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<断章>エピソード L:Lost and Found Ⅰ

 少年には、名前がなかった。

 いや、より正確に記述するならば、彼という存在をこの世界に繋ぎ止めていた『名前』という名の錨が、あの日、降り止まない雨の中に溶け落ちてしまったのだ。


 雨はすべてを平等に塗り潰していた。

 駅のホーム、行き交う傘の群れ、電光掲示板の無機質な光。

 その中で少年は、自分が周囲の景色から浮き上がり、急速に透き通っていくのを感じていた。

 肩がぶつかっても相手は謝りもしない。

 自動改札機に定期券をかざしても反応がなく、自分の家へ帰るバスの運転手は、停留所に立つ彼の姿が見えていないかのように通り過ぎていった。

 彼を構成していた記号――『中学二年生』『出席番号14番』『サッカー部の補欠』『佐藤家の長男』……それらすべてが、雨水に洗われる泥のように、音もなく足元へ流れて消えた。

 自分を呼ぶ声がどこにもない世界で、彼は自分が『何者でもない』という、根源的な恐怖に直面していた。


 気づけば、彼は藍色の霧が重く淀む、巨大な『裁断機』が回る部屋の入り口に立っていた。


 そこは、後にアリスが見ることになる優雅な時計塔の内部とは、似ても似つかぬ凄惨な場所だった。

 見上げるほど高い天井まで、四方の壁を埋め尽くしているのは、無数の巨大な『裁断機』の刃だ。

 真鍮製の鋭利な刃が、規則正しい――そして生理的な嫌悪感を呼び起こすほど冷酷なリズムで、ガシャン、ガシャンと虚空を切り裂き続けている。

 その音は、まるで巨大な怪物が骨を噛み砕く音のようにも聞こえた。


「……また、空っぽな子が来たね。今度は、中身さえ詰め忘れた不良品かな?」


 上空から降ってきたのは、時計職人の声だった。

 だが、その響きはアリスが聞いたものとは異なり、もっと金属的で、冷酷なまでに『合理的』な響きを帯びていた。

 少年の目に見えている『時計職人』は、端然とした和装の男ですらなかった。


 それは、無数の真鍮の歯車が不気味に絡み合い、人間の内臓を剥き出しにしたような醜悪な機械の塊だった。

 その中心には、巨大なカメラのレンズのような『目』が一つあり、少年の存在価値を値踏みするように、じりじりと焦点を合わせている。


「君には名前がない。意志がない。語るべき独自の物語もない。君という存在は、この世界を円滑に回すために必要のない『余白』だ。ならば、ここで永遠に、この塔の時間を滑らかにするための『無地の緩衝材』として、細かく刻まれるのがお似合いだよ」


 少年は、自分の掌を凝視した。

 アリスのそれとは違い、そこには何の刻印もない。

 ただの、血の通わない、透き通るほどに真っ白な皮膚があるだけだ。

 アリスが『母』という具体的な重圧と、その愛情の歪みという難解な数式を解こうとしていたのに対し、彼が対峙しなければならないのは、『自分は、いてもいなくてもいい存在だ』という巨大な、底なしの虚無だった。


「……僕は、部品じゃない。僕は、ここにいる」


 少年は、肺の底に溜まっていた重い泥を吐き出すように、掠れた声で呟いた。

 それは、彼がこれまでの人生で一度も使ったことのない、自分自身を守るための明確な『拒絶』だった。

 彼はこれまで、学校でも家でも、誰かの期待に沿うための『イエス』しか言わなかった。

 波風を立てないこと、平均的であること、透明であること。

 それが彼の生存戦略だったはずなのに。


「おや、壊れた部品が音を立てるのか。実に滑稽だ」


 機械の塊である職人が、ギチギチと歯車を軋ませて笑った。


「ならば、その脆弱な意志とやらを証明してみせろ。この裁断機の中で、君が『自分』という文字を一行でも、この世界に書き込めるかどうかを。……まあ、一文字も書けないうちに、白紙のまま切り刻めるのが関の山だろうがね」


 巨大な歯車が、一気に加速する。

 轟音と共に、少年の足元の床が中心から割れ、彼は奈落へと突き落とされた。


 落下する感覚の中で、少年の意識は深く、暗い過去の底へと沈んでいった。

 かつて彼が、自分の手で殺してきた『自分』たちの記憶。

 小学校の低学年の頃、彼は雨上がりの水たまりに映る空を見るのが好きだった。

 泥だらけになって、世界がいかに歪んでいて、それでいて輝いているかを観察していた。

 けれど、母親が『服が汚れる』と悲しそうな顔をし、教師が『もっと建設的な遊びをしなさい』と指導したとき、彼はその興味を心のゴミ箱に捨てた。


 あるいは、中学一年の合唱コンクール。

 彼は本当は、もっと喉を裂くような大声で歌いたかった。

 けれど、周囲の男子たちが適当に口をパクパクさせているのを見て、自分だけが本気を出すことの気恥ずかしさと『浮くこと』への恐怖に負け、音程を殺した。


 そうした小さな『殺害』の積み重ねが、今の彼の空虚を作っていた。


 彼が激しい衝撃と共に着地した先は、ゴミ溜めだった。

 だが、それはただの廃棄物の山ではない。

 無数の『未完成の自分』が廃棄された、薄暗く湿った、巨大な死体置き場のような空間だった。

 立ち上る匂いは、古い紙が腐ったような酸っぱい臭気と、機械油の重苦しい脂の匂いが混ざり合っている。


「……なんだ、ここ。僕ばっかりだ……。気持ち悪い……」


 少年は吐き気を堪えて立ち上がり、辺りを見渡して絶句した。

 そこには、彼と同じ顔、同じ背格好をした『出来損ないの人形』たちが、山のように積み上げられていた。

 あるものは片腕がなく、あるものは顔の半分が塗り潰され、あるものは胸に大きな風穴が開いたまま、力なく重なり合っている。


 少年は、その山の一つに、ひときわ『自分』に近い泥人形を見つけた。

 それは、十歳の頃の彼だった。

 あの夏、彼は本当はサッカー部ではなく、近所の古いアトリエに通いたかった。

 描きかけの『名前のない怪物』の絵を抱えていたはずのその人形は、今では何を描こうとしたのかさえ判別できないほど、顔を真っ黒な墨汁のような泥で汚されている。


『ねえ、僕を選んでよ。僕は、君が小3の夏、本当は描きたかったのに『下手だから』って捨てた、あの怪物の僕だよ』


『僕を見て。僕は、本当は友達を殴ってでも言いたかった、『ふざけるな』という言葉の僕だよ』


 積み上がった死体たちが、一斉に蠢き始めた。

 ズル、ズル、と不気味な音を立てて山が崩れ、数千、数万の『自分』たちが、泥のような手を伸ばし、少年の足首を掴む。

 それらは自分の一部でありながら、今の彼にとっては、自分を暗い地底へと引きずり込もうとする執念深い亡霊に他ならなかった。


「……離せ。離してくれ! 僕は、僕はもう、お前たちを思い出さないって決めたんだ! 綺麗に、まともに生きるって決めたんだ!」


 少年は必死に足を振るが、死体たちの握力は強く、じわじわと足先から体温を奪っていく。

 足元から伝わる冷たさは、かつて彼が『なかったこと』にした感情の冷気だった。

 視界が暗くなり、自分が再び『何者でもない泥』へと還っていく感覚に襲われる。

 肺が圧迫され、酸素の代わりに過去の埃が入り込んでくる。


「どうした。自分の過去の重さに耐えられないか。君はそうやって、自分の一部を切り捨て続けてきた。その結果、残ったのは空洞だけだ。君自身が、このゴミ溜めの王になるのがお似合いだよ」


 上空から降り注ぐ職人の嘲笑が、頭蓋骨を揺さぶる。

 少年の指先が、絶望に震える。

 その時、指先に硬い感触が触れた。


 折り重なった死体たちの隙間に、鈍い銀色の光を放つ『何か』が、墓標のように刺さっていた。

 それは、一本の、使い古された『鉛筆』だった。


 それは彼が中学の入学祝いに、一度も会ったことのない祖父から郵送されてきたものだった。

 祖父はかつて、この街で名の知れた時計職人だったという。

 けれど、ある日突然『本物の時間はここにはない』と言い残して失踪した。

 その祖父から届いた短い手紙。


『お前はいつも、他人の色で自分を塗りつぶそうとする。だがな、世界を記述できるのは、お前自身の指先だけだ。この鉛筆を削る時、お前は初めて、お前自身の時間を削り出すことになる』


 少年は、泥のような手に抗いながら、爪を剥がさんばかりの勢いで地面を掻き、その鉛筆へと指を伸ばした。

 指先が冷たい木肌に触れた瞬間、指先から電気が走ったような衝撃が全身を抜けた。

 それは、冷酷な機械の熱ではなく、もっと泥臭く、生きている人間が発する『怒り』に近い熱だった。


 少年の心臓の奥で、カチリ、と小さな音がした。

 止まっていた彼の時計が、ようやく動き出したのだ。


 その鉛筆を握りしめた瞬間、少年の掌が、アリスが放ったのと同じ、けれどより青白い、鋭い熱を帯び始めた。


「僕は……。僕は、僕を……もう、二度と捨てない! この鉛筆が折れるまで、僕は僕であり続ける!」


 その決意が、地下の澱んだ空気を切り裂いた。

 鉛筆の芯が、目に見えない『意志』という名の刃となって、彼の足を掴んでいた死体たちの手を切り裂く。

 切られた死体たちは、黒い霧となって消えていった。


 だが、少年の上空では、あの機械の時計職人が、彼の抵抗をあざ笑うように、さらに巨大な『影のハサミ』を、その心臓目掛けて振り下ろそうとしていた。

 ハサミが空気を切り裂く音が、キィィィィンと耳を(つんざ)く。


「無駄なことを。書くべき紙も持たない君が、何を記すというのか。その鉛筆は、(くう)を掻くだけの無意味な棒に過ぎない!」


「紙がないなら、この空気に書いてやる。僕が、ここにいるってことを! お前が決めた役割になんて、一秒もなってやらない!」


 少年は鉛筆を構え、迫りくる巨大な刃を、真っ直ぐに見据えた。

 ハサミの刃が鼻先まで迫り、鉄の匂いが鼻を突いたその瞬間、彼は叫びと共に、鉛筆を振り下ろした。


 少年はまだ知らない。

 この巨大な時計塔の別の階層で、黄金色の砂時計を抱えた一人の少女が、自分と同じように『自分という名の地獄』と戦い始めていることを。

 そして、この鉛筆がいつか、彼女と自分の運命を結ぶ唯一の『線』になるということを。


「……やってみろよ、時計屋。僕は、まだ一文字も書いてないんだ!」


 彼の放った一撃が、虚空に真っ黒な、力強い『拒絶』の線を刻みつけた。

 衝撃波がゴミ溜めを揺らし、天井に微かな亀裂が走る。


 それは、少年という名の物語が、ようやく最初の一ページを開いた瞬間だった。



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