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<断章>エピソード L:Lost and Found Ⅳ

 扉を突き破った先で少年を待っていたのは、無機質な時計塔の心臓部などではなく、あまりにも鮮明で、そして残酷なまでに研ぎ澄まされた**『雨上がりの現実』**の断片だった。


 視界が裏返るような感覚と共に、少年の鼻腔を突いたのは、これまでの階層を支配していた重苦しい機械油の匂いではない。

 それは、激しい雨がアスファルトの汚れを洗い流した直後の、独特の土の匂いと、大気を冷やしたばかりの鋭い水の匂いだ。


「……く……、かは……っ」


 少年の五感は、迷宮での死闘を経て、今や病的と言えるほど過敏になっていた。

 水たまりに反射する街灯の残光は、細い針のように網膜を執拗に刺し、視界の端で光の波となって押し寄せる。

 遠くを走る車のタイヤが水を蹴る音は、腹の底を揺さぶる重低音の地響きとなって響き渡る。

 軒先から落ちる一滴の滴音さえ、静寂を切り裂く鐘の音のように耳の奥で爆ぜた。


 世界が、鳴っている。

 何者でもない『空白』として生きていた頃には決して聞こえなかった、この世界のあまりにも生々しい、そして痛切な『拍動』が、少年の全身を貫いていた。


 少年は、自分がかつて『名前』を失った、あの駅前の交差点に立っていることに気づいた。

 だが、そこは以前の無機質な街ではない。

 迷宮の階層を超えて彼を突き動かしてきた『あの黄金色の光』が、すぐ目の前で、一つの輪郭を結ぼうとしていたからだ。


(……あいつだ)


 横断歩道の向こう側に、一人の少女が立っていた。

 ネイビーの折りたたみ傘を握りしめ、まるで深い霧の中を一人で歩いているかのような、危うい、けれど一歩一歩が重い足取りの少女。

 その傘の隙間から漏れ出す光は、偽りの平穏を約束する時計職人の光ではない。

 自らの魂を削り、止まっていた時間を無理やり動かそうとする者の、激しく、切実な『生の光』だ。


 少年は、その光に射すくめられた。

 自分の右手に握られた『折れた鉛筆』が、かつてないほど激しく熱を帯びる。

 彼女もまた、この狂った迷宮の住人であり、そして今、自らの意志で『この世界のルール』を壊そうとしている。

 その共鳴が、少年の心臓を激しく打ち鳴らした。


 彼女が赤信号の交差点へと足を一歩、踏み出そうとしたその瞬間――。

 少年の脳裏に、時計職人の嘲笑が響いた。


『見てごらん、あれが彼女の選ぶ破滅だ。ルールを破り、赤信号を渡れば、彼女は美しい標本となって私のコレクションに加わる。君も、あそこへ行って彼女を道連れにするのがお似合いだよ』


「……黙れ」


 少年は、泥だらけの靴でアスファルトを蹴った。

 彼は駆け寄っていた。

 誰かに決められた『止まれ』という色に従って、彼女がまた『誰かの物語』の犠牲になること。

 それを許せば、自分もまた、あのゴミ溜めの底に沈んでいた泥人形の一人に戻ってしまう。

 そんな確信があった。


「信号が赤だよ、待って! 危ないじゃないか!」


 それは、かつて『正しい子』を演じていた少年が、無意識に、そして必死に絞り出した警告だった。

 駆け寄り、彼女の細い腕を掴んだその瞬間。

 少年の指先を通じて、凄まじい情報の奔流が、一気に脳内へ流れ込んできた。


 彼女の掌に握られた、あの砂時計の重み。

 彼女を縛り付け、その自由を奪ってきた『母親』という名の巨大な影。

 そして何より、彼女が今、そのすべての束縛を振り切って『自立』しようとしている、狂おしいほどの覚悟の熱。


 アリスは、少年をじっと見つめ返した。

 その瞳の中に、少年は自分自身を見つけた。

 かつての自分と同じように『正しさ』という檻の中で窒息しかけ、けれどそこから逃げ出す代わりに、檻を壊すことを選んだ戦士の瞳。


「私の時間は、もう動いているの」


 彼女が砂時計を見せたとき、少年の心の中で、何かが音を立てて砕け散った。

 それは、彼が最後まで捨てきれずにいた『臆病さ』という名の厚い殻だった。

 星屑のような砂が流れるその様は、彼が鉛筆で必死に書き込もうとしていた、不確かな、けれどあまりにも美しい『未来』そのものだった。


「……君は、進んでいるんだね」


 少年は、ふっと憑き物が落ちたように微笑んでいた。

 世界の色がこれほどまでに濃く、音が痛いほどに感じられるのは、彼女の時間が、そして自分の時間が、ついにこの『現実』と同期し始めたからだ。

 その痛みこそが、誰のものでもない『自分自身の時間』を生きている証拠なのだ。


 信号は、依然として赤のままだ。

 だが、少年の足元を縛り付けていた迷宮のワイヤーは、もはやその役目を果たしていなかった。

『ルールに縛られた自分』は、彼女の瞳に映ることで、完全に消滅したのだ。


「一緒に渡ってくれる?」


 彼女に手を握り返されたとき、少年の掌に宿っていたあの『黒い鉛筆の熱』が、彼女の『黄金の砂時計の光』と一つに溶け合った。

 孤独だった二人の物語が、赤信号の交差点という空白の領域で、初めて一つの鮮明な線として繋がった瞬間だった。


 二人は歩き出した。

 禁じられた赤の中を、濡れた石畳を蹴りながら、二人だけの鼓動を刻んでいく。

 一歩進むたびに、時計職人が作り上げた『完璧な秩序』という名の虚像が、足元からパリン、パリンと氷のように砕け、散っていく。


(……ああ、そうか。僕が欲しかったのは、これだったんだ)


 誰かに決められた青信号を大人しく待つことじゃない。

 たとえ赤信号であっても、誰かの手を取り、自分の意志で、この痛切で愛おしい現実を歩き抜くこと。

 それが『生きる』ということなのだ。


 中央を通り過ぎた瞬間、背後でカチリと巨大な歯車が回る音がした。

 信号が、青に変わる。

 世界が、彼女の――そして彼らの『選択』を認め、その傲慢な色を変えたのだ。


「君が選んだから、色が変わったんだよ」


 少年は、名残惜しさを隠すように、そっと手を離した。

 彼女の時間は、もう彼女のものだ。

 そして、彼女の手を握ったことで、少年もまた、自分の物語へ戻るための、最後の一行を書き留めることができた。


「じゃあ、僕はここで。君の時間は、もう君だけのものだから」


 少年は、雨上がりの闇の中に溶け込むように去っていった。

 アリスの視線から外れた瞬間、彼の周囲の風景が、再びぐにゃりと歪み始める。

 現実の街角の色彩は急激に色褪せ、再び藍色の霧に包まれた『時計屋の店先』へと変貌していく。


 少年は、店の中へと進むアリスの背中を、影の中から見守っていた。

 彼の掌には、彼女の温もりが、消えない火傷のような確かな重みとなって残っている。


「……さて。あいつが、前を向いたんだ」


 少年は、右手に残った『折れた鉛筆』を、骨が鳴るほど強く握りしめた。

 アリスが店内で職人と対峙するために扉を開けたその時、少年もまた、自分の物語の『真の黒幕』を引きずり出すために、迷宮の最深部――時計職人の『影』そのものが蠢く領域へと、一人で駆け下りていった。


 彼女が光の中で戦うなら、自分は闇の裏側から、この狂った時計の仕掛けそのものを、その根源から書き換えてやる。

 少年の瞳には、もはや迷いはなかった。



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