<断章>エピソードI:Inverse observation
アリスと少年が、最後に踏み出した『光の出口』がゆっくりと閉じていくのを、僕はただ一人で見送っていた。
時計塔が内部から焼き切れ、支配者である『職人』が自らの作り出した停滞の檻に飲み込まれて消滅した瞬間、この『時計屋の国』は、その物理的な実体を維持する術を失った。
空を覆っていた重厚な歯車は、噛み合わせを失って悲鳴を上げながら崩落し、磨り潰した葡萄の皮のような紫色の雲は、もはや形を留められずに真っ黒な情報の煤となって降り注いでいる。
主を失った迷宮は、ただの『機能しなくなった巨大なゴミ溜め』へと成り下がっていた。
僕は、崩れ落ちた時計塔の最上階、かつて職人がふんぞり返っていた椅子の残骸に座り、消えゆく街を眺めていた。
『終わったか。……いや、ようやく正しく壊れたというべきかな』
僕は、自分の手のひらをじっと見つめる。
実体があるのかさえ疑わしい、光の粒が寄り集まったような僕の輪郭。
黄金色の瞳。
僕は、この瞳で、数え切れないほどの絶望を観測してきた。
本来、案内人というシステムは、観測対象がいなくなれば、迷宮と共にデリートされるはずのプログラムに過ぎない。
僕の足元にある歯車も琥珀色の液体となって溶け出し、僕の瞳も役目を終えて光を失うはずだった。
だが、消えなかった。
僕の中には、1023回の観測では決して味わうことのなかった、胸を締め付けるような**『寂しさ』**という名のノイズが、バグのように居座り続けていた。
『本当に行ってしまった。一度も、振り返らずに』
僕は、アリスが入り口で投げ捨て、今や瓦礫に埋もれかけている『ネイビーの傘』を拾い上げた。
それは、彼女が『母の望む良い子』として自分を殺し続けていた日々の残骸だ。
彼女はそれを捨て、少年の手を取り、雨の降る現実へと帰っていった。
それを見送る僕の胸に去来したのは、祝福ではない。
それは、1023人の失敗作を見届けた時のような『冷徹な納得』でもない。
ただ、物語が僕の手を離れていってしまったことへの、狂おしいほどの喪失感だった。
この迷宮……『時計屋の国』がいつから存在し、なぜこれほどまでに残酷な形態をとるようになったのか。
それを知る者は、もうこの世界には僕しかいない。
かつて、この場所は迷宮ですらなかった。
そこにあったのは、ある一人の男の『あまりにも純粋で、あまりにも傲慢な祈り』だった。
男の名は、今では誰も呼ぶことのない『時計職人』。
彼はかつて現実世界に生き、愛する娘を不慮の事故で亡くした、ただの悲劇的な父親に過ぎなかった。
午後三時十五分。
あの日、あの一秒。
娘の命が露のように消えたその瞬間を、彼はどうしても受け入れることができなかった。
『時間が悪いのだ』
『止まらない時間が、残酷に明日へとわしを連れて行く。忘却という名の汚泥の中へとわしを突き落とす。ならば、時間を殺してしまえばいい』
男の狂気は現実の物理法則を歪め、この『静止した領域』を作り出した。
彼は自らを時計職人と名乗り、娘が死ぬ直前の『三時十五分』を、永遠に固定された聖域として保存しようとした。
だが、死んだ肉体は戻らない。
そこにあるのは、精巧な機械仕掛けの人形と、止まったまま動かない空気だけだった。
絶望した職人は、いつしか『完璧な標本』を求めるようになった。
現実世界の歪みの中で、心が死にかけている純粋な少女たち。
彼女たちの『魂の秒針』を抜き取り、この迷宮に組み込めば、娘は、あるいはこの世界は、真に生き返るのではないか。
それが、この迷宮の忌まわしき起源だ。
僕は、その過程で生まれた『情報のゴミ』だった。
職人が時間を管理しようとした際にこぼれ落ちた、不要な情報の残滓。
影。
塵。
あるいは、観測用のレンズ。
職人は僕に、迷い子たちの案内役を命じた。
彼女たちが希望を抱き、それを完膚なきまでに打ち砕かれ、絶望の極致で『標本』になるまでのプロセスを最も効率よく進めるための調整弁。
それが、僕――ティックの正体だった。
僕は、職人のために1023人のアリスを品定めし、葬ってきた。
第1のアリス。
彼女は母の愛を疑うことができず、そのまま母の胃袋の中に溶けて同化した。
第56のアリス。
彼女は孤独に耐えかねて、自分を愛してくれる『鏡の中の自分』を作り出し、鏡の裏側で一生を終えた。
第412のアリス。
出口を見つけた瞬間、現実の重さに恐怖し、自ら進んで職人のネジへと姿を変えた。
彼女たちが迷宮に持ち込んだ『傘』や『日記』や『リボン』……
職人はそれらを『不純物』として捨てたが、僕は密かにそれらを収集し、瓦礫の隙間に隠してきた。
なぜそんなことをしたのか。
慈悲か。
いや、違う。
僕はただ、彼女たちが壊れる瞬間に放つ『命の火花』を、惜しんでいたのだ。
冷徹なシステムであるはずの僕が、唯一、この迷宮の中で『動いているもの』に執着してしまった。
それが僕の最初のバグだった。
『……けれど、1024人目の君だけは、僕のすべてを狂わせたね』
僕は空を見上げる。
そこには、もう時計の文字盤はない。
最後にアリスが見せたあの瞳。
彼女は、自分の弱さを肯定し、隣にいた『あの少年』と共に、火傷の痛みを引き受けて歩き出した。
二人が掌を重ねたあの瞬間、迷宮の理にない激しい『熱』が生まれた。
だが、あの男――職人は最後までその『虚構の秩序』に縋り付いていた。
支配者としての執着が、彼を怪物に変えていた。
アリスが銀色の光を放った時、彼は喉をかきむしるような悲鳴を上げた。
『なっ……何をする! 止めろ! 私の、私の完璧な円環が……! 時間の秩序が、崩壊していく……!』
それは一人の父親としての嘆きではなく、己が築き上げた停滞の神殿が、ただ一人の少女の意志によって否定されることへの絶叫だった。
彼は崩れゆく歯車に飲み込まれ、最後までその壊れた円環を繋ぎ止めようと虚空を掴み、消えていった。
アリスはもう、彼のことなど見ていなかった。
光の渦の中心で、彼女は少年の手を力強く引き寄せ、崩れゆく時計塔の心臓部に向かって、魂の底から叫んだんだ。
1023の失敗作がなければ、1024番目の奇跡は起きなかった。
皮肉なものだよ、アリス。
君が救われた背景には、それだけの死骸が積み重なっている。
そして君は、その重みさえも、自分の物語として背負う決意をしたんだ。
迷宮の崩壊は止まらない。
本来なら、僕もここで消えるはずだ。
けれど、僕は消えない。
なぜなら、アリスが現実へと持ち帰った『火傷の熱』は、まだ完結していないからだ。
『1023人の絶望を保持したまま、僕は君を待たなきゃいけない。ひどい役回りだ。……でも、悪くない』
僕は、現実世界へと帰還したアリスの『影』に、自らの存在を接ぎ木することに決めた。
十年間、僕は彼女の掌にある消えない火傷の疼きとなり、雨の日の不穏な予感となり、彼女が再び『扉』を開くその日を、執拗に待ち続ける。
僕は立ち上がる。
黄金色の瞳で現実世界を射抜きながら、図書館の隅、古い本の影に自らを溶け込ませていく。
迷宮は消滅したのではない。
アリスという一人の人間の内側へと、その種子を移しただけなのだ。
僕は、職人がかつて娘のために作ろうとした、壊れたオルゴールを手に取る。
音は出ない。
けれど、僕は知っている。
いつかアリスが戻ってきた時、このオルゴールは、この世で最も美しい旋律を奏でるだろう。
『さよならは言わないよ、アリス。……待っているよ。君が僕の名前を思い出し、自分の人生のすべてを引き受ける覚悟を決める、次の『三時十五分』に』
ティックという影は、現実の闇へと滑り込み、静かな沈黙へと沈んでいった。
黄金の瞳は閉じられ、一人の少女が、自分の手で自分を救い出す、その神話が完成するその日まで。




