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蛍の横顔  作者: 夏乃緒玻璃


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二話 道路の向こう側の街

 もう少し年齢がいった少年であれば、若い女性に手を引かれて彼女の家に行くという行為に対し、気恥ずかしさを感じただろう。

 だが、五歳児にとっては「親に怒られないか」ばかりが気になって気が気ではなかった。


 正直言えば私はホタルさんがあまりに熱心だから、つい彼女を気遣ってしまっただけであり、申し訳ないが楽しくもなかったし気乗りもしていなかった。

 この歳にして女性の顔色を伺う事を覚えたのは、彼女のせいである。今となっては懐かしい限りだが。


 道路の先の小さな公園の横を抜けて進む。

 アパートや安普請のテラスハウスが立ち並び、商業施設なんかは全く無い。


「優くんちの方と比べたら、ちっちゃい家ばっかりだよね。お店もないし」


 ホタルさんは少し寂しそうに言う。


「それに、今はまだマシだけど昼間は工場の音が凄いんだ。お店がお休みの日でも、ゆっくり寝てられない」


 コホンと小さく咳をする。

 言われてみれば、そこかしこからカタンカタンという工場の稼働音が響いていた。


「空気も悪いし。優くん喘息あるんだよね、私もなんだ。でも優くんいつもお店で咳き込んでも、大丈夫だよって言って、偉いよね」


 知らない道をどんどん進んでいく事に多少の不安を感じながら、私はホタルさんのお家も小さいの?と聞いた。


「アパートなんだ。アパートってわかるかな。でもね、田舎にあるお家は大きいんだよ。そうだ、こんどお母さんと一緒に来てよ。カブトムシとか、たくさんいるよ。蛍も見れるよ」


 カブトムシに興味はなかったが、本のやテレビの中でしか知らない蛍は、見たいと思った。

 本当にあんな風に光るのか、見てみたいと思った。


 ホタルさんはその反応にたいへん喜んだ。

 そしてそれがどんなに明るくて、綺麗かを力説し、絶対に見せてあげたいからおいでと、また繰り返した。


「約束だよ。絶対来てね」


 五歳児に言う台詞と向ける視線では無いだろうと、今でも思い出すとクスリと笑ってしまう。

 その時の少し拗ねたような甘えたような表情は、とても美しかった記憶がある。


 彼女の小さなアパートに着く。

 螺旋状の外階段を登った先の部屋。まずその階段が幼児の目からはカッコよかったし、扉を開けたらすぐに生活空間というのも新鮮だった。

 部屋に入ると、ホタルさんは「ちょっとだけ待ってね、と言って、着ていたセーターをハンガーに掛けた。そして、小さな台所の流しで手を洗い、うがいをした。


 彼女は手にしたフランスパンをカットし、陶磁器の皿に乗せてジャムとバターを添えて出してくれた。

 それから、銀色の取手のティーカップに入ったレモンティー、それにガラスのケースに入ったボンボンの菓子も持ってきてくれた。薄いピンクは桃の味。薄い紫は葡萄の味。

 ボンボンは口に入れるとすぐに溶け、シロップの甘酸っぱさが、いっぱいに広がった。


 きれいな部屋だったと記憶している。小さく狭いアパートだったが、彼女なりに精一杯、お洒落できちんとした空間を作っていたのだろう。今思えば、二十歳そこそこで上京して一人暮らし。決して楽ではなかったはずだ。


 しかし私は当然ながらそんな思いを巡らす事なく瓶の中の高級ボンボンを遠慮なくむさぼり、紅茶のお代わりをした。

 彼女はマンガの本を何冊も持ってきてくれた。全て少女マンガで、努力家の主人公が恋人と結ばれるお話が多かったが、中には何冊かホラー漫画もあった。

 女学生が主人公で、罪だとか罰だとか言い合っている内容だったと微かに憶えている。


「あっ、それ怖いんだよー。大丈夫?」


 などと言いながらホタルさんは悪戯っぽく笑った。

 本を読んでいる間に、彼女は家に電話をしてくれた。


「すみません。ええ、はい。道で優くんに会って。かわいくて。連れてきちゃいました。ええ、はい大丈夫です。大丈夫です」


 ホタルさんは最初こそ謝っていたが、途中から大丈夫を繰り返していた。母の性格からいって、おそらく私の身ではなく私がホタルさんに迷惑をかけているのではないかを気にしていたのだろう。


 子供にとってはかなり長い時間の滞在だったように記憶している。ホタルさんはニコニコしながらこちらを見ていた気もするし、何かノートを広げて勉強していた様な気もする。部屋全体からいい匂いがしていた。

 初めて訪れたよその家なのに、不思議と気持ちが安らいでいた。部屋は確かに大きくないが、自分とホタルさんの二人きりだとじゅうぶん広く感じた。


 一人ならもっと広く感じるのかもしれない。

 一人の部屋で留守番する事は当時の私には珍しく無い事だったが、それは孤独で寂しい時間だった。ホタルさんもいつもは寂しいのかな、そんな風に思ったりもした。ガランとした自分の部屋に帰るのが、少しだけ嫌だった。




「他人の家の子を部屋にあげて菓子を食べさせて、結局彼女は何をしたかったのかさっぱりわからない。満足そうにしていたのも不思議。まだ母に電話で身代金要求でもしていた方が理解できる」


 後年、恋人にホタルさんの話をしたことがある。


「男にはわからないんでしょ。ーー違うか。アナタにはわからないんでしょ」


 というのが答えだった。

 確かにさっぱりわからない。


 私はボンボンを口に放り込む。

 出先でこの菓子を見かけるとつい買ってきてしまう。そしてガラスの器に入れておく。

 そういえば初めてこれを食べたのはあの時だった。


 シロップは甘酸っぱく、どこか懐かしい味がした。


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