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<断章>エピソード L:Lost and Found Ⅵ

 少年の鉛筆が、黄金の主基盤を最後の一太刀で切り裂いた瞬間、世界から音が消えた。


 衝撃は、爆発ではなく『沈黙』として訪れた。

 迷宮を支配していた歯車の軋み、時計職人の冷酷な宣告、そして自分の足元を掬おうとしていた泥人形たちの怨嗟。

 それらすべてが、一滴のインクが水に溶けるように、真っ白な光の中へと霧散していく。


「……あ、あぁ……」


 少年は、自分の感覚が『個』を失っていくのを感じていた。

 指先の感覚が消え、腕が文字の羅列へと変わり、思考が韻律(リズム)へと溶けていく。

 それは死ではなかった。

 彼は今、この迷宮を構成するすべての『記録』と『定義』が流れ込む、物語の奔流そのものと同化していた。


 その膨大な情報の濁流の中で、彼は見つけた。


【A─L─I─C─E】


 主基盤の奥底、職人が隠し持っていた『奪われた名前』のリスト。

 その中から、今まさに砂時計を砕き、運命を切り拓こうとしている『彼女』の真実の響きが、少年の魂に直接流れ込んできた。


(……アリス。それが、君の本当の名前だったんだね)


 今まで『あいつ』や『彼女』としか呼べなかった存在が、確かな輪郭を持って彼の中に定着した瞬間だった。


 光の奔流の中で、少年は再び彼女を見た。

 アリスだ。

 彼女は今、自分の手で砂時計を砕き、時計職人の用意した『偽りの二択』を拒絶した。

 その瞬間、迷宮の壁が剥がれ落ち、少年の書き換えた『銀河のような文字の回廊』が姿を現した。


 少年は、光の衣を纏った姿で、彼女の前に降り立った。

 もはや、自分を『出席番号14番』や『何者でもない空白』と定義する卑屈さは、どこにもなかった。

 彼は、彼女を『詩を紡ぐ者』へと導くための一節――その役割を、自らの意志で引き受けていた。


「驚かせてごめんね、アリス」


 少年の口から出た言葉は、彼自身の声でありながら、同時に世界の理そのものの響きを帯びていた。

 彼は初めて、手に入れたばかりの彼女の名前を呼んだ。

 それは、彼がこの物語の裏側で、命を削って主基盤から救い出した、唯一の『真実の文字』だった。


「僕は、君がここへ辿り着くための、ひとときの声だったんだ」


 少年は優しく手を差し出した。

 彼女がその手を取る必要はなかった。

 二人の魂は、あの赤信号の交差点で、すでに一つに繋がっていたからだ。

 彼女の足元で暴れていた『影』が、彼女自身の身体へと静かに吸い込まれ、調和していく。

 それは、少年が裏側でシステムの『不純物(ノイズ)』を『個性(ものがたり)』へと定義し直した結果だった。


「あの人は……『詩を紡ぐ者』は、ずっと君を待っているよ」


 アリスを見守る少年の瞳には、深い安らぎがあった。

 かつては『透明な自分』を恐れていた少年。

 けれど今、彼は自分が『彼女を救うための言葉』になれたことを、誇りに思っていた。


 案内人であるティックが、主を失った職人の指から離れ、少年の肩へと飛び移る。

 少年とティックは、もはや対立する存在ではない。

 この物語を構成する『案内』と『記述』という、分かちがたい両輪となっていた。


「……行っておいで、アリス」


 少年の姿が、文字の回廊を流れる光の中に溶けていく。

 彼という存在は、アリスという詩を美しく、力強く響かせるための『余白』となり、彼女の背中を優しく押し出した。


「君がこれから会うのは、未来の君だ。……君が流したすべての涙を、(いのち)に変えて守り続けてきた、もう一人のアリスだよ」


 最後にそう告げたとき、少年の心の中に、一つの言葉が浮かんだ。

 それは、彼がずっと探し続けていた、自分自身の『名前』だった。


 彼は『佐藤』でも『14番』でもなかった。

 彼は、白紙のページに最初に引かれる一本の線。

 人々の絶望を希望へと書き換える、消えない墨汁。

 彼は、物語の『筆跡(トレース)』。


 このままもう消えてもいいと、思い始めていた。


 誰かの…アリスの背中を押すことができた自分に誇りを持ったからだ。


 


 ────だが。




「……っ、だめだ……!!」


 霧散しゆく意識の淵で、少年の魂が吠えた。

 アリスが『詩を紡ぐ者』の聖域へと消えていくその後ろ姿。

 その細い肩が、これから対峙する未来の重みに微かに震えたのを見た瞬間、猛烈な拒絶が彼を貫いた。


(僕は、あいつを救うために消えるんじゃない。あいつと一緒に、雨上がりの空を見るためにここにいるんだ!)


『役割』になどなってやるものか。

 美しく消えるなど真っ平だ。

 少年は、文字へと解けゆく自らの指先を、無理やり人間の肉へと引き戻した。

 主基盤の残骸を掴み、物語の奔流に逆らって、自分という『個』の定義を再び血肉で書き殴る。


「……アリス……僕も必ず行く……!」


 彼は、銀河のような回廊の果て、崩れゆく時計屋の『裏口』――現実へと続く、最も過酷で泥臭いルートへと、その身を叩き落とした。



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