<断章>エピソードC:Crystalized Verse Ⅲ
彼女がその『白紙の聖域』で編み続けてきた羊皮紙の山は、今や銀色の地層となって足元を埋め尽くしていた。
一枚一枚に、彼女が現実世界で十年間かけて悩み、苦しみ、そして見つけ出した『答え』が、独自の言語(詩)として刻まれている。
それは魔法のような超常的な力ではなく、一人の女性が自分の足で歩き、泥にまみれ、それでも『自分の人生は自分のものだ』と確信した経験そのものの重みだった。
銀髪の女性――完成されたアリスは、最後の一行を書き終え、ゆっくりと羽ペンを置いた。
ペン先から滴った最後の一滴が、羊皮紙の上で静かに吸い込まれていく。
その瞬間、迷宮の最深部を支配していた、あの冷たく重苦しい静寂が、春の陽だまりのような微かな温もりを帯びて霧散していった。
「……これで、すべてが繋がった」
彼女の声は、震えてはいなかった。
彼女が紡ぎ上げた『詩』は、過去、現在、未来、そして無数に分岐し、袋小路に迷い込んでいた『可能性の迷宮』すべてに浸透していった。
歪み、錆びついていた世界の歯車が、本来あるべき形へと、あるいは新しい形へと矯正されていく。
彼女の脳裏に、いくつもの『あの日』が鮮明に蘇る。
十四歳の自分が、絶望の淵で『銀色のペン』を受け取った瞬間。
時計塔の業火の中で、隣にいた『彼』が、自分の手を力強く握りしめた瞬間。
そして、その手の温もりこそが、この偽物の世界で唯一の『本物』なのだと定義し、自分の心に刻みつけた瞬間。
さらには、現実へと帰還し、母の支配を拒んで『自分の足で歩く』と宣言した、あの雨上がりの瞬間。
それらすべてが、今、ひとつの美しい星座のように結びついた。
それは『世界を救う』といった大層な救済ではない。
アリスという、たった一人の少女の、ままならぬ人生のすべてを肯定するための、私的な神話の完成だった。
ふと、背後に気配を感じて彼女は振り返った。
そこには、黄金色の瞳を閉じ、消えゆく霧のように輪郭が淡くなったティックが立っていた。
かつてはあんなに不気味で、冷酷な案内人だと思っていた影。
けれど今の彼女には、彼もまた、この壮大な物語が完成するのを、誰よりも寂しく、誰よりも近くで見守り続けていた『隣人』であったことが分かった。
「見事だね、アリス。君はついに、自分という名の迷宮から脱出した。……いや、迷宮そのものを、君という一冊の『物語』の一部として結晶化させたんだ」
「あなたは、最初からこの結末を知っていたのね。私が現実での十年を経てここへ来ることも、この最後の詩を書き終えることも」
「まさか。僕はただの観測者だよ。……けれど、君が図書館の地下で『最後の選択』をした瞬間、この停滞していた宇宙の秒針は、ようやく正しい音を立てた気がするよ。君が編み上げたその詩は、もう誰にも、時計職人にさえも、止めることはできない」
ティックはそう言うと、満足げに目を細め、静かに虚空へと溶けていった。
案内人の役割は、もう必要ない。
アリスが自分自身の物語を自らの手で書き終え、その因果の責任をすべて引き受けた今、彼女を導く影も、彼女を縛り付けるための『時間』も、この場所にはもう存在しなかった。
彼女は椅子から立ち上がり、白紙の書斎から一歩、外へ踏み出した。
すると、これまで彼女を包んでいた白銀の世界が、音を立てて崩れ去り、穏やかな雨上がりの街並みへと姿を変えていく。
それは、かつての彼女が夢見た、透明な、色彩に満ちた、何の飾りもない日常の風景。
あの日の午後三時十五分の、続きの世界。
彼女の身体は、徐々に光の粒子へと還り始めていた。
『詩を紡ぐ者』としての使命を終え、因果の環を閉じ、自らを救い切った魂が、本来あるべき『無』へと帰還しようとしているのだ。
そこには恐怖も、孤独もなかった。
あるのは、一冊の壮大な物語を読み終えた後のような、凪いだ海のような、どこまでも深い充足感だけ。
彼女は最後に、遠く離れた時間軸にいる『あの少年』に思いを馳せた。
かつて共に戦い、自分の手を引いてくれた、名もなきサバイバー。
彼がいてくれたから、彼女はこの孤独な聖域でも、ペンを握る手を止めずにいられた。
彼が『生きてくれ』と願ってくれたから、彼女は現実での十年を戦い抜き、ここに辿り着くことができたのだ。
たとえ、もう二度と会うことはなくても。
たとえ、彼が今の自分の姿を知らなくても。
彼と共有した『火傷の熱』だけが、彼女をここまで連れてきた。
「ありがとう。……私の、もうひとりの主人公」
彼女の呟きは、銀色の雪となって降り注ぎ、すべての時間軸に存在する『アリス』たちの心に、微かな、けれど決して消えることのない勇気の残り火として灯った。
それは、どんなに激しい雨が降っても、どんなに深い霧に包まれても、自分自身への信頼という名の灯火として、彼女たちを支え続けるだろう。
光が弾ける。
聖域は完全に消滅し、後に残されたのは、真っ白な一ページの羊皮紙だけ。
そこには、一文字だけ、新しい文字が刻まれていた。
それは、彼女が迷宮の入り口で捨ててきた『本当の名前』でもなく。
母に押し付けられた『良い子』のレッテルでもなく。
あるいは、迷宮を支配するための冷徹な記号でもなく。
ただ、新しい朝を迎えるための、真っさらな『始まり』を意味する、自由な筆致。
アリスの物語は、ここで結晶化し、永遠の安らぎの中へと閉じていく。
だが、その詩篇が奏でる旋律は、今もどこかで雨上がりの空を見上げ、震える手で透明な傘を握りしめている『迷える誰か』の耳元で、静かに、けれど力強く響き続けている。
――私は、私であることを選んだ。
それが、どんなに険しい道であっても。
その一歩こそが、私の刻む、本当の時間。
アリスが最後に残したその『詩』の余韻は、世界が続く限り、消えることはない。




