<断章>エピソード L:Lost and Found Ⅴ
彼女が『時計屋』の重厚な扉を押し開け、黄金の光の中へと吸い込まれていく。
その背中を見届けた瞬間、少年の周囲から『現実』の輪郭が、熱に浮かされた陽炎のように剥がれ落ちた。
雨上がりのアスファルトは藍色の霧へと溶け、街灯の光は冷酷な真鍮の火花へと変貌する。
彼は再び、迷宮の最深部――『時計屋の裏側』へと引きずり戻されていた。
だが、今の彼の足取りに躊躇はない。
掌に残る彼女の体温が、凍りついた心臓を突き動かす唯一の熱源となっていた。
「……あいつは、行ったぞ」
少年は、虚空に向かって低く、突き放すような声で呟いた。
彼の足元には、先ほどまでの『ゴミ溜め』や『鏡の部屋』とは比較にならないほど巨大な、塔の基部を支える巨大な振り子が、大気を震わせる低音を響かせて揺れている。
それは迷宮の『心音』そのものだった。
「……計算外だ。実に、見苦しいノイズだよ」
闇の中から、音もなく『影の検閲官』が姿を現した。
それは時計職人の姿でも、案内人の姿でもない。
無数の黒いインクの滴が寄り集まった、少年に酷似した『顔のない影』だった。
迷宮が異物を排除するために生み出した、自浄システム。
「彼女は今、あちら側で時計職人と対峙している。案内人も、その滑稽な結末を特等席で見守っている。なのに、なぜ君だけがこの裏側に残っている?君というバグがここに留まることは、この塔の論理にとって、あってはならない汚れなんだ」
影の検閲官は、少年の周りを無機質に浮遊しながら、その四肢に影の鎖を絡めようとする。
『君の役割は、交差点で彼女に絶望への最後の一押しを与えることだった。
あるいは、君自身が彼女の身代わりに轢かれ、彼女に一生消えない傷を刻む『劇薬』になるはずだった。
それが職人と案内人が描いた、最も美しい物語の線画だったんだ』
少年は無言のまま、折れた鉛筆の芯を、自分の掌に刻まれた『火傷の跡』に深く押し当てた。
彼女と手を繋いだ時に刻まれた、あの剥き出しの熱が、鉛筆に新たな、そして絶対的な『定義』を流し込んでいく。
「……物語だの、線画だの、勝手なことばかり言うな」
少年は、顔のない影を真っ向から見据えた。
「僕は、あいつに役を与えられるためにあそこにいたんじゃない。あいつが、赤信号でも『進む』って選んだから。……だから僕も、自分の意志で、ここを『壊す』って決めたんだ」
少年は鉛筆を一閃させた。
黒いインクが空中に巨大な『否定』の文字を刻み、影の鎖を切り裂く。
「僕は、この迷宮の心臓を止める。彼女が店の中で戦っている間に、僕はその裏側で、この塔の『正しさ』そのものを、僕のデタラメな線で塗り潰してやる」
影の検閲官の輪郭が、怒りに似た震えで歪んだ。
「正気か?この塔の根源を書き換えるということは、君という存在を支える全ての因果を失うということだ。君自身の過去も、ここに至るまでの記憶も、二度と思い出せない深淵に沈むんだぞ。君は、本当の意味で『誰でもない存在』になるんだ」
「……上等だよ。そんな偽物の過去なんて、最初からいらなかった」
少年の脳裏に、現実世界での希薄な日常がフラッシュバックする。
誰の記憶にも残らず、自分の声さえ届かなかった、白紙のまま色褪せていく人生。
「あいつは言った。『私の時間は、もう動いている』って。……なら、僕だってこの場所に留まっていちゃいけない。誰かに用意された綺麗な結末じゃなく、僕自身が吐き気がするほど納得できる、最高に無様な『僕の終わり』を書いてやるんだ!」
少年は巨大な振り子の基部へと駆け出した。
そこには、この迷宮のすべての法則を記述した『大時計の主基盤』が、精緻な数式を明滅させながら鎮座していた。
塔の時間はここから生成され、人々の絶望を糧に円環を閉じている。
検閲官が叫びと共に、影の刃を無数に射出する。
「止めろ!その基盤を汚せば、現実世界との整合性が崩壊する!彼女の救済さえも、不確かなものになるぞ!」
「救済なんて、あいつは最初から頼んでない!あいつが欲しいのは、血を流してでも歩き続けられる『明日』なんだ!」
少年は振り子の凄まじい風圧に抗い、基盤へと飛び込んだ。
折れた鉛筆の先から、少年の命の灯火そのものが、真っ黒なインクの奔流となって溢れ出す。
彼は、基盤に刻まれた『完璧な円環』という黄金の数式の上に、力任せに鉛筆を叩きつけた。
定規も、コンパスも、職人の美学もいらない。
震える手で、歪んだ、けれど絶対に折れない、ただ一本の『自由な直線』を。
ガガガガガッ!!
ギギギギィィィンッ!!
塔全体が、地響きのような断末魔を上げて激震する。
彼女が店内で職人と、そして案内人の冷笑と向き合っているその裏側で。
迷宮の『論理』が、一人の、名前さえ思い出せなくなった少年の手によって、修復不能なまでに書き換えられていく。
「……見てるか。……僕も、走ってるぞ…」
少年の視界が、真っ黒なインクと、弾け飛ぶ真鍮の火花に包まれていく。
自分の意識が、思考が、皮膚の感覚さえもが、加速し、自壊する歯車の旋律の中に溶けて消えていく。
けれど、その消滅の感覚は、以前のような『空虚』ではなかった。
一本の線を、自分だけの力で引き切ったという、痛烈なまでの、そして涙が出るほどの充足感。
闇の向こう側で、塔が崩れる轟音と、彼女の凛とした声が、重なり合って聞こえた気がした。
少年は、鉛筆を握りしめたまま、光の差さない深淵へと、ゆっくりと堕ちていった。




