幕間:月光の告解
廃聖堂は夜の底に沈んでいた。砕けたステンドの欠片が月光を拾い、粉雪のような輝きが床を流れる。白い花弁の残像が風にほどけ、息を吸うたびに喉の奥が冷たくなる。
僕は瓦礫に腰を下ろし、黒ずんだ剣の柄に指をかけた。刃のひびに、かつての温もりが吸い込まれていく気がして、思わず掌を閉じる。
「……あぁ、アスファデルか。僕に何か用かい?」
「用? ほっほ、用とな。わしは風だよ、小僧。海から獲物の匂いを運んでくるだけのな」
銛を杖に、老人は飄々と笑った。笑いの端は穏やかなのに、どこか刃の音が混じる。
「――で、どうだ。あやつらの名を口にせずに、今夜は眠れそうか?」
「……僕は、みんなを救いたい。けれど彼だけは、どうしても許せない」
「そうよ、それでええ」
アスファデルは義足の銛で床を軽く突き、木の響きを楽しむ子供のように目を細めた。
「救うために穿つ。穿つために生きる。わしの銛はもう逃がさん。海の怪物でもなぁ……ふ、ふふふ」
「静かに」
祈りの気配が、崩れた祭壇から満ちてくる。黒衣の神父――セラフィエルが鎖の数珠を両手で包み、白い仮面のひびの奥から淡い光をこぼした。
「ここでは嘘は要りません。怒りも、憐れみも、どちらもあなたです。……差し出して」
僕は息を詰め、言葉が喉を滑っていくのを止められなかった。
「僕は、僕の大事なものを奪った人を裁きたい。裁いて……それでも、誰かを救いたいままでいたい」
「うむ、よい声ですね。」
セラフィエルは頷き、数珠をひとつ滑らせる。鎖が擦れる音が、懺悔室の戸を閉じるみたいに静かに響いた。
「……いいね」
柔らかな街の男の声が、廃聖堂の入り口から差し込んだ。白い花弁がまたひと渦、月光に舞い上がる。
「今日は確認に来ただけだ。火は消えていないかい?」
残渣が歩み寄る。痩せた影に淡い後光が揺れ、微笑は穏やかだが視線は逃げ場を与えない。
「俺は君たちの望みを聞きに来た。整えて、前に進めるためにね」
残渣は僕の前に腰を落とし、視線の高さを合わせる。
「カイル、君は救いたい。けれど、彼は許せない。――なら順番を決めよう。まず倒す。それから救う。できるだけ多く、可能な限り優しく。君のやり方で」
「そんな都合のいい……」
「都合は、望みの形に合わせて切り分ければいい。大きな布でも、賢く裁てば誰かを包める」
言葉は優しく、しかし拒絶の余白は与えない。
「残渣よ」
アスファデルが口角を吊り上げ、銛を弄ぶ。
「わしの番はどうする? 白蓮は沈んだ。ならば――奪った小僧を穿てばいい。そう教えただろう?」
「君の望みは穿つこと。逃がさないこと。だから“標”が必要だ」
残渣は指で空中に小さな円を描く。
「ザミエル...彼を常に追跡できるようにね。」
「ふ、ふはは……面白ぇ」
笑いは乾き、刃先のように細くなる。
「どこを穿てば一番血が噴くか、それを探せと言うのだな。良いぞ、良いぞ……狩りは道具よりも、嗅ぎ分けが命よ」
「あなたも」
セラフィエルが静かに言う。仮面のひびの奥、光が一度だけ瞬く。
「憎しみで満たしたまま撃てば、穴は広がり続けます。けれど悔恨で狙えば、傷は“縫える”形に落ち着く。……あなたが本当に欲しいのは、空いた穴の周りに残る、耐えうる縫い目ではありませんか」
アスファデルは言葉を失い、短く笑った。
「神父サマよ、器用に縫う指だな」
「私は針ではなく、耳です」
セラフィエルは数珠を握り直す。
「穴が開いている場所へ、あなたの声を通すだけ」
残渣は軽く手を叩いた。
「いい調子だ。目標は二つ。“明日、港で動く補給船団の護衛を奪うこと”。“その混乱で、必要な名簿を手に入れること”。どちらも、次の一手を置くための準備だ。暴れるのは簡単だけど、暴れるだけでは近づけない」
「名簿……?」
僕は顔を上げる。
「行き先だよ。人の。白蓮で家を失った者たちがどこへ流されたのか。君の“救い”の順番を決めるために必要だろう?」
残渣は微笑を深くし、囁くように続ける。
「孤独じゃないよ。俺が傍にいる。君が望む限り、順番は減らない。けれど、選べる」
僕は剣の柄から手を離し、膝に置いた。
「……わかった。やるよ」
「小僧、港は匂いが多い。血、酒、錆、潮。鼻が狂うぞ」
アスファデルが肩を回し、銛の石突で床を二度、軽く叩く。
「わしは先に行って見張る。“標”は任せろ。逃がさん」
「ありがとう、アスファデル。」
僕が微笑むと、老人は子供のように鼻を鳴らした。
「カイルよ。」
セラフィエルが僕の前に立つ。鎖の輪をほどき、掌の上でそっと重ねる。
「あなたの言葉を、もう一度。――誰を、どう救うのか」
喉が自然に開く。セラフィエルの声は、扉の蝶番に油を差すみたいに滑らかだった。
「……まず、遠くへ連れ去られた子供たち。次に、港で働かされている人たち。最後に、僕の……彼らを討つことを邪魔する者を止める」
「よい順番です」
セラフィエルは満足げに息を吐く。
「悔いは後ろから追いかける。けれど順番が前を向かせる。……では、告解はここまで」
「準備に戻ろう」
残渣が立ち上がる。白い花弁が肩から零れ、足跡だけが月光に濡れる。
「港の鐘が三度鳴ったら集合。俺は名簿の鍵を用意する。君たちは通り道を作ってね。」
「了解」
僕は頷く。
「ほっほ、三度か。なら一度目の前で酒を断ち、二度目に匂いを嗅ぎ、三度目に獲物の背を取る。よし、決まりだ」
アスファデルは愉快そうに笑い、踵を返した。足取りは軽く、しかし床に落ちる影は獣のそれだった。
四人がそれぞれの出口へ散る前、残渣がふと振り返る。柔らかな声で、だが逃げ道を塞ぐ確かさで言った。
「カイル。君が“優しいまま”でいられるように段取りをする。だから、迷ったら俺を呼んで。――君の望みの形に、道を合わせる」
僕は短く息を吸い、頷いた。
「……あぁ。頼むよ」
白い花弁がひとひら、瓦礫の上で凪いだ。