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<断章>エピソードC:Crystalized Verse Ⅱ

時計塔が崩壊し、偽りの空から帰還したあの日から、十年という歳月が流れていた。


二十四歳になったアリスは、現実という名の、迷宮よりもはるかに複雑で解のない迷路の中にいた。

彼女は今、都心の片隅にある国立図書館の修復部門で働いている。

職場の地下にある作業室は、古びた紙の匂いと、薬品のツンとした刺激臭、そして底冷えするような静寂に満ちていた。

それは彼女がかつて迷宮で吸い込んだ、あの機械油と古い記録が混ざり合った空気と、どこか残酷なまでに似ていた。


彼女の仕事は、崩れかけた古文書のページを、極細のピンセットと糊を使って繋ぎ止めることだ。

バラバラになった文字の断片を、本来あるべき場所へと戻していく作業。

それは、自分自身の砕け散った記憶を一つずつ拾い集める行為の反復のようでもあった。


母との関係は、あの日を境に、一服の苛烈な劇薬を飲まされたように変化した。

支配と依存の糸を断ち切った代償は、決して小さくはなかった。

対立し、ぶつかり合い、互いに一人の人間として、その『ままならなさ』を認め合うまでの数年間は、時計塔での戦いよりもずっと精神を摩耗させた。

母は老い、支配する力を失い、アリスは大人になり、守られることをやめた。

今では、たまに二人で会っても、天気の話と健康の話をする程度の、穏やかで――けれど、どこか余所余所しい距離感を保っている。

それは『正解』でも『不正解』でもない、ただの平穏な『現実』だった。


けれど、アリスの心には、常に埋まらない『空白』があった。

窓の外で雨が降るたび、彼女は反射的に右手の掌を見つめる。

あの黄金色の火傷の跡は、帰還した瞬間に消えたはずだった。

皮膚は滑らかで、痣ひとつない。

だが、仕事で重い本を運んだときや、孤独な夜に深い溜息をつくとき、その場所が微かに、けれど熱く、心臓の鼓動と同期して脈打つのを感じるのだ。


(……私は、本当にあそこから帰ってきたのだろうか)


自分を救ってくれたあの少年。

名前も知らない彼は、今、この広い世界のどこかで、どんな傘を差して歩いているのだろうか。

彼は、自分と同じようにこの退屈な現実に適応し、あの日の火傷を忘れて生きているのだろうか。

あるいは、彼もまた、失われた時間の残響に耳を澄ませて、空虚な空を見上げているのだろうか。

それを確かめる術はない。

彼もまた、自分という存在を確立するための『通過点』に過ぎなかったのだと、理性では理解していた。


だが、運命の歯車は、彼女が思っている以上に執念深く彼女の足首を掴んでいた。


ある秋の夜、アリスは海外から寄贈されたばかりの、未整理の古文書束を修復していた。

それは数百年前に書かれたとされる、作者不明の断章。

煤け、ボロボロになった羊皮紙を広げた瞬間、アリスの指先が凍りついた。


そこに描かれていたのは、挿絵ではない。

幾何学的な、あまりにも緻密な、真鍮のワイヤーの絡まりを模したような『紋様』。

それは、時計塔の最上階で、あの機械の母の背後に張り巡らされていた、世界の神経系と全く同じ構造をしていた。


その瞬間、地下室の空気が一変した。


「……あ」


換気扇の回転音が、スローモーションのように引き伸ばされ、重低音へと変わる。

天井の蛍光灯が琥珀色に淀み、窓の外を流れていた時間が、琥珀の中に閉じ込められた虫のように、ぴたりと静止した。

修復机の上に置かれたピンセットが、意志を持ったかのようにカタカタと震え始める。


棚の影、積み上げられた古書の山の間から、どろりとした『黒い影』が滑り出してきた。


「久しぶりだね、アリス。……いや、今は何と呼ばれているのかな。司書? 修復士? それとも、『自分を騙し続ける女』かい?」


影――ティックだった。

彼は十年前と変わらぬ、いや、より鮮明になった黄金色の瞳で、成長したアリスを見上げていた。


「ティック……。どうして。ここは現実のはずよ」


「現実? 幻想? 君ほどの旅人が、まだそんな単純な二元論に縋っているなんて。……君がこの古文書を開いたのは偶然じゃない。君の掌の『火傷』が、この場所を呼び寄せたんだ」


ティックは宙に指で円を描いた。

その円の中に、アリスは見てはならないものを見た。

そこには、今この瞬間も、別の時間軸、別の可能性の迷宮で、無残に壊れていく『無数のアリスたち』の姿が映し出されていた。


あるアリスは、時計職人の標本瓶の中で永遠の静止を命じられ、魂の抜け殻となっていた。

あるアリスは、母の腕の中で真鍮の針に貫かれ、ただの動く人形へと成り果てていた。

そして、あるアリスは、あの少年と出会うことさえできず、孤独な暗闇の中で自ら時間を止めていた。


「君が救われたのは、奇跡じゃない。数え切れないほどの失敗と、絶望の屍の上に積み上げられた、唯一の『成功例』に過ぎないんだ。……でも、見てごらん。君が立ち止まっているせいで、この(ループ)は歪み始めている」


ティックの言葉に、アリスは激しい眩暈を覚えた。

自分が手に入れた十年の平穏が、他の自分たちの犠牲の上に成り立つ、砂の上の城のように思えた。


「君には資格がある。……いや、義務と言ってもいい。君はこの迷宮を生き抜き、現実で『選ぶ痛み』を知った。……アリス、この世界の不条理を書き換える力を持つのは、その地獄を知り、かつ未来を手にした者だけだ。……どうする? このまま人として、記憶を風化させながら、静かに朽ちていくか。それとも、永遠の孤独を引き受けて、過去の自分たちを救うための『詩人』になるか」


アリスは、震える右手を見つめた。

そこには、今も少年の温もりが残っている。

あの時、迷宮の奥底で出会った、あの『銀髪の女性』。

彼女が未来の自分自身であることは、あの瞬間に教えられ、魂の深い場所で理解していたはずだった。


(……ああ、そうか。私はあの日、彼女から『ペン』を託されたときに、もう決めていたんだ)


あの日、自分を救ってくれた彼女が、どれほどの年月、この静止した白紙の世界で孤独を編み続けてきたのか。

それを『知っている』今の自分には、そのバトンを拒否する道など残されていない。

自分が今ここで『嫌だ』と言えば、あの時自分を救ってくれた彼女の存在そのものが、因果の矛盾によって掻き消えてしまう。

それは、自分を救ってくれた彼女の慈愛を、そして自分自身の救済を、なかったことにする裏切りだ。


(私を救うのは、私でなければならない。それが、この物語を完結させるための最後のピース)


因果の輪が、ガチリと噛み合う音が聞こえた。

それは重苦しく、けれど解放的な響きだった。


「……行くわ。それが、私の選ぶ『最後の選択』」


アリスがそう告げた瞬間、図書館の床が真鍮の歯車へと変貌し、彼女を底なしの奈落へと飲み込んでいった。

落ちていく感覚の中で、彼女の黒い髪は、時間の急流に晒されて徐々に銀色へと輝きを変えていった。

細胞の一つ一つに、膨大な世界の記録が流れ込み、彼女の瞳には数千年の知恵と、それに伴う底知れぬ孤独が宿り始めた。


彼女が辿り着いたのは、迷宮のさらに奥底。

時間が生まれる前の静寂が支配する、『白紙の領域』。

そこは、感情を排した純粋な演算と、美しい詩編だけが存在を許される場所。


そこから、彼女の果てしない『調律』が始まった。

彼女は、数億通りの可能性の中から、最も細い、けれど確かな『希望の糸』を見つけ出すために、ひたすら羊皮紙に『(コード)』を刻み続けた。

彼女はもう、母の元へは帰れない。

少年の名前を呼ぶことも、誰かと共に雨上がりを歩くこともできない。

自分の人生を、自分のために謳歌する権利を、彼女は『自分自身(過去のアリス)』を救うために、すべて捧げたのだ。


それは、神にも似た権能であり、同時にこの世で最も残酷な、透明な牢獄だった。


けれど、彼女はペンを握る手を止めなかった。

孤独という名の冷たい水を飲み込み、それを燃料にして、過去の自分に届けるための言葉を紡ぐ。

第25話。

ボロボロになり、自意識の境界線が崩れかけていた、あの日の自分。

少年の手を離しかけていた、あの未熟な自分。

その背中を、たった一言で支えるために。


「……大丈夫。あなたは、間違っていない」


銀髪の女性となったアリスは、深い吐息と共に、銀色のペンを過去の深淵へと投じた。

そのペンは光を放ちながら次元を越え、十年前の自分の手元へと、祈りのように届いていく。

彼女の物語は、こうして完成へと向かう。

自分を救うための、終わりのない、けれど究極の自己救済。

彼女の紡ぐ(ヴァース)が、この狂った迷宮の時間を、静かに、けれど確実に正していく。



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