幕間:襲撃
潮の匂いが濃すぎて、吐き気がした。
夜の港は表面だけ穏やかで、実際はうねりを潜ませている。船板の下から聞こえてくるかのような怯えた鼓動。僕には、それが全部聞こえてしまっている気がした。
「鐘が三度だ。……それが合図。」
残渣の声は穏やかだった。どこにでもいる街の男のように柔らかい。だが、耳に届くたび背筋を凍らせる。――僕はもう、その声に逆らえない。
「……わかった。」
声が、思った以上に冷たかった。けれど、それが僕の本音だった。
「ほっほ、鐘など待たずとも獲物はおるわい」
アスファデルは銛を杖に、飄々と笑った。けれどその笑みは、獲物の血を嗅いだ獣のものにしか見えなかった。
「見ろ、小僧。あの船腹の影……分厚い帳簿を抱えとる役人じゃ。あれが目当てよ」
僕は頷いた。孤児たちの行方を記した名簿。あれさえ手に入れれば――救える。救えるんだ。
鐘が一度。
鐘が二度。
鐘が三度。
残渣が指を振る。
「行こうか。」
屋根を蹴り、僕らは夜の港に飛び降りた。
最初に動いたのはアスファデルだった。その義足からは想像できないほどの速度で銛が走り、盾を持つ兵を地面に縫い付ける。
「獲物ォォォッ!」
悲鳴が上がる。逃れようともがくほど拘束は強まり、骨の軋む音が夜に響いた。
「……騒がしいですね」
セラフィエルが一歩進む。仮面のひびの奥から祈るような声が流れ出す。
「ここでは嘘は要りません。――あなたは、何を恐れている?」
「ひ、ひぃ……! 俺は死にたくない! 妻に会いたいんだ……!」
兵士の目から涙があふれ、槍が手から落ちる。周りの兵も顔を見合わせ、恐怖に足を止めた。
僕はその隙を逃さなかった。剣を振り抜き、胸を裂いた。温い血が飛び散り、僕の頬を汚す。
……一人殺した。次も殺す。それでいい。
「よくやったね、カイル」
残渣の声が背に届く。柔らかいのに、拒めない。
「君の望みはまだ温かい。その温度を、刃にしよう。」
僕は答えなかった。ただ、前を睨んだ。
帳簿を抱えた役人が逃げ出す。
「待て!」
僕は駆け、剣を振るった。袋ごと帳簿が宙に舞い、地面に落ちる。役人は転んで悲鳴を上げた。
「……名簿だ!」
拾い上げた指に紙の感触が伝わった瞬間、胸の奥がざわめいた。これで孤児たちの行方がわかる。救える。
だが同時に、奪った命の重みが腕を沈める。
「小僧、ぼやぼやするな! 犬どもが来るぞ!」
アスファデルが叫んだ。港の奥から甲冑の音。新手の兵たちが殺到してくる。
「数が増えすぎますね……」
セラフィエルの声は落ち着いていたが、仮面の奥の光が揺れた。
「告解を聞く暇もないほどに。」
「撤退しよう」
残渣が淡々と告げる。
「君たちなら押し切れる。でも、追いすがられるのは面倒だろう? いかに強者でも、余計な鎖は煩わしい。」
僕は名簿を抱きしめ、頷いた。確かにそうだ。勝てる。けれど勝った先に何が残る? 敵を全部潰しても、また別の敵が寄ってくるだけだ。
「了解。……なら僕が道を切り開く」
言い切って前に出る。剣を振るい、兵の盾を弾き飛ばした。返り血が頬を熱く濡らす。
「邪魔だ……どけッ!」
兵たちが押し返す前に、アスファデルの銛が唸りを上げ、三人をまとめて壁に縫い付ける。狂笑が夜を裂いた。
「ふ、ふふふ……よい狩りだ!」
その背を振り返らず、僕は名簿を抱えたまま駆け抜けた。
港の出口に飛び出し、裏路地へ。残渣が最後尾で軽く指を振ると、追ってきた兵士たちの足が止まった。
「今日はここまで。追うのは賢くないと、彼らも悟ったようだね。」
僕は名簿を見下ろした。血の匂いと潮の匂いが混ざって、吐き気がまたこみ上げた。
それでも、この手から離す気はなかった。
「……僕が救う。復讐に呑まれた僕でも、これだけは間違えない。」
そう呟いた声は震えていた。けれど、その震えも、望みを繋ぎ止める証のように思えた。




