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<断章>エピソード A:Alice's actual time Ⅱ

 季節は巡り、街を包む空気は鋭い冬の冷気を脱ぎ捨て、柔らかな陽光を孕んだ春へと移ろっていた。

 アリスにとって、この数ヶ月は『自分という人間を再構築する』ための静かな潜伏期間だったと言える。

 学校という、分刻みのチャイムで区切られた効率的な箱庭の中で、彼女は唯一、自分の呼吸を整えられる場所を見つけていた。


 校舎の最上階、北側の突き当たりにある古びた図書室だ。

 そこは、新刊のベストセラーを求める生徒も、試験勉強に励む熱心な受験生も訪れない、忘れ去られた沈黙の墓標のような場所だった。


「また、ここにいたのね」


 時折、司書の教諭が眼鏡の奥からアリスを見やるが、彼女の静かな読書を邪魔することはなかった。

 アリスはいつも、窓際の、西日が差し込む決まった席に座っていた。


 棚に並ぶ無数の背表紙。

 そこには、過去に誰かが自分自身の内なる迷宮を戦い抜き、血を流しながら結晶化させた『物語』が、冷たいインクの匂いと共に眠っている。

 かつてのアリスにとって、読書とは課題をこなすための作業であり、言葉とはテストで正解を導き出すための無機質な記号に過ぎなかった。

 けれど今は違う。

 ページをめくる指先に伝わる紙のざらつき、一行ごとに胸を打つ言葉の重み。

 それらはすべて、現実という名の砂漠で自分を繋ぎ止めるための、唯一の(アンカー)だった。


(彼は、どこかで元気にしているだろうか)


 古びた木の椅子の冷たさが、ふとした瞬間に、あの時計塔の真鍮の床を思い出させる。

 あの日、透明な傘を握って無言で頷き合った、名前も知らない少年。

 彼と再会することはないかもしれないし、彼もまた、この世界のどこかで『ごく普通の学生』という仮面を被って生きているのだろう。

 けれど、アリスの掌が時折帯びる微かな熱――あの黄金色の火傷が残した残り火は、彼もまた同じ空の下で、自分自身の物語を戦い抜いているのだという確かな連帯感を伝えてくる。


 アリスは、カバンから一冊のノートを取り出した。

 それは学校で配られた何の変哲もないノートだったが、中には彼女自身の言葉が、びっしりと書き込まれていた。

 それは日記でもなければ、誰かに見せるための詩でもない。

 迷宮から持ち帰った『真鍮の重み』を言葉に変え、現実という地図の上に自分の現在地を記すための、彼女だけの『航海日誌』だった。


「いつか、私も書けるようになるのかな」


 誰かのためではない、自分という迷い子のための、本当の言葉を。

 インクが紙の繊維に染み込んでいく音だけが、静かな図書室に規則正しく響いていた。




 家の中の空気も、劇的にではないが、決定的に変わっていた。

 母との関係は、魔法のような和解や抱擁で解決したわけではない。

 むしろ、お互いの間に『適切な距離という名の断絶』を受け入れることで、ようやく平穏が訪れたのだ。


 ある日の夕暮れ、アリスがリビングに入ると、母は鏡の前で自分の顔をじっと見つめていた。

 かつて、母にとって鏡は、自分の完璧さを確認するための道具であり、同時に、娘という自分の作品を投影するためのスクリーンだった。


「アリス。お母さん、最近……自分の顔が、思っていたよりも老けていることに気づいたの」


 母の声には、かつての鋭利な響きはなかった。

 ただ、事実を事実として受け入れた人間の、乾いた寂寥感だけがあった。

 アリスは、母の背中を見つめた。

 以前は、その背中が世界のすべてを覆い隠す巨大な壁のように見えていた。

 けれど今、そこにいるのは、差し出した傘を拒絶され、自分の一部だったはずの娘を失い、途方に暮れている一人の不器用な女性だ。


「お母さん。もう、鏡を探さなくてもいいよ」


 アリスは静かに、けれど遮ることを許さない響きで告げた。

「そのネイビーの傘は、お母さんが差して。私は……この透明な傘の向こう側にある景色を、ちゃんと見ていたいの。雨に濡れても、足元が汚れても、それが現実なら、私はそれを愛せると思うから」


 母は、鏡の中に映る娘の瞳を見た。

 そこには、かつての怯えも、空虚な追従もなかった。

 母は何かを言いかけ、けれど言葉を選べないまま、ゆっくりと鏡から目を逸らした。

 その夜、食卓に並んだのは、母が自らスーパーで買ってきた市販の惣菜だった。

 完璧な手料理ではない。

 盛り付けもどこか乱れている。

 けれど、母が無言でその惣菜を皿に並べる姿を見て、アリスは初めて、この家が『完璧な標本の展示場』から『人間が生きる場所』へと変わったことを確信した。


 母は監視をやめたのではない。

 自分から遠くへ行ってしまった娘の背中を、一人の独立した他者として、必死に理解しようともがき始めたのだ。




 そして、季節が完全に春へと移り変わった、ある雨上がりの日のこと。

 アリスは、かつて自分が迷宮へと足を踏み入れた、あの境界線の場所に立っていた。

 古びた時計店の跡地。

 今ではただのコンクリートの壁が、雨に濡れて黒ずんでいる。


 三時十五分。

 時計の針が重なり、世界の継ぎ目が最も薄くなる、あの運命の時刻。


 かつてのアリスにとって、この時刻は『止まった時間』への誘いであり、絶望の始まりだった。

 けれど今、その時刻を告げる街のチャイムが聞こえてきたとき、彼女が感じたのは、新しい物語の始まりを告げる合図のような、澄んだ高揚感だった。


 彼女の手には、使い古されて少し傷のついた、あの『透明な傘』がある。

 アリスは傘を閉じ、空を見上げた。

 雲の間から、鋭い陽光が差し込み、濡れたアスファルトを黄金色に焼き始めている。


「さようなら、時計屋の国」


 彼女は小さく呟いた。

 それは過去の自分への鎮魂歌であり、これから始まる、果てしない現実への宣戦布告でもあった。

 迷宮から持ち帰った『真鍮の重み』は、今では彼女の足取りを安定させる『重心』となり、誰の言葉にも流されない強さを与えている。


 ふと、予感があった。

 この物語は、ここで終わるのではない。

 いつか、もっと遠い未来。

 アリスが24歳になり、大人の皮を被ってこの街を歩くとき。

 再び運命の歯車が回り、あの黄金の瞳をした案内人が、影の中から彼女を観測し始める日が来る。


 アリスは、ノートの最後に書いた一節を思い出した。


『時間は奪われるものではなく、自分で刻むものだ』。


 彼女は歩き出す。

 図書館の地下に眠る真実も、いつか訪れる再会の運命も、今の彼女を縛ることはできない。

 透明な傘を杖のように突き、濡れた路面に確かなリズムを刻みながら、アリスは雑踏の中へと消えていった。


 空はどこまでも高く、透明だった。

 彼女の手のひらの火傷は、もう目立たない。

 けれど、彼女が自分の未来を強く信じるたび、その掌にはあの迷宮の記憶が――真鍮の冷たさと、砂時計の重みと、そして自分が初めて選んだ瞬間の、あの熱い『鼓動』が、いつまでも消えない力強さで宿り続けている。


 アリスはもう、二度と傘で視界を遮ることはない。

 透明な視界の先に、自分だけの、眩しいほど鮮やかな『現実』が広がっているのだから。



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