表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

96/122

幕間:月光の告解

廃聖堂は夜の底に沈んでいた。砕けたステンドの欠片が月光を拾い、粉雪のような輝きが床を流れる。白い花弁の残像が風にほどけ、息を吸うたびに喉の奥が冷たくなる。


僕は瓦礫に腰を下ろし、黒ずんだ剣の柄に指をかけた。刃のひびに、かつての温もりが吸い込まれていく気がして、思わず掌を閉じる。


「……あぁ、アスファデルか。僕に何か用かい?」


「用? ほっほ、用とな。わしは風だよ、小僧。海から獲物の匂いを運んでくるだけのな」


 銛を杖に、老人は飄々と笑った。笑いの端は穏やかなのに、どこか刃の音が混じる。


「――で、どうだ。あやつらの名を口にせずに、今夜は眠れそうか?」


「……僕は、みんなを救いたい。けれど彼だけは、どうしても許せない」


「そうよ、それでええ」


 アスファデルは義足の銛で床を軽く突き、木の響きを楽しむ子供のように目を細めた。


「救うために穿つ。穿つために生きる。わしの銛はもう逃がさん。海の怪物でもなぁ……ふ、ふふふ」


「静かに」


 祈りの気配が、崩れた祭壇から満ちてくる。黒衣の神父――セラフィエルが鎖の数珠を両手で包み、白い仮面のひびの奥から淡い光をこぼした。


「ここでは嘘は要りません。怒りも、憐れみも、どちらもあなたです。……差し出して」


 僕は息を詰め、言葉が喉を滑っていくのを止められなかった。


「僕は、僕の大事なものを奪った人を裁きたい。裁いて……それでも、誰かを救いたいままでいたい」


「うむ、よい声ですね。」


 セラフィエルは頷き、数珠をひとつ滑らせる。鎖が擦れる音が、懺悔室の戸を閉じるみたいに静かに響いた。


「……いいね」


 柔らかな街の男の声が、廃聖堂の入り口から差し込んだ。白い花弁がまたひと渦、月光に舞い上がる。


「今日は確認に来ただけだ。火は消えていないかい?」


 残渣が歩み寄る。痩せた影に淡い後光が揺れ、微笑は穏やかだが視線は逃げ場を与えない。


「俺は君たちの望みを聞きに来た。整えて、前に進めるためにね」

 残渣は僕の前に腰を落とし、視線の高さを合わせる。


「カイル、君は救いたい。けれど、彼は許せない。――なら順番を決めよう。まず倒す。それから救う。できるだけ多く、可能な限り優しく。君のやり方で」


「そんな都合のいい……」


「都合は、望みの形に合わせて切り分ければいい。大きな布でも、賢く裁てば誰かを包める」


 言葉は優しく、しかし拒絶の余白は与えない。


「残渣よ」


 アスファデルが口角を吊り上げ、銛を弄ぶ。


「わしの番はどうする? 白蓮は沈んだ。ならば――奪った小僧を穿てばいい。そう教えただろう?」


「君の望みは穿つこと。逃がさないこと。だから“標”が必要だ」


 残渣は指で空中に小さな円を描く。


「ザミエル...彼を常に追跡できるようにね。」


「ふ、ふはは……面白ぇ」


 笑いは乾き、刃先のように細くなる。


「どこを穿てば一番血が噴くか、それを探せと言うのだな。良いぞ、良いぞ……狩りは道具よりも、嗅ぎ分けが命よ」


「あなたも」


 セラフィエルが静かに言う。仮面のひびの奥、光が一度だけ瞬く。


「憎しみで満たしたまま撃てば、穴は広がり続けます。けれど悔恨で狙えば、傷は“縫える”形に落ち着く。……あなたが本当に欲しいのは、空いた穴の周りに残る、耐えうる縫い目ではありませんか」


アスファデルは言葉を失い、短く笑った。


「神父サマよ、器用に縫う指だな」

 

「私は針ではなく、耳です」


 セラフィエルは数珠を握り直す。


「穴が開いている場所へ、あなたの声を通すだけ」


 残渣は軽く手を叩いた。


「いい調子だ。目標は二つ。“明日、港で動く補給船団の護衛を奪うこと”。“その混乱で、必要な名簿を手に入れること”。どちらも、次の一手を置くための準備だ。暴れるのは簡単だけど、暴れるだけでは近づけない」


「名簿……?」


 僕は顔を上げる。


「行き先だよ。人の。白蓮で家を失った者たちがどこへ流されたのか。君の“救い”の順番を決めるために必要だろう?」


 残渣は微笑を深くし、囁くように続ける。


「孤独じゃないよ。俺が傍にいる。君が望む限り、順番は減らない。けれど、選べる」


 僕は剣の柄から手を離し、膝に置いた。


「……わかった。やるよ」


「小僧、港は匂いが多い。血、酒、錆、潮。鼻が狂うぞ」


 アスファデルが肩を回し、銛の石突で床を二度、軽く叩く。


「わしは先に行って見張る。“標”は任せろ。逃がさん」


「ありがとう、アスファデル。」


 僕が微笑むと、老人は子供のように鼻を鳴らした。


「カイルよ。」


 セラフィエルが僕の前に立つ。鎖の輪をほどき、掌の上でそっと重ねる。


「あなたの言葉を、もう一度。――誰を、どう救うのか」


 喉が自然に開く。セラフィエルの声は、扉の蝶番に油を差すみたいに滑らかだった。


「……まず、遠くへ連れ去られた子供たち。次に、港で働かされている人たち。最後に、僕の……彼らを討つことを邪魔する者を止める」


「よい順番です」


 セラフィエルは満足げに息を吐く。


「悔いは後ろから追いかける。けれど順番が前を向かせる。……では、告解はここまで」


「準備に戻ろう」


 残渣が立ち上がる。白い花弁が肩から零れ、足跡だけが月光に濡れる。


「港の鐘が三度鳴ったら集合。俺は名簿の鍵を用意する。君たちは通り道を作ってね。」


「了解」


 僕は頷く。


「ほっほ、三度か。なら一度目の前で酒を断ち、二度目に匂いを嗅ぎ、三度目に獲物の背を取る。よし、決まりだ」


 アスファデルは愉快そうに笑い、踵を返した。足取りは軽く、しかし床に落ちる影は獣のそれだった。


 四人がそれぞれの出口へ散る前、残渣がふと振り返る。柔らかな声で、だが逃げ道を塞ぐ確かさで言った。


「カイル。君が“優しいまま”でいられるように段取りをする。だから、迷ったら俺を呼んで。――君の望みの形に、道を合わせる」


 僕は短く息を吸い、頷いた。


「……あぁ。頼むよ」


 白い花弁がひとひら、瓦礫の上で凪いだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ