<断章>エピソードE:Echo of the rain Ⅱ
アリスが壁の中に消えてから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
実際は数分しか経っていないはずなのに、とても長い時が過ぎたような感覚に陥る。
しかし腕時計の針は、三時十五分から一ミリも動いていない。
「アリス、アリス……」
私は指先から血を流しながら、依然として灰色の壁を掻き続けていた。
だが、返ってくるのは冷酷な石の感触だけだ。
そして、さらに恐ろしいことが起こり始めた。
私の背後で、街が『組み変わって』いく音が聞こえるのだ。
ギィ……ギィ……。
それは金属同士が油を失って擦れ合う、不快な悲鳴。
振り返ると、そこにはもう、私の知っている住宅街はなかった。
電柱は飴細工のようにねじれ、その先端からは街灯の代わりに巨大な懐中時計がぶら下がり、不規則なリズムで時を刻んでいる。
アスファルトの隙間からは、ドクダミの代わりに真鍮の歯車が芽吹き、カチカチと乾いた音を立てて増殖していた。
「何なのよ、これ……」
私はよろめきながら、自分の家の方へと走り出した。
あそこへ帰れば、何か間違いだったと気づけるはずだ。
アリスは二階の部屋で、いつものように宿題をしている。
私が買い与えたあのネイビーの傘は、ちゃんと傘立てに収まっている。
そう信じたかった。
だが、辿り着いた『我が家』は、私の知る場所ではなかった。
玄関のドアは真鍮の装飾に覆われ、鍵穴は複雑なパズルのように組み替えられている。
必死に鍵を差し込もうとしたが、鍵はその瞬間に砂のように崩れ落ちた。
「開けて! 開けなさい!」
ドアを叩くと、中から声がした。
それは、私自身の声だった。
『アリス、まだ宿題が終わらないの? あなたのためを思って言っているのよ。お母さんの言う通りにしていれば、あなたは世界で一番幸せな女の子になれるんだから』
「……え?」
私は凍りついた。
家の中から聞こえてくるのは、過去の私があのアリスという『箱』に詰め込み続けてきた、正しい言葉の数々。
それは録音されたテープのように、執拗に、慈愛に満ちた残酷さで繰り返されている。
窓から中を覗き込むと、ダイニングテーブルには温かい紅茶とスコーンが並んでいる。
けれど、そこに座っているのは私ではない。
私と同じネイビーのワンピースを着た、顔のない『陶器の人形』だった。
人形は、空っぽの対面に座るはずのアリスに向かって、優雅にカップを傾けている。
その光景を見た瞬間、私は吐き気に襲われた。
私が守りたかったのは、この『完璧な風景』だったのか。
アリスという生身の人間ではなく、この、絵画のように動かない『支配の構図』だったのか。
「やめて……。もうやめて!」
私は石を拾い、窓ガラスを叩き割った。
ガシャアアン! と鋭い音が響く。
だが、割れたガラスの向こう側にいた人形の母は、ゆっくりと首をこちらへ巡らせた。
顔のないはずのその輪郭に、一瞬だけ、私の醜い虚栄心が形となって浮かび上がる。
『あら、あなたは誰? ここは、幸せな親子だけの場所よ。ノイズは、あっちへ行きなさい』
家そのものが、私を拒絶するように震え始めた。
家中の時計がいっせいに、これまでとは違う、アリスを追い詰めるような鋭い金属音で鳴り響く。
私は逃げ出した。
ねじれた電柱の影から、ティックの黄金色の瞳がこちらを覗いて笑っている。
「どうだい、お母さん。君が作り上げた『正解』の街だよ。君が望んだ通り、時間はもう流れない。何も変わらない。あの子がいなくなったことで、君の理想は永遠に固定されたんだ」
「うるさい……。消えなさい!」
私は叫びながら、紫色に濁った空の下を走り続けた。
街中のショーウィンドウに、私の姿が映る。
髪は乱れ、服は汚れ、かつての端然とした『良き母』の面影はない。
だが、その鏡の中の私は、アリスがいつも抱えていたはずの『怯え』と同じ表情をしていた。
私は初めて知ったのだ。
管理するということは、管理されることと同じくらい、不自由なのだということを。
アリスを傘の下に閉じ込めていた時、私もまた、その狭い影の中から一歩も出られずにいたのだ。
雨が再び降り始めた。
けれど、それは水ではなかった。
空から降ってきたのは、無数の細かな『時計の針』だった。
チクチクと肌を刺し、私のワンピースを切り裂いていく。
私は、アリスが消えたあの壁の前まで戻ってきた。
そこには、もう壁さえなかった。
ただ、巨大な時計塔が、現実の街を飲み込むようにして聳え立っていた。
「……アリス。そこにいるのね」
私は、血の滲む手で自分の胸元を掴んだ。
そこには、アリスを支配していた時に感じていた重圧ではない、もっと別の、ヒリつくような『痛み』があった。
それが娘を思う本当の愛情なのか、それとも、自分の所有物を奪われたことへの執着なのか、まだ私にはわからなかった。
けれど、私はあの扉……真鍮の取っ手が浮かび上がった場所に、もう一度手を伸ばした。
今度は、娘を連れ戻すためではない。
私自身が、この『止まった地獄』から抜け出すために。




