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<断章>エピソードE:Echo of the rain Ⅲ

 時計塔が崩壊する地響きのような振動が、私の足裏を突き抜けた。


 空を覆っていた濁った紫色の雲が、内側から黄金色の光に焼き切られていく。

 ねじれた電柱も、歯車を吐き出す街路樹も、陽炎のようにゆらゆらと揺らぎ、粒子となって空へ還っていく。


「……アリス!」


 私は、光が最も強く噴き出している、あのコンクリートの壁の前で叫んだ。

 その瞬間、私の耳を塞いでいた分厚いカーテンが引き裂かれた。


 ガァァァァァァァン!!


 世界を揺るがす巨大な鐘の音が一度だけ響き、次の瞬間、すべての音が回帰した。

 遠くを走る車の走行音、濡れた路面を跳ねる自転車の音、どこかの軒先から滴る水の音。

 腕時計の針が、三時十五分という呪縛から解き放たれ、カチリと一秒を刻んだ。

 世界が、再び呼吸を始めたのだ。


「あ……」


 気づけば、私は灰色のコンクリート壁の前に立ち尽くしていた。

 買い物袋は足元に落ち、中からは卵の黄身が虚しく流れ出している。

 周囲を見渡しても、真鍮の歯車も、黄金の瞳の影も、どこにもいない。

 そこにあるのは、ただの、退屈で、けれど愛おしいほどに騒がしい現実の街並みだった。


「アリス! アリス!」


 私は走り出した。

 髪を乱し、端然としていたはずの表情は崩れ、目元には隠しきれない不安が滲んでいる。

 現実の時間では、あの子が消えてからほんの数分、あるいは数秒の出来事だったのかもしれない。

 けれど、私の内側の時計は、取り返しのつかないほどに書き換えられていた。


 通りの向こうに、人影が見えた。

 光に包まれ、境界線が曖昧になった、けれど誰よりも見慣れたシルエット。

 私は無我夢中で駆け寄り、あの子の肩を掴んだ。


「アリス、どこに行っていたの!? 探したのよ、ずっと……。連絡もつかないし、もし何かに巻き込まれていたらって……」


 口をついて出るのは、やはり過保護で、支配的な言葉の残骸だ。

 私の脳は、まだ『管理者の習慣』を捨てきれずにいた。

 だが、アリスが私を見つめ返した瞬間、私は言葉を失った。


 あの子は、あの日と同じ中学の制服を着ていた。

 けれど、その右手には、私があげたネイビーの傘ではなく、見たこともない透明なビニール傘が握られている。

 その透明な膜越しに私を見るあの子の瞳は、私を拒絶していなかった。

 同時に、私に怯えてもいなかった。

 ただ、対等な一人の人間として、私の醜さも、弱さも、すべてを包み込むような静かな『強さ』がそこにあった。


「その傘……どうしたの? ネイビーの傘はどうしたのよ。そんな安っぽいビニール傘、どこで手に入れたの。早く帰りましょう。お母さんの言う通りにしていれば、こんなことには……」


 必死に『いつもの自分』を取り戻そうとする私の言葉を、あの子は穏やかに、けれど遮ることを許さない響きで止めた。


「お母さん」


 その一言で、私は自分の滑稽さに気づかされた。

 アリスは、私の喉元に突きつけられた『正解』という名の刃を、その静かな声だけで折り畳んでしまったのだ。


「傘、なくしちゃった。……ごめんね。でも、この傘は私が欲しくて手に入れたものなの。だから、今日はこのまま、自分の足で帰りたい」


 私の手が、あの子の肩から少しだけ浮いた。

 それは、十四年間、私が一度も許さなかった『自立』の瞬間だった。

 寂しさが胸を刺した。

 けれど、あの子の瞳があまりにも真っ直ぐで、私はそれ以上、言葉を重ねることができなかった。


「帰ろう。お母さんのところじゃなくて、私たちの家に。……お話ししたいことが、たくさんあるの」


 アリスが、私を追い越して歩き出す。

 その背中は、もう私の引いた設計図には収まらない。

 けれど、私はその、私には到底描けないほどに美しいあの子の背中を、見失わないように追いかけたいと思った。

 今度は傘で覆い隠すのではなく、あの子と同じ雨上がりを歩く、一人の人間として。


 雲の間から、本当の青空が顔を覗かせた。

 私は、アリスの後を追うように一歩、確かな足取りで踏み出した。


 ネイビーの傘は、もういらない。

 空はどこまでも高く、透明だった。

 アリスが教えてくれたその光の中で、私もまた、自分自身の『止まっていた時間』を、新しく刻み始めていた。



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