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蛍の横顔  作者: 夏乃緒玻璃


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三話 夏の蛍

 どうしてそうなったのかよくわからない。

 私達は夏休み、東北新幹線に乗ってホタルさんの実家に向かっていた。


 母子ともにホタルさんに口説き落とされたのだ。色々思うところの多い母だが、こういう押しに弱い所は私と母は似ているのだろう。


 東北地方。何県だったかは子供だったのでわからない。母も覚えていないだろう。


 当時は気にもしなかったが、まあ今振り返れば色々な可能性が考えられる。


 例えば喘息持ちの私に、田舎の空気をと考えた優しさだったのかもしれない。

 或いは、母は何日かの宿泊の対価として、ホタルさんにいくばくかの謝礼を払ったかもしれない。おそらくは彼女への援助のつもりで。

 今となっては確認のしようもない、どうでもいい事だ。


 ホタルさんの実家は大きな農家だった。

 藁葺き屋根の平屋建て。日本昔話にでてくるような大きな家と広い田畑。


 誇らしげに禿頭とくとうにタオルを巻いたお爺さんと、小柄で優しそうなお婆さんが迎えてくれた。

 ご両親は不在だった。

 出稼ぎにでも行っていたのだろうか。


 ホタルさんは浴衣のような姿でやってきて、母に何度も頭を下げた。そして私に抱きついて歓迎してくれた。

 しかし田舎でのホタルさんは東京にいた時に比べると少し大人しく、元気がないように感じた。

 その横顔は東京ではしゃいでいた頃より大人びて、より綺麗に見えた。


 数日間の滞在だったが、東京育ちの私にとって、田舎生活は目眩くような大冒険だった。


 お爺さんがよい遊び相手になってくれて、トラクターに乗せてくれたり、虫やイモリなどをたくさん捕まえてくれた。イモリの腹の真っ赤な模様に悲鳴を上げると、げらげら笑いながら、用水路にそれをポイッと投げた。


 ホタルさんは相変わらず優しかったが、あまり外には出なかった。ただ私が満足そうに遊んでいる姿を見て安心はしたようだった。


 滞在中に一度、若い男性が訪ねてきた。

 よく日焼けした、がっしりとした人で、黒眼鏡をかけていた。

 ホタルさんと親しいようで、互いに話を弾ませていた。私と母が滞在しているのは知っていたようだった。


「ここら辺は何も無いですけど、ゆっくり楽しんでってください」

 男は少しなまった発音でそう言って頭を下げた。

 そしてその日一晩泊まり、翌朝には去って行った。

 私はこの男性を少し苦手に感じていたので、正直言えば少しホッとした。


 小さな嫉妬心があったのは間違いないだろう。しかし男とホタルさんが親しげな事自体はあまり気にしていなかったと思う。

 状況からみて男性はホタルさんの恋人か、婚約者か、そんなところだったのだろう。


 その時の自分がどこまで察していたのかは曖昧だ。

 しかし五歳児が見上げる横顔ではなく、真正面から彼女を見ていたであろうこの人をどこか羨んだ気持ちは、あったのではないだろうか。

 まあこのあたりは、今思えばの話でしかないのだが。

 実際、愚かな子供だった私は女性のホタルさんより昆虫の蛍が気になって仕方なかった。

 彼女があれほど自慢していた沢山の蛍は、しかしどこにもいなかった。


 ねえ蛍はどこにいるの。いつ見れるの。

 無遠慮に問うと、ホタルさんは申し訳なさそうに言った。


「ごめんね。農薬でこのへんの蛍はいなくなってしまったんだって。嘘ついたんじゃないんだよ。ごめんね」

 ごめんねを繰り返しながらふと思いついたように言う。


「そうだ。少し先の沢に行けばまだ見れるよ、明日行こうか」

 ホタルさんの顔がぱあっと明るくなる。一瞬、東京にいた頃の彼女のように見えた。

 しかしすぐに祖父母が諌めた。


「そんな体で行っちゃだめだ。今だってほんとは寝てないと駄目なんだよ。お腹の子の事を考えなさい」


 事情などよく分からないまま、私は蛍が見れない事は理解した。そして少し拗ねたような仕草をしたのだと思う。


「ごめんね。いま私、お腹に赤ちゃんがいて遠くに行けないんだ」


 ホタルさんが寂しそうな顔でまた謝った。



 その夜、夢を見た。

 夢の中の沢で、たくさんの蛍が空に舞っていた。美しいけれど、どこか寂しい光の舞。


 私は孤独な部屋で一人、帰りの遅い母親を待つ事が多かった。そんな時は窓から差し込む通行車のライトの反射を眺めて寂しさを紛らわした。その時に似た不安。

 留守番の日の母親が帰宅しないのは、悪意では無いのは分かっていた。ただ仕事が忙しくて遅くなるだけなのだ。


 けれど、一人の夜はいつだって寂しくて怖い。


 ふいに、温もりを感じた。

 いつの間にか横に来てくれていたホタルさんが、すっと手を握ってくれた。

 綺麗だねえ。夢の中のホタルさんが空を指差す。

 頷きながら、私はホタルさんのその白い横顔を見ていた。


 しかしやがて全ては消えていき、私は目を覚ます。

 涙は流れていなかったが、心はなぜか悲しみに満ちていた。


 やがて帰る日がやってきた。

 お爺さんは虫籠いっぱいのバッタやらキリギリスやらをお土産に渡してくれ、卒倒しそうな顔の母に構わず私はそれをバッグにいれた。


 ホタルさんは何度も何度も手を握って、来てくれてありがとう。また東京で会おうね。と指切りした。


 それがホタルさんと会った最後の日になった。


 夏休みが終わって、秋になってもホタルさんは戻って来なかった。

 彼女が美容院も辞めてしまった事を知ったのは、それからしばらく経ってからだった。


 美容院では私は相変わらず王子様で、ショートカットのヒーローごっこお姉さんは元気だった。

 相変わらずグリグリされたりしている時、ふとホタルさんが黒い髪を揺らしながらお菓子を持って来てくれるような錯覚を覚えて、振り返ったりもした。


 しかしそんな時はとうとう来なかった。



 更に一年後。

 家庭の事情により私達はその地を離れる事になった。疎遠だった夫との離婚が成立し、母は新しい夫と別の土地に移っていった。


 一度だけ、母に離婚の理由を聞いた。


「もともと好きで一緒になった人ではないから」

 母は私の目を見ずにそう答えた。

 私には父の顔の記憶が無い。という事は父母はずっと別居状態だったという事なのだろう。

 私もまた父方の祖母に引き取られ、その地から離れた。寂しくはあったが、すぐに慣れた。


 皮肉にも母との関係は距離が置かれた事で以前のようなギスギス感が無くなった。

 家族でなくなっても親子ではあるが、家族で無いなら互いに相手に期待や要求をする事はもはや無い。衝突もしないという事なのだろう。


 新しい生活が始まる。

 母と暮らした街で体験した小さな出来事のいくつかは、幼い日の大切な記憶である。


 しかし反面それは置き去りにしてきた過去であり、言い方は悪いが忘れていかないと前へ進めないノスタルジーという甘美な檻でもある。


 だから、ホタルさんの事は記憶の片隅に置き、特に思い出しもしなかった。


 そして、思い出さぬまま時は流れた。

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