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<断章>エピソード L:Lost and Found Ⅲ

 光が漏れ出す天井の裂け目へと向かって、少年は自らを放り投げた。

 背後では、少年の『拒絶』を書き込まれた巨大な歯車が、断末魔のような金属音を立てて自壊を始めている。

 秩序という名の皮を無理やり剥がされ、真鍮の臓物を撒き散らす塔の階層。

 しかし、その滅びの美学を振り返る余裕は、今の彼には微塵もなかった。


「……あっ……く……っ! 離せ、離せよっ!」


 少年の体を、無数の『時間の鎖』が縛り付けていた。

 天井へ飛び込む刹那、崩落する壁から射出された無数の真鍮製ワイヤーが、彼の両足と左腕、そして首元までもを絡め取ったのだ。

 それは時計職人の最後の悪あがきであり、この『廃棄階層』から逃れようとする不純物への、物理的な執着そのものだった。


「どこへ行くというのだ。君のような未完成な魂、形を成さない不純物が、上の階層に何をもたらすという? 君が行けば、あそこの『完成』さえもが汚れる。不純物は不純物らしく、この澱みの中で静かに消えるがいい。それが世界の美しさを保つための、唯一の正解だ」


 職人の声が、瓦礫の崩落音を共鳴箱(ハウリング)させて部屋全体に響く。

 足首に食い込むワイヤーは冷たく、そして信じがたいほどに重い。

 それは彼が現実世界で日々感じていた、目に見えない『世間の目』や、実体のない『将来への不安』そのものの感触だった。

 動こうとすればするほど、ワイヤーの細い刃が制服の繊維を噛み、皮膚を切り裂いていく。

 赤い血が真鍮の線を伝い、下に広がるゴミ溜めへと滴り落ちる。


 少年は宙吊りのまま、視線を上へと向けた。

 頭上の割れ目には、先ほど見た黄金色の光が、今も激しく、命の叫びのように脈動している。

 アリスの光だ。

 その光に触れたいと願う心が、彼の冷え切った心臓を激しく、痛烈に焦がす。

 これまで『なんとなく』で生きてきた彼にとって、これほどまでに明確な渇望は初めてだった。


「……汚れたって、構わない。……綺麗でいるために死ぬくらいなら、汚れてでもあそこへ行くんだ!」


 少年は、自由な右手に握られた鉛筆を、自分の左腕を締め上げるワイヤーの束へと突き立てた。


 ギィィィィィィィン!!


 火花が散り、熱が指を焼く。

 本来なら、木と黒鉛でできた鉛筆が鋼鉄のワイヤーを断ち切ることなど不可能だ。

 物理の法則がそれを禁じている。

 だが、今の彼の鉛筆は、既存の法則を否定し、新たな現実を書き込む『定義の筆』へと変貌していた。


「僕が不純物だって言うなら、この塔の全部を僕の色で塗り潰してやる! ……何も起きない、何も変わらない安らぎなんて、もう、いらないんだ!」


 少年は鉛筆を横に一閃させた。

 黒いインクの刃がワイヤーの『硬度』という定義を否定し、それを霧散させる。

 不意に自由になった体が、重力に従って一度大きく落下し、空中で崩れゆく瓦礫を蹴りつけた。

 彼は跳躍した。

 光の割れ目へと、その身を滑り込ませる。


 たどり着いたその階層は、これまでの『ゴミ溜め』とは一変した、異様な静寂と美しさに満ちた空間だった。

 床は一面の鏡張りで、汚れ一つない。

 天井には何千、何万という『懐中時計』が、鎖に繋がれてぶら下がっている。

 それぞれの時計は微妙に異なる速度で秒針を刻み、それらが何重にも重なり合う音は、巨大な心臓の鼓動、あるいは無数の囁き声のように部屋全体を震わせていた。


「ここは……なんだ……」


 少年は、鏡の床に映る自分の姿を凝視した。

 泥にまみれ、制服はボロボロに裂け、掌からは絶えず血が滴り、鏡の床に赤い斑点を作っている。

 けれど、鏡の中にいる自分は、かつての透明で希薄な『出席番号14番』ではなかった。

 傷つき、汚れ、けれどしっかりと自分の足で立ち、右手に『自分を証明する武器』を握りしめた、一人の人間の姿がそこにはあった。


 鏡の向こう側から、無数の『彼』がこちらを見つめている。

 かつて捨ててきた泥人形たちではない。

 これから自分が選び取るかもしれない、無数の『未来の自分』の残像。

 画家、放浪者、あるいは名もない労働者。

 あらゆる可能性が、鏡の中で蠢いている。


「……お前か。私の『鏡の部屋』を土足で汚す闖入者は。実に不愉快な姿だ」


 部屋の奥から、今度はより『人間』に近い形の影が歩み寄ってきた。

 それは、少年の父親の姿をしていた。

 いや、父親そのものではない。

 少年が最も恐れていた『正しい大人』、すなわち『期待に沿わない子供を軽蔑する視線』の化身だ。

 その影は、寸分の狂いもなくプレスされたスーツを纏い、冷徹な目で、少年にあの日書き込めなかった『進路希望調査の紙』を差し出してきた。


「戻りなさい。お前の席はまだ、あちら側の教室に用意されている。無意味な抵抗をやめ、平均という名の安息に戻るんだ。お前に何ができる? お前は何者でもない。ただの、名前さえ持たない空白だ。空白は空白らしく、文字に埋め尽くされて生きていればいい」


 少年の父を模した影が、静かに、けれど心臓を握り潰すような圧力を持って歩み寄る。

 天井の懐中時計が一斉に『カチ、カチ、カチ』と、神経を逆撫でするような超高速の旋律を刻み始めた。

 それは少年の思考を停止させ、再び『思考停止の優等生』へと作り替えようとする精神の裁断機だった。


 少年は、その影の足元を睨みつけた。

 鏡の床を歩いているはずなのに、その影の足元には『影』がない。

 それは実体のない、少年自身が抱え続けてきた『臆病さ』の投影に過ぎない。


「……あんたは、僕の父さんじゃない。僕の父さんは、もっと不器用で、もっと仕事が忙しくて、僕に何を言えばいいか分からなくて困っている……ただの人だ。こんなに完璧で冷たい怪物じゃない」


 少年は鉛筆を逆手に持ち、鏡の床に一気に溝を刻んだ。


 キィィィィィィィィン!!


 鏡に深い黒い亀裂が走り、その裂け目から少年の『本音』が黒いインクとなって噴き出す。


「あんたは、僕の中にいる『否定されたくない僕』が作った幻だ! お前の言いなりになる時間は、もう終わったんだ!」


 少年は影に向かって真っ直ぐに突き進んだ。

 父親の姿をした影が、腕を巨大なハサミへと変形させる。

 それはかつての少年が、自分の『好き』という芽を自ら切り落とすために使っていた、自罰の凶器だ。


「消えろ、時計屋! 僕のページから、その汚い指を退けろ!」


 少年の鉛筆と、職人のハサミが正面から激突した。

 黒いインクの飛沫と、真鍮の歯車の破片が鏡の部屋に飛び散る。

 衝撃で床の鏡に無数のヒビが入り、閉じ込められていた『偽りの時間』が濁流となって溢れ出した。

 時計の音が狂い、時間の概念が崩壊していく。


 その混沌の渦の中で、少年は再び、あの黄金色の光を捉えた。

 すぐ近くだ。

 壁一枚隔てた向こう側――。

 アリスが自分の運命を賭けて、砂時計を砕こうとしている。

 その衝撃が、塔の根幹を揺るがし、鏡の部屋を崩壊させていく。


「……今だ。今、行かなきゃ!」


 少年は職人の影をすり抜け、光が漏れ出す『心臓の部屋』への巨大な扉へと、渾身の力で鉛筆を突き立てた。

 扉という物理的な障害を『存在しない』と上書きし、その向こう側へ。


 彼はまだ、自分の本当の名前を思い出せていない。

 けれど、あの光の中にいる少女の隣に立てるのなら、名無しのままでも構わない。

 そう確信しながら、少年は光り輝く『心臓の部屋』へと、魂ごと身を投じた。



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