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<断章>エピソードE:Echo of the rain Ⅰ

 夕食の買い物袋を提げて、私はいつもの角を曲がった。

 午後三時十五分。

 空は雨上がり特有の、現像に失敗した写真のような、ぼんやりとした灰色に包まれている。


(早く帰らなきゃ。アリスが学校から戻る時間だわ)


 私は歩を速めた。

 アリスは自分から鍵を開けて家に入るのが苦手な子だ。

 私が玄関で『おかえりなさい』と迎え、濡れた傘を受け取り、手洗いを促す。

 その一連の儀式があって初めて、我が家の『正しい午後』が始まる。


 ふと、前方にうつむき加減で歩く少女の背中が見えた。

 見覚えのある、中学の制服。

 そして、その手には私があの子のために選んだ、くすんだネイビーの折りたたみ傘。


「アリス!」


 私は声をかけ、手を振ろうとした。

 だが、その瞬間に起きたことを、私は一生、論理的に説明することはできないだろう。


 アリスが、立ち止まった。

 あの子は、何もないはずの灰色のコンクリート壁に向かって、まるでそこに『扉』でもあるかのように、迷いのない足取りで一歩踏み出した。


「アリス、そっちは壁よ!」


 私の叫びが届くより早く、アリスの身体が、水面に溶け込むように壁の中へと消えていった。

 あの子が大切そうに握りしめていたネイビーの傘の先端が、最後の一片として石壁に吸い込まれ、波紋が静まるように消滅した。


 私は、買い物袋を地面に落とした。

 卵が割れる音、何かが散らばる音。

 そんな日常の崩壊を告げる音さえ、今の私には遠い世界の出来事のように聞こえた。


「アリス……? アリス!」


 私は壁に駆け寄り、狂ったようにコンクリートを叩いた。

 そこには扉も、隙間もない。

 ただの冷たく、無機質な灰色の壁だ。

 爪が割れ、指先から血が滲んでも、壁は一切の反応を返さない。

 あの子は、私があげた傘を持ったまま、この現実から文字通り『消えて』しまったのだ。


 その時、周囲の音が完全に消失した。


 遠くを走る車の音も、雨樋を伝う水の音も。

 時間が、巨大な琥珀の中に閉じ込められたかのように凝固していく。

 私は震える手で壁を撫で回しながら、理解を拒む脳を必死に動かそうとした。


(神隠し? いえ、そんな馬鹿な。あの子は、自分で行こうとした。まるで、あそこに居場所があるのを知っていたみたいに……)


「おやおや。お母さん、そんなに必死になって。壁に穴でも開けるつもりかい?」


 背後から、凍りつくような、けれど場違いなほど軽やかな声がした。

 振り返ると、そこにはアリスと同じ年頃の『影』のようなシルエットが、空中に浮いていた。

 顔はない。

 ただ、黄金色に輝く瞳だけが、この灰色の街で唯一、異常なまでの鮮やかさを放っている。


「……誰? アリスはどこ? 私の娘をどこへやったの!」


「僕はティック。案内人さ。アリスなら、自分から扉を開けて行ったよ。君が選ばせなかった『透明な未来』を探しにね。あ、そうそう。君が持たせたあのネイビーの傘、あの子はちゃんと持っていったよ。自分を縛り付ける、重たい重たい『お守り』としてね」


 ティックと呼ばれた影は、嘲笑うように空中で一回転した。


「嘘よ……あの子は良い子よ。私の言うことを聞いて、いつも……」


「そうだね。いつも選ぶのをやめて、君に自分を差し出していた。でもね、お母さん。時間は残酷だ。止まった水は腐るように、選ばない意志もまた、いつか爆発する。……ほら、街が変わり始めたよ。君が愛した『退屈な正解』の終わりの始まりだ」


 ティックが指差した先。

 見慣れた街路樹が、真鍮の歯車を吐き出しながらねじれ始め、電柱が巨大な日時計の針のように歪んでいく。

 空の色は、磨り潰した葡萄の皮のような紫色へと、急速に濁り始めていた。


 私は、崩れ落ちるように膝を突いた。

 掌に残っているのは、アリスを抱きしめた時の温もりではなく、冷たいコンクリートの感触だけ。

 三時十五分。

 世界から娘が消え、私の人生という時計が、修復不可能なほどに狂い始めた瞬間だった。



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