すべてを救えるわけではない。
もっと早く作れていればと思う。
けれど、今から作る服が、次の誰かを救えるかもしれない。
だから作る。
それしかできない。
*
《シエル》の名は、セレスタでも広がった。
俺は昼はルシアンとして工房を動かし、夜に依頼人の前へ出る時だけ、シエルの姿になった。
理由は単純だった。
王都では、シエルを女性だと思っている依頼人が多い。
俺の正体が知られれば、伯爵家や王家が余計な干渉をしてくる可能性がある。
それに、シエルとして話す方が、素直に相談してくれる人もいた。
服に関する悩みは、案外、言いにくい。
身体が動かしづらい。
古傷が見えるのが嫌だ。
男らしい服を着ろと言われる。
女らしい服を着ろと言われる。
仕事をするには不便だ。
人前に出る勇気がない。
そういう相談を受けるたび、俺は思った。
服は、ただ布を着る行為ではない。
他人から「こう見られろ」と押しつけられるものでもある。
だからこそ、選ぶ自由が必要なのだ。
ある夜、工房へ若い兵士が来た。
二十歳くらいだろう。顔には浅い傷があり、軍服の袖を隠すように立っていた。
「シエルさん、ですか」
俺は淡い藍色のドレスを着ていた。髪は長いかつらで隠し、顔には簡単な化粧をしている。
「そうです。ご依頼は?」
「俺……いや、自分は、軍を辞めることになりました」
「怪我ですか」
「左腕が、前ほど動かなくて」
彼は袖をめくった。
肘のあたりに、深い火傷の跡がある。
「軍服を着ると、皆に言われるんです。『まだ兵士ぶるのか』って。でも、普通の服を着ると、今度は自分が何だったのか分からなくなる」
俺は少し考えた。
「兵士だったことを、捨てる必要はありません」
「でも、もう戦えない」
「戦えないことと、兵士だったことは別です」
俺は彼の軍服を受け取り、布を触った。
擦り切れた袖。
雨に濡れた肩。
何度も繕われた胸元。
そこには、仲間の名前が小さく刺繍されていた。
「この服を、作り替えましょう」
「作り替える?」
「軍服ではなくします。でも、あなたが守ってきたものは残します」
数日後、俺は彼に、動きやすい短い上着を渡した。
軍服の濃紺を残しつつ、左腕には大きな余裕を持たせた。背中には荷物を背負いやすい補強を入れ、袖口には火傷の傷を擦らない柔らかな布を使った。
胸元の刺繍は、内側へ移した。
他人に見せるためではなく、自分が忘れないために。
彼は服を着て、しばらく鏡を見ていた。
「……これなら」
「はい」
「これなら、町の見回りの仕事ができるかもしれない」
「できます」
彼は泣きそうな顔で笑った。
「ありがとう、シエルさん」
俺は頷いた。
「役目は、誰かに決められるものではありません」
その言葉は、彼に向けたものだった。
同時に、自分にも向けたものだった。
*
セレスタの工房が黒字になった頃、王都から使者が来た。
雪解け前の、冷たい朝だった。
銀の馬車。
王家の旗。
そして、かつて俺を追放した兄、ガイウス・ヴェルデ。
「久しぶりだな、ルシアン」
兄は、倉庫の入口に立った。
王都にいた時と変わらない、完璧な服装。毛皮の外套。磨かれた靴。白い手袋。
ただし、目だけが以前より疲れていた。
「何の用ですか」
「王家から命令がある」
兄は書状を差し出した。
「セレスタの織物工房、および装衣魔法による製品を、王家軍需局の管理下へ置く」
俺は書状を読んだ。
軍への供給。
製法の提出。
工房の財産を王家へ移管。
従わなければ、無許可の魔法製品製造として処罰。
「断ります」
俺が即答すると、兄の眉が動いた。
「考えろ。王家に納めるのだぞ。おまえが望んでいた仕事ではないか」
「違います」
「何?」
「私は、王家のためだけに服を作りたいわけではありません」
俺は工房の中を指した。
織機の前には、老人たちがいる。
薬草を運ぶヴェラがいる。
炭鉱夫がいる。
元兵士がいる。
子どもたちが、端切れで人形を作っている。
「ここで作っている服は、ここで生きる人のための服です。軍に売ること自体は構いません。ただし、工房の権利と働く人間の生活を奪う命令には従いません」
ガイウスは鼻で笑った。
「辺境で少し商売が上手くいったからといって、勘違いするな。おまえは追放者だ。伯爵家の名がなければ、何者でもない」
「そうですね」
俺は頷いた。
「だから、今は自分の名で働いています」
「何だと」
「ルシアン・ヴェルデではなく、シエルとして」
兄の顔が固まった。
「まだその名前を使っているのか」
「使っています」
「恥を知れ」
「兄上こそ、知るべきです」
俺は兄の外套を見た。
王都の最新流行の、白銀の刺繍。
だが、その糸には見覚えがある。
王家の礼装に混じっていた、粗悪な魔力糸と同じものだ。
俺は指先に魔力を集めた。
布の記憶を読む。
《役を纏う》は、着る人の役目だけを見せる魔法ではない。
その服が、誰の手によって、どんな意図で作られたかも、薄く映し出す。
兄の外套に浮かんだ文字を見て、俺は息を止めた。
【製造:グレイヴ商会】
【発注:王家軍需局】
【混入術式:生命力吸収補助】
【目的:装備着用者の魔力を蓄積し、王太子専用魔導具へ転送】
寒気がした。
王家軍需局が求めているのは、セレスタの織物技術ではない。
俺たちの技術を使って、兵士たちから魔力を吸い上げる装備を完成させるつもりだ。
そして、その魔力を王太子のために使う。
「兄上」
俺は低い声で言った。
「王都では、何が起きているんですか」
ガイウスは一瞬、目を逸らした。
それだけで分かった。
兄は知っている。
全部ではなくても、何かを知っている。
「余計な詮索をするな。これは王太子殿下のご意向だ」
「兵士の命を削る装備を作ることが?」
「国を守るためだ!」
兄の声が響いた。
「北方諸国との戦争が近い。王太子殿下には、強大な魔導具が必要だ。多少の犠牲は仕方ない」
「多少?」
俺は工房の中を見た。
元兵士。
炭鉱夫。
薬師。
子ども。
生活を支える人たち。
「犠牲になるのは、いつも自分ではない人間ですね」
「綺麗事を言うな!」
「綺麗事ではありません。服を作る者として、当たり前の話です」
俺は書状を兄へ返した。
「セレスタ工房は、王家軍需局の命令を拒否します」
「ならば、後悔するぞ」
兄はそう言い残し、馬車へ戻った。
その背中は、王都にいた時より少し小さく見えた。
*
三日後、セレスタへ新しい税が課された。
織物税。
染料税。
魔法製品登録税。
運搬税。
工房利用税。
雪害対策協力金。
名称はいろいろあったが、要するに「セレスタが稼いだ分を王都へ寄越せ」ということだった。
町の人々は怒った。
「また王都か」
「工房を閉じろということか」
「働いても取られるなら、何のために作る」
俺は帳簿を広げた。
感情だけで反発しても、相手の思う壺だ。
王都は、こちらが混乱して工房を止めるのを待っている。
「まず、支出を整理します」
俺が言うと、皆がこちらを見た。
「税そのものをすぐ消すことはできません。ですが、払えない仕組みを作られているなら、払える形に変えます」
「どうやって?」
ヴェラが尋ねた。
「工房を一つの家ではなく、共同組合にします」
俺は紙に書いた。
出資した者。
働いた者。
糸を作った者。
染めた者。
運んだ者。
販売した者。
全員が工房の一部を持つ。
「税が来ても、一人の仕立屋を潰せば終わる形にはしません。工房の利益を、町の水路、学校、診療所、備蓄へ回す。王都が工房を止めれば、町の生活を止めることになる。その責任を、王都にも見せます」
「そんなことができるのか」
「できます」
「貴族が許す?」
「許させます」
それから、俺は新しい服を作り始めた。
王都へ見せるための服ではない。
セレスタのための服だ。
雪原を歩く荷運び人の外套。
炭鉱で働く者の防毒マスク。
薬草採取者の防棘手袋。
料理人の耐熱前掛け。
子どもの成長に合わせて丈を調整できる制服。
片腕を動かしにくい人のための上着。
車椅子でも裾を巻き込まない長衣。
魔獣の接近を知らせる狩人の帽子。
そして、誰でも着られる式典用の服。
貴族のためだけではない。
町の人が、自分の仕事と生き方を誇れる服。
俺はその服に、小さな空色の糸を縫い込んだ。
シエルの印。
空は、誰のものでもない。
だから、空を名乗った。
*
春になる頃、セレスタは《装衣市》を開くことになった。
町の人間が自分たちで作った服を持ち寄り、他の地域の商人へ売る市場だ。
ただの即売会ではない。
服の実演をする。
防寒布がどれだけ風を防ぐか。
毒気に反応する袖口がどう変わるか。
片腕でも着やすい上着の仕組み。
仕事着の補修方法。
子ども服の調整方法。
町の女性たちは、自分たちで作った服を着て歩いた。
炭鉱夫たちは、黒い作業着のまま胸を張った。
狩人たちは、防寒外套の襟を立てた。
薬師たちは、薬草染めの手袋を見せた。
皆、自分の服を着ていた。
誰かに決められた役ではない。
自分で選び、果たしている役の服だ。
市が始まった朝、俺はシエルの姿になった。
淡い灰青色の長い上着。
女性用のドレスと男物のコートの中間のような、ゆるやかな形。
動きやすく、風を受け、汚れにくい。
俺自身が作った、《誰のためでもない仕立屋の服》だった。
広場には、予想以上の商人が集まっていた。
隣の領地。
山向こうの都市。
北方の遊牧民。
王都から来た若い職人たち。
皆、セレスタの布を見に来た。
「これが、シエルの服か」
「本当に女の仕立屋だったのか」
「いや、声が少し低いぞ」
「どうでもいい。性能を見ろ」
そんな声が飛ぶ。
俺は笑いそうになった。
どうでもいい、と言ってくれる人間がいる。
それだけで、ここへ来た意味があった。
だが、昼過ぎ。
広場の入口に、王家の旗が現れた。
王太子レオンハルト自身が、兵を連れて来た。
その後ろには、ガイウスもいる。
王太子は、広場を見渡し、俺――シエルへ視線を向けた。
「貴様が、仕立屋シエルか」
「そうです」
俺は答えた。
「王太子殿下」
「妙な格好だな」
「仕事着です」
「男か女かも分からぬ者が、王国の職人を名乗るのか」
広場の空気が凍る。
以前の俺なら、ここで言葉を失ったかもしれない。
王都の舞踏会で、皆の前に晒された時のように。
だが、もう違う。
俺の後ろには、セレスタの人々がいる。
俺一人の問題ではない。
「服に性別はありません」
俺は静かに言った。
「あるのは、着る人の目的と、作る人の技術です」
「口答えするな」
「事実を述べています」
王太子は、書状を掲げた。
「セレスタ工房は、王家軍需局の命令を拒んだ。よって工房と全製品を没収し、関係者を反逆の疑いで拘束する」
兵が動く。
ヴェラが前へ出ようとした。
俺は手を上げて止めた。
「殿下。王家は、軍需局の装備について公開説明を行えますか」
「何?」
「王家がセレスタの技術を求める理由です」
「国防のためだ」
「では、なぜ現在の軍服に、生命力を吸い上げる術式が混ぜられているのですか」
王太子の表情が、わずかに変わった。
広場がざわついた。
俺は続ける。
「なぜ、北部防衛隊の兵士たちが、任務の後に原因不明の衰弱を訴えているのですか」
「証拠はあるのか」
「あります」
俺は、広場の端に置かれた箱を開けた。
中には、北部防衛隊から密かに送られてきた軍服が入っている。
袖口。
胸当て。
靴。
それぞれに、王家の軍需局が使う印がある。
俺は布へ触れた。
《役を纏う》を使う。
衣装に残る役目を読み取る。
すると、布の上に淡い光が浮かんだ。
魔法を使える者なら、誰でも見える形で。
【着用者の魔力を吸収】
【蓄積先:王太子専用魔導具《暁の冠》】
【目的:大規模攻撃魔法の発動補助】
広場が静まり返った。
王太子は叫んだ。
「偽造だ!」
「偽造ではありません」
別の声が響いた。
広場の後方から、一人の女性が進み出た。
アリシア公爵令嬢だった。
彼女は王都の舞踏会で倒れた、王太子の婚約者。
だが今日は、豪華なドレスではなく、動きやすい濃緑色の旅装を着ていた。
「私は、王太子殿下の婚約者として、王家専属工房の礼装を何度も着ました。そのたび、身体が重くなり、呼吸が苦しくなった」
王太子が振り返る。
「アリシア。何をしている」
「真実を話しています」
「おまえは私の婚約者だ」
「だからこそ、見過ごせません」
アリシア令嬢は、広場に集まった人々を見渡した。
「王太子殿下は、王国を守るためだと説明しました。けれど、その魔導具を使うために、兵士たちの魔力を奪うことは聞いていません」
「国家には必要な犠牲がある!」
王太子の声が響いた。
「北方諸国が攻めてくれば、どれだけの民が死ぬと思っている。私には、王国を守る責任がある!」
「責任とは」
俺は言った。
「自分ではない誰かを、勝手に犠牲にすることですか」
王太子は俺を睨んだ。
「貴様に何が分かる」
「分かります」
俺は一歩前へ出た。
「服を作る者は、着る人のことを考えます。兵士の服を作るなら、兵士が帰ってくることを考える。薬師の服を作るなら、薬師が倒れないことを考える。子どもの服を作るなら、その子が来年も着られることを考える」
俺は《暁の冠》の設計書を取り出した。
ガイウスがセレスタへ来た時、その外套から読み取った術式をもとに、俺は王都の技術者へ調査を頼んでいた。
協力してくれたのは、かつて俺の服を着た職人たちだった。
匿名の仕立屋シエルを知る者。
王都で、理不尽に扱われてきた者たち。
「王太子殿下は、王国を守ると言いながら、王国を支える人間を消耗品として扱った」
俺は王太子を見た。
「それは、王ではありません」
長い沈黙が落ちた。
その時、ガイウスが動いた。
彼は王太子の後ろから、ゆっくりと前へ出る。
兄の顔は、青ざめていた。
「……俺が、証言する」
俺は目を見開いた。
「兄上」
「軍需局の発注書に、俺は署名した」
ガイウスは、自分の手袋を外した。
「最初は知らなかった。魔力を効率化する補助術式だと聞かされていた。だが、北部から報告が来た。兵士が倒れた。軍服のせいだと気づいた」
「なら、なぜ止めなかった」
俺は尋ねた。
兄は、苦しそうに目を伏せた。
「怖かった」
その言葉は、あまりに弱かった。
けれど、嘘ではなかった。
「王太子に逆らえば、伯爵家は終わる。父上も、家臣も、工房も。俺は家を守ろうとした」
「結果として、兵士を切り捨てた」
「ああ」
兄は頷いた。
「俺は、おまえを馬鹿にした。女の服を着て、名も隠して、くだらないことをしていると思っていた。だが違った。おまえは、服を着る人間を見ていた」
広場の全員が、兄を見ていた。
「俺は、家名しか見ていなかった」
ガイウスは、王太子の前に証拠書類を置いた。
「軍需局の帳簿だ。発注額、材料費、術式の変更記録。すべてある」
王太子の顔が歪んだ。
「貴様、私を裏切るのか」
「違う」
ガイウスは、初めて王太子をまっすぐ見た。
「俺は、これ以上、自分を裏切らない」
その直後、広場の外から馬の蹄の音が聞こえた。
王家近衛隊だった。
しかし彼らは王太子の兵ではない。
国王直属の近衛隊だ。
先頭には、王国の宰相がいた。
「レオンハルト王太子」
宰相は静かに告げた。
「国王陛下の命令により、あなたを王位継承権停止の上、王都へ同行させます」
「父上が?」
「北部防衛隊からも、同様の証言が届いております」
王太子は何かを言おうとした。
しかし、言葉は出なかった。
彼は最後に俺を見た。
「貴様のせいだ」
俺は首を振った。
「違います」
「何?」
「あなたが、自分で選んだ結果です」
王太子は、何も答えなかった。
近衛隊に囲まれ、そのまま馬車へ連れて行かれた。
広場には、春の冷たい風だけが残った。
*
その後、王都では大きな裁きが行われた。
軍需局の不正。
兵士の魔力搾取。
粗悪な礼装の横流し。
王太子の私的な魔導具開発。
ガイウスはすべてを証言した。
兄自身も責任を免れなかった。
伯爵家の後継者の座を失い、工房の管理権も剥奪された。
だが、牢へ入る代わりに、北部防衛隊の装備改善へ十年間従事することになった。
俺はその判決を聞いて、複雑な気持ちになった。
兄を許したわけではない。
俺を切り捨てたこと。
服装を理由に侮辱したこと。
王太子の不正を止めなかったこと。
その全部が消えるわけではない。
けれど、兄がこれから兵士たちの服を作るなら、少なくとも彼は、自分の決断の結果を毎日見ることになる。
それは罰であり、同時にやり直す機会でもあった。
父は、王都から手紙を送ってきた。
内容は短かった。
――私は、おまえを守るべきだった。
俺は返事を書かなかった。
まだ、書けなかった。
許すかどうかを急ぐ必要はない。
傷つけられた側が、すぐに答えを出す義務はない。
そのことも、前世では分からなかった。
*
セレスタ工房は、正式に《北東装衣共同組合》となった。
工房の所有者は、俺一人ではない。
織る者。
染める者。
縫う者。
運ぶ者。
売る者。
使う者。
町の人間が、それぞれ少しずつ権利を持つ。
俺は代表仕立屋になった。
ただし、代表だから偉いわけではない。
帳簿を公開し、意見を聞き、必要な服を作る。
それだけだ。
《シエル》の名前も残した。
王都では、俺が男だと知って驚く者もいた。
女だと思っていた、と言う者もいた。
男がそんな服を着るのか、と眉をひそめる者もいた。
だが、セレスタでは誰も気にしなかった。
俺がルシアンの姿で織機を回していても。
シエルの姿で商談をしていても。
作業着を着て雪道を歩いていても。
皆、同じように言った。
「新しい外套、いつできる?」
「子どもの制服、丈夫にしてくれ」
「薬師用の鞄を作りたい」
「市場で売る服、もっと明るい色にしよう」
それでよかった。
ある日、ヴェラが工房へ来た。
彼女は以前、俺が直した薬草採取用のコートを着ている。
「ルシアン」
「何ですか」
「今日、シエルの姿じゃないのね」
「昼ですから」
「別に、昼でもいいのに」
「そうですか?」
「そうよ。あんたは、どっちの姿でもあんたでしょ」
俺は少し黙った。
昔なら、その言葉を聞いても信じられなかったかもしれない。
男として生きる自分。
仕立屋シエルとして服を着る自分。
伯爵家の次男だった自分。
追放者だった自分。
全部、どれか一つだけが本物ではない。
選んだ服も、選んだ仕事も、選んだ生き方も。
全部が俺の一部だ。
「そうですね」
俺は笑った。
「今日は、新しい式典服の試作をします」
「また派手なの?」
「今回は、誰でも着られる服です」
「どんな?」
「男物とも女物とも決めない礼装です。仕事着の上からも着られて、年齢も体格も選ばない」
「難しそうね」
「難しいです」
「でも作る?」
「作ります」
俺は織機の前へ立った。
空色の糸を一本。
深い藍の糸を一本。
雪の白。
土の茶。
薬草の緑。
炭鉱の黒。
いろいろな色を、同じ布へ織り込んでいく。
誰かの役を押しつける服ではない。
誰かが、自分の役を選ぶための服。
それが、俺の作りたかったものだった。
窓の外では、春の風が吹いていた。
セレスタの町を抜け、遠くの山へ向かって。
王都で「貴族の恥」と笑われた俺の服は、今では兵士を守り、薬師を支え、子どもを温め、働く人の背中を押している。
服一枚で、世界が変わるわけではない。
だが、服一枚があれば、人は少しだけ前へ進める。
寒い日に外へ出られる。
傷ついた腕を隠さずに済む。
人前に立てる。
働ける。
誰かと会える。
そして、自分の役を自分で決められる。
だから俺は、今日も針を持つ。
女装をしても。
男の姿でも。
どんな服を着ていても。
俺は俺のまま、誰かの明日を縫っていく。




