黒鍵実験
俺たちはクラン《ラヴァンド》の敷地内にある実験室へと足を踏み入れた。
薬品の匂いと機械の唸りが混じり合い、空気は乾き、ひやりとした冷たさを孕んでいる。
壁は白で統一され、頭上の観測窓からは研究員たちの影がこちらを見下ろしていた。
出迎えたのは、今となっては懐かしい顔ぶれだ。
「よく来たな。」
ルキウスが白衣を翻し、タブレットを抱えて告げる。
「エレオノーラ先生から話は聞いている。“ソリスト”か……研究者の観点からすれば、その存在一つで論文が幾つも成立する案件だ」
「全く……」
リリアは杖を抱え、冷ややかな声で付け加える。
「あなたたちも大変な思いをしたんだから、こうしてサンプルを持ち帰っただけでも十分価値があるわ」
「いやぁ~でもさ!」
ジェムが短剣を器具に立て掛け、楽しげに声を弾ませる。
「こんなすごい実験に立ち会えるなんて、僕らって実はかなり恵まれてるんじゃない? ブルーノ、そう思わない?」
「観測。高エネルギー反応、臨界値未満。」
ブルーノの巨体が低く呟く。
「幸運……評価困難。だが、実験価値は高い」
ジェムは「ほらね!」と満足げに笑い、場の緊張を少し和らげた。
そう、彼らはかつてクランバトルで俺たちが相対した相手。
だが今は敵ではなく、研究者として協力する仲間だった。
そして――もう一人。
「時間通りだね!」
軽やかな声が響き、小さな影が前に進み出る。
「それじゃあ、実験を始めよう! あのエレオノーラ先生から直々に話が来たときは、びっくりしたよ!」
外見は幼い少女。俺より二回りも小さい体格に、ぶかぶかの制服。
だがその名はミレーユ――クラン《ラヴァンド》の主任にして、この学園でも屈指の研究者だ。
「今回の件に関しては、キミが適任だと思ってね」
エレオナ先生がペンを弄びながら言葉を重ねる。
「この学園でこれを扱えるのは、他ならぬ君しかいない」
「そう言ってもらえて、とってもうれしいな!」
ミレーユはえへへと笑みを浮かべ、ぱちんと懐中時計を鳴らす。
「ルキウス、皆を実験場へ案内してあげて」
「了解しました。――こちらへどうぞ」
ルキウスが歩みを進め、俺たちはついていく。
案内された場所に足を踏み入れると、薬品の匂いが一層濃くなった。
上の観測窓からは複数の研究員が並び、視線を注いでいる。
「さて――説明するね」
ミレーユは懐中時計を掲げ、針をひとつ弾く。チクタク、と可愛い音が響く。
「今回の目的は、このペンダントに宿る残響位相と幻質投影深度を段階的に引き出しながら、幻質粒子密度の変動を観測すること。精神との共鳴パターンを取れば、“舞台”がどこまで自立しようとするかを把握できるはずだよ」
「さらに補足しよう」
エレノア先生が低い声で重ねる。
「《主観干渉値》と《シナプス同調率》を定量化し、残響伝導率との相関を導き出す。
《精神安定指数》が50%を割り込めば、自我侵食プロトコルが作動し、人格上書きが始まる。
その際の挙動を観測し、《侵蝕閾値》を数値化するのが今回の狙いだ」
ルキウスがタブレットを操作しながら、さらに項目を並べ立てる。
「観測対象を整理します。
一、残響位相の変動。
二、幻質投影の進展度。
三、幻質粒子密度の上昇。
四、主観干渉値とシナプス同調率の相関。
五、精神安定指数の推移。
六、残響伝導率の拡張範囲。
七、侵蝕閾値到達時の挙動。
――これらに加えて、《観客残響》の音圧をdB単位で記録すべきです。喝采強度は侵食速度と強い相関を持つ可能性がある。
また、《舞台同調時間》を継続的に計測することで、長期的侵蝕リスクをより正確に推定できるでしょう」
さらに彼は視線を上げ、淡々と提案を続けた。
「なお緊急時の対応手順を明文化しておきます。
観測と指示は私が担当。
ミレーユ主任は《ローズマリー》によって時間を遅くし、被験者への負荷を低減。
リリアは幻覚を用いて思考上書を試みる。
それでも収束しない場合、ジェムが感覚遮断で強制的に意識を落とす。
最悪、暴走に至れば――ブルーノが物理的に拘束する。
……以上のフローで、安全は担保されます」
……正直、聞いているだけで頭が痛くなりそうだった。専門用語と冷静な指揮系統、俺には半分も理解できない。
「つまりね」
ミレーユはえへへと笑い、懐中時計をぱちんと閉じた。
「難しい言葉をいっぱい並べたけど――要するに、このペンダントが“どこまでソリストになりたがるか”を、ちょっとずつ試す実験なんだよ。
難しいことは全部ラヴァンドに任せて。みんなはただ、心をしっかり保つことだけ考えてくれればいいの」
その柔らかい言葉に、張り詰めた空気が少し和らぐ。
だが同時に、これから始まる実験の緊張感も確かに深まっていった。
「準備完了」
リリアが杖を下ろし、結界の安定を告げる。
「観測機器、全系統同期しました!」
ジェムが明るく声を上げる。
「防壁、臨界値正常。稼働安定」
ブルーノが低く呟いた。
ミレーユは小さく頷き、懐中時計を握り直す。
「それじゃあ――実験開始だよ!」
室内の空気が、張り詰めた。