<断章>エピソード L:Lost and Found Ⅱ
裁断機が空を切り裂く轟音が、少年の鼓膜を容赦なく叩き続けている。
ゴミ溜めの底から這い上がろうとする彼の眼前で、一本の、そしてあまりにも力強い『黒い拒絶の線』が虚空に焼き付いていた。
それは彼が祖父の形見である鉛筆で引いた、この『不条理な秩序』への初めての反逆の跡だった。
「……はぁ、はぁ、……っ!」
少年の手の中で、鉛筆が生き物のように不気味な熱を帯びている。
中学の入学以来、一度も削られることなく、引き出しの奥で死んでいたその黒鉛の芯は、今や少年の沸騰する怒りと呼応して、周囲の藍色の霧を吸い込むような鋭利な輝きを放っていた。
掌には、鉛筆の木肌が食い込み、微かに血が滲んでいる。
だが、その痛みが、空っぽだった彼の輪郭をこの世界に繋ぎ止めていた。
「ほう……。虚空を紙に見立てて書くか。だが、その一線に何の意味がある? その線は何も生まず、誰も救わず、秩序を乱すだけのノイズに過ぎない。君の書く言葉は、誰にも届かない叫びだ」
時計職人の声が、巨大な歯車の重厚な軋みと共に降り注ぐ。
上空に浮かぶ機械の塊は、無数のレンズを明滅させ、少年の『線』をバグとして処理しようと試みているようだった。
裁断機の刃が再び持ち上がり、次なる一撃を繰り出すために、大気を吸い込むような不気味な吸気音を立ててエネルギーを充填し始める。
真鍮の触手のようなシャフトが蠢き、少年の周囲の空間を『物理的に切り取る』ように包囲していく。
少年は、自分の足元を這いずる黒い影を見た。
先ほど切り裂いた『自分たちの死体』――彼が捨ててきた可能性の残骸たちが、再び泥のように溶け合い、どろどろとした不定形の塊へと変貌を遂げていた。
それはもはや少年の姿さえ維持しておらず、ただの粘り気のある絶望の海となって、彼の膝を浸し、その重みで動きを封じようとする。
「……意味なんて、なくていいんだ」
少年は、鉛筆を握る手にさらに力を込めた。
指の関節が白く浮き上がり、鉛筆が折れそうなほどにしなる。
「今までずっと、意味があることだけを正解だと思って選んできた。目立たないことに安全という意味がある、平均的であることに安定という価値がある……。でも、そんな『正しい』答えを積み重ねた結果が、これじゃないか。僕は自分を削り落として、ただの空っぽな『数』になった。そんな僕を、お前は部品だと言った!」
彼の脳裏に、現実世界での記憶が汚泥のように溢れ出す。
進路希望調査の紙を前に、放課後の教室でただ一人、夕闇が落ちるまで立ち尽くしたあの日。
『何になりたいか』という問いに対して、自分の心には一行の文字も浮かばなかった。
「どこなら入れるか」
「どこなら親が安心するか」
「どこなら馬鹿にされないか」――。
自分の人生を、他人の基準という名の精緻な定規で測り、そこからはみ出した自分自身を、自らの手で『不採用』として切り落としてきた。
その切り落とされた断片が、今、足元で自分を飲み込もうとしている泥の正体なのだ。
「僕はもう、お前の定規には従わない。……歪んでいてもいい。汚くてもいい。僕が、僕自身を削って、僕の手で線を引くんだ!」
少年は泥の海を蹴立て、壁際へと走り出した。
背後から、裁断機の巨大な刃が、空間そのものを切り刻むような音を立てて襲いかかる。
ガガガガガッ!
彼がさっきまで立っていた場所が、瞬時に一万の紙片となって粉砕され、銀色の破片となって飛び散る。
少年は、ゴミ溜めに突き刺さった巨大な『不採用の原稿用紙』の残骸を足場に、垂直に近い壁を駆け上がった。
壁面は油で滑り、指先が割れて血が滲む。
けれど、その生々しい激痛が『自分が今、ここで自分の意志で動いている』という強烈な生の実感を彼に与えていた。
痛覚こそが、今の彼にとって唯一信じられる真実だった。
「逃げ回ってどうする。この塔の階層は無限であり、時間は私の指先にある。君がどれほど足掻こうと、最後には時間の歯車に噛み潰され、滑らかな秩序の一部へと還元される運命なのだ」
「……黙れ、機械のくせに!」
少年は壁を蹴り、宙を舞った。
頭上を旋回する巨大な歯車の隙間に、剥き出しの鉛筆を突き立てる。
ギィィィィィィィン!!
硬質な金属同士が擦れ合う悲鳴のような音が響き、激しい火花が少年の顔を焼く。
彼はそのまま鉛筆を『鍵』のように使い、歯車の滑らかな表面に、深く、力強く、消えない傷跡を刻み込んだ。
それは文字ですらなかったかもしれない。
ただの、魂の奥底から絞り出した叫びのような、荒々しいストローク。
その瞬間、異変が起きた。
少年の鉛筆が触れた場所から、真っ黒なインクのようなエネルギーが歯車の内部へと浸透し始めた。
それは物理的なインクではなく、少年の『否定』という意志そのものがコードとなり、塔の完璧な秩序を内部から食い荒らす『ウイルス』へと変貌したのだ。
「何だと……!? 塔の律動を汚すというのか! 私の計算にない不純物が……!」
時計職人の無機質な声に、初めて明確な狼狽の色が混じる。
少年の引いた『デタラメな線』が、完璧な同期を誇っていた迷宮の回路に、致命的なバグを書き込んでいた。
歯車の回転が不規則に跳ね、不快な振動が塔全体に伝播する。
ガクン、と塔全体が大きく揺れた。
階層を隔てていた天井が、少年の刻んだ亀裂から蜘蛛の巣状に砕け、崩落を始める。
その割れ目の、はるか向こう側――。
少年は、遠く上の階層に、自分とは違う『黄金色の光』が、命の鼓動のように瞬くのを見た。
それは、砂時計の砂が舞うような、優しくも激しい、意志の光。
自分以外の誰かが、この狂った時間の牢獄の中で、同じように孤独な、けれど気高い戦いを繰り広げている。
(……誰だ? 誰かが、あそこで戦っているのか……?)
その光を見た瞬間、少年の胸の奥にある、寒々とした『空洞』に、温かい風が吹き抜けた。
自分が一人ではないという予感。
名前も知らない、顔も知らない誰かが、この絶望的な場所で今まさに、自分の手で運命を切り拓こうとしている。
その光景が、彼の冷え切った心を強烈に揺さぶった。
「……あいつに、会いに行かなきゃ」
少年は自分でも驚くほど自然に、そう確信した。
彼にとっての『脱出』は、もはや単なる自己救済のための逃走ではなかった。
あの光の主――アリスの元へと辿り着くこと。
彼女が一人で戦っているのなら、その隣へ自分の線を繋げること。
それが、彼がこの物語の空白に書き込むべき『次の一行』となったのだ。
だが、時計職人がそれを許すはずもなかった。
裁断機は狂ったように回転を速め、部屋中のワイヤーが生き物のように少年の四肢を絡め取ろうと襲いかかる。
壁からは無数の小さな針が飛び出し、彼の進路を塞ぐ。
「行かせはしない。君は、ここで私の最高傑作の『一部』になるのだ。……その稚拙な抵抗も、最後には私の時間の糧となり、美しい静寂へと昇華される運命にあるのだから!」
少年の足元の泥から、巨大な『黒い腕』が何本も伸び上がり、彼を再びゴミ溜めへと引きずり戻そうとする。
それは、彼がこれまで見て見ぬふりをしてきた『かつての自分たち』の怨嗟が合体し、肥大化した、後悔の権化だった。
少年は、自身の震える手をもう片方の手で抑え、鉛筆を両手で握りしめた。
頭上の光に向かって、声が枯れるほどの叫びを放つ。
「どけよ! 僕には、まだ書かなきゃいけないことが……行かなきゃいけない場所があるんだ! 僕の時間は、もう誰にも渡さない!」
少年の鉛筆から、黒い奔流が溢れ出す。
それは、アリスが砂時計で『時間』そのものを操るのに対し、彼が『言葉(意志)』で物理的な現実を上書きしようとする、もう一つの奇跡の萌芽だった。
黒いインクが空中に巨大な楔を形作り、迫りくる裁断機の刃を真っ向から受け止める。
「……僕の名前は、まだ決まってない。だけど、ここでお前に決められる筋合いなんてないんだ!」
少年は自らの『未完成』を武器に変え、光の差す天井へと、その身を投げ出した。




