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<断章>エピソード A:Alice's actual time Ⅰ

 目を覚ましたとき、最初に視界に入ったのは、見慣れた天井の染みだった。

 薄く黄ばんだ白の中に、不規則に広がる影のような跡。

 それはいつからそこにあったのか思い出せないほど昔から、この部屋の一部として存在している。

 意味も象徴もなく、ただ生活の退屈な時間だけを吸い込んできた痕跡。


 アリスは数秒間、瞬きもせずにその染みを見つめ続けた。

 ……歯車の影はない。

 耳を澄ませても、秒針が刻む冷徹なリズムも、砂時計の砂が皮膚を削るような擦過音も聞こえない。


 あるのは、遠くの幹線道路を走るトラックの微かな重低音と、隣家の室外機が回る生活の音だけだ。

 戻ってきたという事実を疑っているわけではない。

 むしろ逆だった。

 あまりにも現実が、過不足なく、完璧な状態でそこにありすぎた。


 カーテンの隙間から差し込む朝の光は、あの日と同じ角度で床を照らしている。

 光の粒の中で踊る埃たちが、部屋の輪郭を過剰なほど正確になぞっていた。

 世界は何事もなかったかのように、正しい手順で朝を進めている。

 その『正しさ』が、かえってアリスの胃の奥を冷たく冷やした。


 ――置いていかれたのは、私のほうだ。


 そんな考えが、泥のように胸の奥に沈んでいく。

 アリスは重い身体を引きずるようにして、自分の右手をゆっくりと持ち上げた。


 掌には、何もない。

 黄金色の火傷も、血のように刻まれた自分の名前も、あの灼けるような魔術の熱も、どこにも残っていなかった。

 わかっていた。

 戻った瞬間から、物理的な変化など何ひとつないことは理解していたはずだった。

 それでも彼女は、何度も何度も掌の同じ場所を見つめ、指先で確かめるようになぞってしまう。

 そこに『ない』ことを、痛いほどに確認しなければ、今自分が立っている場所が『本物』であると信じることができなかった。


「やっぱり……ない」


 声に出した言葉は、湿った吸音材に吸い込まれるように、部屋の空気に溶けて消えた。

 それは喪失への悲嘆ではなかった。

 むしろ、形として残らない『選択』という名の重りを、目に見えない形で確かに持ち帰ってしまったという、奇妙な、そして重苦しいまでの実感だった。


 布団から這い出し、床に足を下ろす。

 フローリングの冷たさが、足裏から神経を通って脳の芯まで突き抜ける。

 その鋭い刺激だけが、今の自分が確かに『現実』という時間軸に繋ぎ止められていることを教えてくれた。




 パジャマのまま部屋を出ると、廊下にはすでに『朝の匂い』が充満していた。

 出汁の香る味噌汁の匂い。

 少しだけ焦げたトーストの芳ばしさ。

 それらは、母が長年作り上げてきた、この家の『規律』そのものだった。

 かつてのアリスにとって、この匂いは安らぎではなく、今日という一日をどう完璧に演じるべきかを強いる、召集令状のようなものだった。


 キッチンに立つ母の背中は、相変わらず定規で引いたように真っ直ぐだった。

 けれど、何かが違っていた。

 アリスが食卓の椅子を引く音がした瞬間、母の肩がびくりと跳ねたのを、アリスは見逃さなかった。


 母はアリスを見ようとせず、手元の新聞に視線を落としていた。

 だが、その指先はわずかに震え、行間を追う目は一点で固まっている。

 文字を読んでいるのではない。

 ただ、新聞という名の盾を構えて、娘という『理解不能な異物』から自分を守っているのだ。


「……眠れた?」


 母の問いかけは、あまりにも慎重だった。

 かつての『管理者の声』ではない。

 娘の体調を管理し、最適化しようとする義務感からの質問でもない。

 それは、薄氷の上を歩くような、何か決定的な破滅を恐れている人間の声だった。


 アリスは一瞬、答えに詰まった。

 眠ったのか、眠れなかったのか。

 そんな単純な事実さえ、今の自分にとっては多層的な意味を持ってしまう。

 あちら側の国での永劫にも似た時間と、こちら側でのわずか数時間の不在。

 アリスは、母の横顔をじっと見つめた。


「うん。……お母さん」


「……何?」


「トースト、少し焦げてるよ」


 母は驚いたように手元の皿を見つめた。

 そこには、いつもなら絶対に食卓に出されるはずのない、縁が黒ずんだ食パンが置かれていた。

 母にとっての『完璧な朝食』という聖域が、自らの手で崩されていた。

 母は、あわててその焦げを削り取ろうとして、途中で力を抜いた。


「……そうね。焦げちゃったわね」


 母の口から漏れたのは、謝罪でも叱責でもなく、ただの『降参』の溜息だった。

 沈黙が落ちる。

 だがそれは、以前のように互いの心を殺し合う沈黙ではなかった。

 言葉の扱い方を一から学び直しているような、静かで、しかし緊張感に満ちた時間。


 昨夜、雨の路上でアリスが口にした、自分という個の宣言。

 そしてその後の食卓で、途切れ途切れに語った『時計屋の国』の話。

 母がそれを狂言だと思ったのか、あるいは極度のストレスによる幻覚だと思ったのかは、アリスにはわからない。

 ただ、母の中にあった『アリスは私の延長線上にある存在である』という傲慢な確信が、音を立てて崩れ去ったことだけは確かだった。


 母は、自分から遠くへ行ってしまった娘の背中を、必死に理解しようともがいている。

 その不器用な視線は、監視よりもずっと、アリスを人間として扱っていた。




 学校への道は、暴力的なまでにいつも通りだった。

 歩道のひび割れ、色褪せた看板、信号待ちをするサラリーマンの無表情な背中。

 どれもが正確に、アリスの記憶のピースと合致している。

 それなのに、アリスは自分だけが、この世界から数ミリだけ浮いているような感覚を拭えなかった。


 校門をくぐると、生徒たちの声が幾重にも重なって耳に飛び込んでくる。

 笑い声。

 教師への愚痴。

 放課後の予定。

 昨日見たテレビ番組の感想。

 それらすべてが、以前と同じ音量、同じテンポで、循環する水のように流れている。


「おはよう、アリス! 課題、終わった?」


 話しかけてくるクラスメイトの顔を見る。

 彼女の瞳には、日常の些細な悩みと、明日への根拠のない安心感が同居している。

 アリスは、自分がかつてその一部であったことを思い出しながら、慎重に言葉を返した。


「うん。なんとか、ね」


 拒絶されているわけではない。

 アリスというピースは、依然としてこの学校というジグソーパズルの中に、完璧な形ではまっている。

 それでも、自分と世界の間に、薄い、透明な膜が一枚挟まっているような感覚が消えない。

 教室の喧騒が、どこか遠くの物語を再生している蓄音機の音のように聞こえるのだ。


 授業が始まると、教師のチョークが黒板を叩く音が、やけに規則正しく、機械的に響いた。

 黒板に書き連ねられる数式、歴史の年号、正しい文法。

 それらはすべて、この社会という『巨大な時計』を正確に動かすための歯車に過ぎないことを、アリスは知ってしまった。

 以前は、その歯車の一部になることが恐怖であり、同時に唯一の生存戦略だった。

 けれど今の彼女にとって、世界はもはや『抗うべき怪物』ですらなかった。


 世界はただ、正解を刻む機械なのだ。

 それを美しいと感じることも、虚しいと感じることも、今の自分にはできる。

 ノートの余白に、アリスは無意識のうちに小さな円を描いた。

 そこから何本かの針を伸ばそうとして、途中で止めた。

 もう、時間は誰かに支配されるものではなく、自分の肺の中に溜まった空気と同じ、自由な質量であるはずだから。




 放課後。

 予報通りに雨が降り出した。

 昇降口で立ち止まる生徒たちの波をかき分け、アリスは傘立ての隅へと向かった。


 そこには、多くのビニール傘が刺さっていた。

 誰のものかもわからない、使い捨てられる前提の、安価な雨具。

 アリスはその中から、一本の透明な傘を手に取った。

 昨日、あの異界の境界線から持ち帰った、唯一の物理的な『戦利品』。


「アリス、その傘……」


 背後から、母に似た気品を持つ同級生が声をかけてきた。

 彼女は、アリスの家柄にふさわしい、ブランド物のネイビーの傘を広げている。


「それ、誰かのと間違えてない? あなた、いつももっと良い傘を使ってたじゃない。お母さんに叱られるわよ」


 アリスは、そのネイビーの傘を眩しそうに見つめた。

 それは、母の保護と支配の象徴。

 かつてのアリスなら、血の気が引くような心地で間違いを正し、謝罪していただろう。

 けれど今、彼女が握っているプラスチックの柄は、驚くほど指に馴染んでいた。


「いいの。これが、いいの」


 アリスは短く答えて、雨の中へと一歩を踏み出した。

 透明なビニール越しに見上げる空は、濁った灰色だ。

 けれど、その灰色は以前の『絶望の壁』ではなかった。

 雨粒が傘の表面を叩くたび、その振動が直接、掌へと伝わってくる。

 この傘は、世界を歪めない。

 守りもしないが、遮りもしない。

 ただ、雨という現実をありのままに見せながら、自分という境界線を最小限に守ってくれる。


 歩き出すと、靴底から伝わる水の感触が、不思議と自分を落ち着かせた。

 胸の奥にある『真鍮の重み』が、一歩ごとに足元へと降りていくのがわかる。

 それは、自分を沈ませる重り(ウェイト)ではない。

 荒れ狂う現実という海の中で、自分の立ち位置を固定するための『重心(センター)』だった。


「……これを抱えて、生きていく」


 それは決意というほど大げさなものではなく、ただ、自分の血肉の一部として受け入れるという、静かな諦念に近い受容だった。


 家に着くころ、雨は小降りになっていた。

 玄関の前で傘を閉じると、ビニールに残った水滴が宝石のように弾け、地面へと還っていく。

 アリスは濡れた傘を玄関脇に立てかけ、一度だけ深く、雨上がりの湿った空気を吸い込んだ。


 扉を開ければ、そこにはまた不器用な母との沈黙が待っているだろう。

 明日になれば、また機械的な学校生活が繰り返されるだろう。

 けれど、アリスはもう、下を向いて歩くことはない。

 自分の内側に、誰にも侵せない広大な迷宮と、自分で選んだ時間の鼓動を持っているのだから。


 アリスは、ゆっくりと家の中へと足を踏み入れた。

 その背中は、まだ細く、頼りない。

 けれど、彼女の靴音は、確かに現実の地面を捉え、自分だけの時間を刻み始めていた。



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