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<断章>エピソードC:Crystalized Verse Ⅰ

 その場所には、昼も夜もなかった。

 ただ、どこまでも続く白銀の霧と、時折遠くで響く巨大な時計の鼓動だけが、世界のすべてだった。


 銀髪の女性――かつてアリスと呼ばれた彼女は、その中心にある『白紙の書斎』に座っていた。

 彼女が纏う白のドレスは、汚れを知らない潔癖な美しさを放っているが、その裾には、長い年月をかけて蓄積された『過去の塵』が、銀色の刺繍のように刻み込まれている。


 彼女の仕事は、書くことだった。

 羽ペンを走らせるたび、羊皮紙の上には黄金色の数式と詩編が混ざり合ったような、奇妙な『言葉』が並んでいく。

 それは現実世界の言語ではない。

 迷宮という名の巨大な機械仕掛けの宇宙を、再定義し、書き換えるためのハッキング・コード。

 彼女は、この『(ヴァース)』を編み上げるためだけに、名前さえ忘れるほどの時間をここで過ごしてきた。


「……あと、少し」


 彼女の声は、氷が砕けるような静謐さを伴って虚空に溶けた。

 彼女の前に置かれた砂時計。

 そこには砂ではなく、砕かれた『記憶の結晶』が詰まっている。

 彼女がペンを動かすたび、結晶の一つが輝き、砂時計のくびれを通り抜けて、過去へと落ちていく。


 彼女の脳裏には、鮮明な映像が浮かんでいた。

 雨上がりの街角で、ネイビーの傘を握りしめ、自分を殺して歩く十四歳の自分。

 あの時、アリスは知らなかった。

 彼女が踏み出したあの一歩が、どれほどの確率の海を越え、どれほど多くの『死んだアリス』の亡骸を乗り越えて辿り着いた、奇跡的な一歩であったかを。


 この聖域に至るまでの道のりは、決して平坦ではなかった。

 現実世界に戻った後のアリスを待っていたのは、手放しでのハッピーエンドではない。

 自立を宣言したことで母との関係は歪み、選ぶことの責任という重圧が、彼女の精神を何度も押し潰そうとした。

 失敗し、後悔し、時には『あの迷宮に戻ってしまいたい』と願った夜も一度や二度ではなかった。


 だが、彼女は書き続けた。

 自分の中にある『熱』を、消えゆくティックが残した『火傷』を、いつか誰かを救うための力に変えると決めたのだ。


「ティック……。あなたが見守っていたのは、私ではなく、この『終わり』だったのね」


 彼女が視線を上げると、書斎の隅、影の溜まり場に、かつての案内人の残像が揺れていた。

 今の彼女にとって、ティックは恐怖の対象ではない。

 彼もまた、宇宙がバランスを保つために必要とした、孤独な歯車の一つであったことを、彼女は既に理解している。


 彼女はペンを置いた。

 書き上げた詩編が、一羽の銀色の鳥へと姿を変え、書斎の窓から霧の向こうへと羽ばたいていく。

 それは過去の迷宮を彷徨う『幼い自分』へ届けるための、微かな希望。

 アリスが受け取った、あの銀色のペンと、あの励ましの言葉。


「救いとは、他人が与えるものではない。……未来の自分が、過去の絶望を肯定することによってのみ完成する、長い長い対話なのよ」


 彼女は自嘲気味に微笑んだ。

 鏡の中に映る自分の姿を見る。

 瞳の色は深い青。

 時計職人の冷徹な青とは違う、夜明け前の空のような、可能性を秘めた青だ。


 彼女は再び、白紙のページに向き合った。

 次は、時計塔の最上階。

 あの子が、あの『機械仕掛けの母』を前にして、自分という存在を見失いそうになる瞬間に、どのような音節(コード)を届けるべきか。


 彼女の指先が、黄金色の火傷の痕跡をなぞる。

 そこには今も、あの日、少年が握ってくれた手の温もりが、冷めることのない核となって燃え続けている。


 その温もりを、詩に変える。

 その痛みを、光に変える。


 銀髪の女性は、深い吐息と共に、再びペンを走らせ始めた。

 それは一人の少女が神話へと昇華し、自らを救い出すための、美しくも残酷な記録。



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