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<断章>エピソード L:Lost and Found Ⅶ

 時計屋の『裏口』。

 それは言葉にするのもおぞましい、存在の解体作業だった。

 少年は自らを「物語の余白」へと定義し直し、アリスを聖域へと送り出した。

 本来ならば、そこで彼の物語は美しく完結し、意識は銀河のような文字の回廊へと溶け去るはずだった。


 しかし、彼はそれを拒絶した。

 アリスの震える肩をその目で見た瞬間に芽生えた、『一緒に帰りたい』という極めて人間的で独善的な執念。

 それが彼を、物理法則さえも無視した『裏口』へと突き動かしたのだ。


 その代償は、肉体を構成する全細胞が逆流するような激痛となって訪れた。

 現実世界へと無理やり受肉した瞬間、世界は彼を『異物』として認識した。

 肺に吸い込む空気はガラスの破片のように気道を刻み、網膜に映る紫色の空は脳を直接焼く毒のように感じられた。


「……ぐ、……ぁ……っ」


 少年は、自分がかつて『出席番号14番』として生きていた頃の、あの希薄な日常がいかに幸福であったかを思い知らされた。

 今の彼は、この街の完璧な秩序(ロジック)にとって、あってはならない『致命的な綴り間違い』だ。

 歩くたびに世界という巨大な歯車が彼を排斥しようと軋みを上げ、心臓の一拍ごとに『消えろ、消えろ』という数式が全身を駆け巡る。


 そんな極限の疲弊と孤独の中で出会ったのが、ネジだらけの男と、異様な静寂を湛えたテーブルだった。

 男の関節が鳴らす不快な摩擦音さえ、今の少年には『正解の音』のように聞こえてしまった。

 男は少年に囁いた。


「おやおや、ひどいノイズだ。君は存在自体がエラーだよ。でも安心しなさい。この銀の油に身を浸せば、君を苦しめるその『個』という痛みから解放してあげよう。世界と一つになり、滑らかな(ゼロ)に還るんだ」


 少年は、もう戦う力を持っていなかった。

 いや、心のどこかで求めてしまったのだ。

 アリスという光を救い、名前を救い、自分を削りきった後に残ったこの『ボロボロの自分』を、誰かに消してほしかった。

 自分を証明するために、鉛筆の芯を自分の掌に突き立てるような痛みは、もうたくさんだった。


 彼は、巨大なガラス製の漏斗(じょうご)の中に座り込んだ。

 腰まで埋まる冷たい感触。

 それは、かつて迷宮の底で感じた凄惨な絶望よりも、ずっと穏やかで、ずっと恐ろしい『救済』だった。

 少年は虚ろな目で、テーブルの上の銀色の液体を匙で掬った。


「……静かだ。……何も、考えなくていいんだ……」


 自分の声さえ、自分のものではないように聞こえた。

 少年は、重たい水銀のような忘却を、自分の耳へとゆっくりと、丁寧に注ぎ込んでいく。

 トロリとした液体が鼓膜を塞ぎ、脳内へ侵食していく。

 アリスの名前も、あの黄金色の熱も、自分が何者であったかという記憶も、すべてが銀色の海に溶けて薄まっていく。


(……そうだ。僕が『僕』でなければ、この世界はこんなに優しいんだ……)


 彼は、最後の一滴で自分が完全に消滅すること、この街の一部として『滑らかな背景』に還ることを、安らかな心地で待ち受けていた。


 ────その時だった。


「……やめて!」


 霧の向こうから、聞き覚えのある、けれどかつてなく必死な声が届いた。

 銀色の海が、激しく波打つ。

 少年が注ぎ込もうとしていた銀の滴が、アリスの叫びと、彼女が石畳に叩きつけた掌の熱によって、鮮やかな桃色へと変貌していく。


「あ……」


 少年の瞳に、色が戻った。

 忘却の膜が破れ、脳内に再び『世界への違和感』が激痛となって奔る。

 視界の先には、今にも泣き出しそうな顔で、けれど必死にこの地獄のような秩序を汚し、自分を繋ぎ止めようとしているアリスがいた。


 彼女の掌は真っ赤に焼け、全身が目に見えるほど震えている。

 彼女は、少年を救うために、自分が守りたかったはずの『正しさ』を壊したのだ。

 その罪悪感に押し潰されそうになりながら、それでも彼女は掌を引かなかった。


(……馬鹿だな、アリス。君まで、壊れてしまうのに)


 少年は、自分の耳から溢れ出した桃色の滴を指で拭った。

 忘却は解け、代わりに『痛み』が戻ってくる。

 自分が存在してはいけない『不純物』であるという、あの刺すような疎外感。

 けれど、目の前で自分の掌を隠し、震えている彼女を見たとき、少年の胸を焼いたのは、己への情けなさと、この世界への烈火のごとき怒りだった。


 なぜ、こんな小さな少女が、これほどまでに怯えなければならない。

 なぜ、自分の名前を叫ぶことが、これほどまでに痛切な代償を伴わなければならない。


 ガァァァァァン、ガァァァァァン。


 時計塔の警告が、アリスの小さな魂を削ろうと響き渡る。

 灰色の群衆が、彼女を『異物』として排除するために、一斉に首を回す。

 その冷酷な視線の矢面に立たされたアリスは、今にも消えてしまいそうに小さくうずくまった。


 少年は、死に体の肉体を無理やり奮い立たせ、漏斗から這い出した。

 足首を掴む銀色の執着を振り払い、アリスの隣に膝を突く。

 自分の足元には、薄い、けれど確かな、彼自身の『人間の影』が戻っていた。

 影は周囲の紫色の霧に怯えるように震えていたが、それは間違いなく、彼がかつて捨てようとした『自分自身』だった。


 少年は、錆びついたゼンマイが回るような、掠れた声を絞り出した。


「……アリス、逃ゲテ。早ク」


 それが、彼にできる精一杯の警告だった。

 彼女をこれ以上、自分の汚れに巻き込みたくなかった。

 けれどアリスは逃げなかった。

 彼女は、震える手で、自分の足元に溜まった『桃色の熱』を掬い上げ、それを石畳の割れ目へと注ぎ込んだ。


 そこから溢れ出したのは、彼女がずっと『なかったこと』にしてきた、無数の本音の泡だった。


『痛い』

『寂しい』

『私を見て』。


 その弱くて、けれど偽りのない言葉たちが、ネジだらけの男を、秩序という名の虚飾を、次々と剥ぎ取っていく。


 少年は、その光景を呆然と見守っていた。

 かつて彼は、鉛筆を武器にして世界を『記述』することで戦おうとした。

 けれどアリスは違う。

 彼女は自分の『涙』を、誰にも言えなかった『悲鳴』を、そのまま世界へ溢れさせることで、この強固な沈黙を溶かしていくのだ。


 少年は、自分を『無』へと誘っていた漏斗の破片を、そしてその隣で泣きながら戦う少女を見つめ、静かに問いかけた。


「君は、本当におかしな子だね」


 それは、彼がこれまで出会ってきたどの大人よりも、どの物語よりも、彼女が『生きて』いることへの最大級の感嘆だった。


「自分のことも守れないくらい震えているのに。どうして、自分のものでもない箱を、開けようとするの?」


「……わからない。でも、誰かが泣いているのに、時計の音でかき消しちゃうのは……やっぱり、悲しいから」


 その答えを耳にしたとき、少年の中で一つの巨大な歯車が、本来あるべき方向へと噛み合った。

 もう、銀色の安息に逃げることはない。

 アリスが、誰かの涙を忘れないために自分の名前を抱えて歩き出すのなら。

 たとえこの世界すべてが自分を拒絶しても、自分は、その足元を支える『消えない影』として、この地獄を最後まで完遂させてみせる。


 アリスが立ち上がり、濡れた頬を袖で拭った。

 彼女が少年の服の裾を、そっと、けれど離さないように掴んだ。

 指先から伝わってくる、氷のような冷たさと、心臓が波打つような確かな体温。


「行こう。……私の名前が、これ以上、誰かの涙を忘れないために」


 その言葉は、臆病な彼女が絞り出した、地獄への宣戦布告だった。

 少年は、彼女に掴まれた服の裾を、そっと握り直した。

 もはや彼は、全能の『声』ではない。

 けれど、彼女の震えを分かち合う『手』は持っている。


 少年はゆっくりと立ち上がった。

 二人の足元には、歪で、汚れていて、けれどあまりにも生々しい『二つの影』が伸びている。

 時計塔の鐘が鳴り響き、世界中が自分たちを否定しようとも。

 少年の歩幅は、アリスの震える一歩を支えるように、静かに、けれど力強く、紫色の霧の中へと踏み出していった。


 それは、少年という名の物語が、単なる『役割』を超えて、アリスの『戦友』として再誕した瞬間だった。



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