第2話 『彼女の、不可逆なインフレーション』 『彼女の教室 ―康介の孤独』
場所:『彼女の教室』撮影セット。
夕暮れの3年C組。
誰もいない後ろの席が、橙色の光に染まっていた。
康介を演じる役者が、その空席に向かって独白を続けている。
康介(役者):「……何もわからないまま、ここまで来たんだな、俺たち」
完璧な間。完璧な哀愁。カメラがゆっくり寄る。
その時——窓がガタッと鳴った。風はない。誰も開けていない。まるで、外から誰かがそっとガラスに指を這わせたような、小さな振動。
康介(役者)の声が、一瞬だけ震えた。
「……あっ」
監督:「カット! 康介、何やってんだ! ここは君の繊細な独白が、作品全体の伏線になる大事なシーンなんだ。揺らぎなんかに負けるな、完璧に収束させろ!」
康介(役者)は頭を下げた。その背中は、少しだけ小さく見えた。
セットの片隅で、拓を演じる役者が近づく。
拓(役者):「さっきの『わからないまま』。良かったと思うけどな。お前の声に、ちゃんと覚悟が乗ってた」
康介(役者):「……でも、監督は——」
拓(役者):「監督は『完璧』を求めている。でも、お前が演じたのは『ただのわからない』じゃなかった。『わからなくていいんだ』って、それが伝わってきたよ」
康介(役者)は、拓を演じる役者の言葉に肩の力を抜いた。
康介(役者):「……もう一度、やってみる」
拓(役者)(笑って):「ああ。今度は、俺のコーヒーのおかげで、もっと良くなるさ」
セットの隅で、カノジョは小さく微笑んだ。彼女は康介の背中に、すでに染み込んだ吐息を、もう一層深く押し込むように視線を落とした。最初の一滴が、ゆっくりと体内で膨らみ始めていた。
次のテイクで、何かが変わる予感がした。
監督:「カット!! ……完璧だ、今の」
監督の絞り出すような声が響くと同時に、スタジオを支配していた重い沈黙が、熱狂を孕んだ拍手へと弾けた。
脚本家は康介のもとへ駆け寄り、
「君が今、物語の『正解』を書き換えたよ」
と震える声で告げた。
セットの隅で、"カノジョ"は小さく微笑んだ。




