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『断章:1024』  作者: アリス・リゼル


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<断章>エピソード L:Lost and Found Ⅴ

 彼女が『時計屋』の重厚な扉を押し開け、黄金の光の中へと吸い込まれていく。

 その背中を見届けた瞬間、少年の周囲から『現実』の輪郭が、熱に浮かされた陽炎のように剥がれ落ちた。


 雨上がりのアスファルトは藍色の霧へと溶け、街灯の光は冷酷な真鍮の火花へと変貌する。

 彼は再び、迷宮の最深部――『時計屋の裏側』へと引きずり戻されていた。

 だが、今の彼の足取りに躊躇はない。

 掌に残る彼女の体温が、凍りついた心臓を突き動かす唯一の熱源となっていた。


「……あいつは、行ったぞ」


 少年は、虚空に向かって低く、突き放すような声で呟いた。

 彼の足元には、先ほどまでの『ゴミ溜め』や『鏡の部屋』とは比較にならないほど巨大な、塔の基部を支える巨大な振り子が、大気を震わせる低音を響かせて揺れている。

 それは迷宮の『心音』そのものだった。


「……計算外だ。実に、見苦しいノイズだよ」


 闇の中から、音もなく『影の検閲官』が姿を現した。

 それは時計職人の姿でも、案内人の姿でもない。

 無数の黒いインクの滴が寄り集まった、少年に酷似した『顔のない影』だった。

 迷宮が異物を排除するために生み出した、自浄システム。


「彼女は今、あちら側で時計職人と対峙している。案内人も、その滑稽な結末を特等席で見守っている。なのに、なぜ君だけがこの裏側に残っている?君というバグがここに留まることは、この塔の論理(ロジック)にとって、あってはならない汚れなんだ」


 影の検閲官は、少年の周りを無機質に浮遊しながら、その四肢に影の鎖を絡めようとする。

『君の役割は、交差点で彼女に絶望への最後の一押しを与えることだった。

 あるいは、君自身が彼女の身代わりに轢かれ、彼女に一生消えない傷を刻む『劇薬』になるはずだった。

 それが職人と案内人が描いた、最も美しい物語の線画(ネーム)だったんだ』


 少年は無言のまま、折れた鉛筆の芯を、自分の掌に刻まれた『火傷の跡』に深く押し当てた。

 彼女と手を繋いだ時に刻まれた、あの剥き出しの熱が、鉛筆に新たな、そして絶対的な『定義』を流し込んでいく。


「……物語だの、線画だの、勝手なことばかり言うな」


 少年は、顔のない影を真っ向から見据えた。


「僕は、あいつに役を与えられるためにあそこにいたんじゃない。あいつが、赤信号でも『進む』って選んだから。……だから僕も、自分の意志で、ここを『壊す』って決めたんだ」


 少年は鉛筆を一閃させた。

 黒いインクが空中に巨大な『否定』の文字を刻み、影の鎖を切り裂く。


「僕は、この迷宮の心臓を止める。彼女が店の中で戦っている間に、僕はその裏側で、この塔の『正しさ』そのものを、僕のデタラメな線で塗り潰してやる」


 影の検閲官の輪郭が、怒りに似た震えで歪んだ。


「正気か?この塔の根源を書き換えるということは、君という存在を支える全ての因果を失うということだ。君自身の過去も、ここに至るまでの記憶も、二度と思い出せない深淵に沈むんだぞ。君は、本当の意味で『誰でもない存在』になるんだ」


「……上等だよ。そんな偽物の過去なんて、最初からいらなかった」


 少年の脳裏に、現実世界での希薄な日常がフラッシュバックする。

 誰の記憶にも残らず、自分の声さえ届かなかった、白紙のまま色褪せていく人生。


「あいつは言った。『私の時間は、もう動いている』って。……なら、僕だってこの場所に留まっていちゃいけない。誰かに用意された綺麗な結末じゃなく、僕自身が吐き気がするほど納得できる、最高に無様な『僕の終わり』を書いてやるんだ!」


 少年は巨大な振り子の基部へと駆け出した。

 そこには、この迷宮のすべての法則を記述した『大時計の主基盤』が、精緻な数式を明滅させながら鎮座していた。

 塔の時間はここから生成され、人々の絶望を糧に円環を閉じている。


 検閲官が叫びと共に、影の刃を無数に射出する。


「止めろ!その基盤を汚せば、現実世界との整合性が崩壊する!彼女の救済さえも、不確かなものになるぞ!」


「救済なんて、あいつは最初から頼んでない!あいつが欲しいのは、血を流してでも歩き続けられる『明日』なんだ!」


 少年は振り子の凄まじい風圧に抗い、基盤へと飛び込んだ。

 折れた鉛筆の先から、少年の命の灯火そのものが、真っ黒なインクの奔流となって溢れ出す。

 彼は、基盤に刻まれた『完璧な円環』という黄金の数式の上に、力任せに鉛筆を叩きつけた。


 定規も、コンパスも、職人の美学もいらない。

 震える手で、歪んだ、けれど絶対に折れない、ただ一本の『自由な直線』を。


 ガガガガガッ!!

 ギギギギィィィンッ!!


 塔全体が、地響きのような断末魔を上げて激震する。

 彼女が店内で職人と、そして案内人の冷笑と向き合っているその裏側で。

 迷宮の『論理』が、一人の、名前さえ思い出せなくなった少年の手によって、修復不能なまでに書き換えられていく。


「……見てるか。……僕も、走ってるぞ…」


 少年の視界が、真っ黒なインクと、弾け飛ぶ真鍮の火花に包まれていく。

 自分の意識が、思考が、皮膚の感覚さえもが、加速し、自壊する歯車の旋律の中に溶けて消えていく。

 けれど、その消滅の感覚は、以前のような『空虚』ではなかった。

 一本の線を、自分だけの力で引き切ったという、痛烈なまでの、そして涙が出るほどの充足感。


 闇の向こう側で、塔が崩れる轟音と、彼女の凛とした声が、重なり合って聞こえた気がした。

 少年は、鉛筆を握りしめたまま、光の差さない深淵へと、ゆっくりと堕ちていった。



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