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即興曲

 一音。

 ソリストの指が鍵盤を叩いた瞬間、劇場全体が殴りつけられたように軋んだ。空気が裂け、舞台の骨が悲鳴をあげる。耳に届くのは――旋律ではない。ただ、衝撃。打撃。音そのものが拳になったみたいに、世界を滅茶苦茶に叩きつけてくる。


 狂詩曲には、まだ激情の“理”がかすかに残っていた。拾える断片を繋げば、一拍ぶんだけ生き延びられた。だが、この即興には何もない。拍も和もない。


鍵盤が乱打されるたび、床が爆ぜ、壁が折れ、天井の梁が弾丸のように飛ぶ。音は刃。音は槌。音は重機。理解するより先に、俺たちを粉砕しにくる。

「来るぞ!」

 オーウェンが吠え、正面の圧力に拳を叩き込む。衝撃と衝撃が正面衝突し、衝突点が白く弾けた。砕けた残響が、遅れて背中を裂く。彼は歯を剥き、血で濡れた肩を振り払った。

「止まらないなら――叩き返すだけだ!」

 もう一撃。拳に骨ごとの重さを乗せ、無茶とわかっていても真正面から打ち消す。理屈が通じないなら、力で通すしかない。


荒っぽそうに見えて、その足は半歩引き、踏み込みの角度を微調整していた。猪突猛進じゃない。考えながら殴っている。だから、まだ立っていられる。


「……テンポもリズムもない。冗談、きついですねぇ」

 オスカーが薄笑いを浮かべ、ナイフを弾く。刃が空に描く細い線へ、彼の体が吸い込まれる。


転移。次の足場へ降りた瞬間、その床が爆ぜた。膝から崩れかけ、すぐさま次の刃を投げて再転移。着地と爆裂が追いかけっこしている。


「舞台装置が全部、殺意。……一歩遅れれば、僕の幕が下りますよ?」

 軽口。けれど額の汗は隠せない。息が浅い。目が速い。自分の死角を、笑いと手数で誤魔化している。


 轟きの中心――ピアノの前に、顔のない影の奏者。燕尾服のシルエットだけが揺れている。叩く。叩く。叩く。指は鍵盤の上で拳骨みたいに落ち、打音の塊が波となって押し寄せる。あれが本体であり、武器であり、舞台の心臓だ。破壊不能。止める術は、まだない。


 観客席の影がざわめく。誰もいないのに、満席の気配だけがある。見えない観客が、無言でこちらを値踏みする。喝采はない。拍手もない。ただ、期待と無関心の中間の、冷たい気配。演奏は続けろ。倒れても続けろ。そう命じる空気が、背骨を冷やす。


「――観客よォ!」

 アレクセイが、舞台の前へ一歩。大仰に腕を広げ、胸を張った。

「ご覧あれ! 楽譜は焼け、譜面台は粉砕! けれど舞台は生きている! 我ら役者の足が、いま確かに踏み鳴らすッ!」


 彼の指先から、カードが散る。舞台袖から役者が出るみたいに、分身が次々飛び出しては、乱打の奔流にぶつかって砕けた。蜃気楼みたいな命。砕けるたびに、刹那のすき間が生まれる。


「幕はまだ降ろさせん! お客様――目を逸らすな! ここで退場するのは、ワタクシではないッ!」


 笑っている。声は澄んでいる。だが、喉の奥の呼吸は焼けている。肩がかすかに上下している。それすら芝居の一部に変え、彼は背を見せた。立ち姿が一本の支柱みたいに舞台を支えている。俺はその背中を見て、柄を握り直す。折れそうな心に、一本、芯が通る。


「ヴァレリス、右!」

 俺が叫ぶより早く、彼女は炎剣を振り抜いていた。噴き上がる火流が打音の塊に噛みつく。爆ぜる。押し返す。だが、次の乱打が横から叩く。守った背を、別の角度から穿たれる。呻きが漏れ、それでも彼女は剣を構え直した。

「押し返せない? なら――焼き切るまでやるだけよ!」


 俺は木刀で斜めから入る衝撃をはじく。刃ではない。木だ。理屈のうえで勝てる相手じゃない。でも、この手に馴染む重さを握っていると、呼吸のリズムが戻る。斬らない。打つ。受ける。音の拳を、柄の芯で受け返し、ずらし、逃がす。ほんのわずかな角度差で、生と退場が分かれた。


「……大丈夫、まだ繋げる~。」

 ヴァインの鎖が延び、目に見えない拳を絡め取った。吸う。衝撃のベクトルを、彼女の鎖が飲み、薄め、逸らす。母親が子どもの熱を代わりにもらうみたいに。


「私が受ける~...。」

「助かる!」

 俺が短く返す間にも、鎖の先で圧が跳ねた。逆流。鎖を伝って、反動がヴァインの臓腑を揺らす。彼女の顔が、青くなる。


「……これは、胃に直接くるね~...。」

 それでも微笑む。震えた呼吸を、優しさで覆い隠す。


「ペイル、裂け目を!」

 アレクセイが振り向かずに指示を飛ばす。

「……了解」


 ペイルは額に汗を浮かべながら、空間に細い穴を穿つ。針のような点が連なって、即席の“休止符”を作る。そこだけ、音の拳が足をもつれさせる。ほんの半呼吸ぶん、舞台に静止が生まれる。


「今ッ!」

 オスカーがそこへ転移し、落ちる梁を蹴り飛ばす。オーウェンが拳で粉砕し、ヴァレリスの炎が燃え残りを焼く。俺は木刀で飛び石みたいに衝撃の顔を叩き、進行方向を逸らす。アレクセイの分身がすき間を埋めて客席へ飛び散り、粉となって消えた。


 つながった。確かに、今だけはつながった――そう思った瞬間、ピアノがもう一度殴りつける。拍も予兆もない、理不尽な乱打。前のすべてを無にする、上塗りの暴力。

「ッ――!」

 ペイルの足元が、唐突に抜けた。床の板がめくれあがり、そこから黒い空洞が立ち上がる。音の拳が逆さに落ちてきて、彼の胸を押しつぶす。


「止まれ、止まってくれよ……!」

 必死に裂け目を開く。裂け目が十、百と並び、即席の足場を作る。だが今回は、止まらない。穴ごと押し潰され、針の道が紙みたいに破れる。


「僕だって――役に立ちたかったのに……!」

 掠れた声。次の瞬間、ペイルの輪郭が脆くほぐれ、光の欠片になって舞台から掻き消えた。落ちたわけじゃない。壊れた舞台の“外”に、そっと退けられた感じ。だが、今はもう届かない。


「ペイル!」

 ヴァレリスの叫びが、爆音に千切られる。炎が荒く立ち上がる。激情の火は強い。けれど、無秩序な乱打はもっと強い。火は撫でつけられ、逆立ち、煙になって散る。


「クソッ!」

 オーウェンの拳が、ピアノの方向へ一直線。近づくほど圧は濃く、音の拳は重くなる。殴って、削って、削ったぶんだけ傷をもらう。肩、腕、拳。血がにじむ。彼は笑った。

「上等だ……まだ立てる!」


「オスカー!」

 俺が呼ぶと、彼は肩越しに笑い、二本同時にナイフを投げた。転移の軌跡がクロスして、俺たちの位置関係を一瞬で入れ替える。俺は空中の足場を踏むみたいに、打音の腹を木刀で滑り、ヴァレリスの前に出た。炎と木刀の交差。爆ぜる音の皮がめくれ、かすかな隙間ができる。


「観客よォ――!」

 アレクセイがさらに声を張る。舞台の残骸を踏み台に、燕尾服の影へ半歩詰める。

「お客様、どうか見届けてくれ! 命乞いではない、命の演技であるッ! ――さあ、喝采は不要、ただ目を逸らすな!」


 彼の分身が縦横に走り、次の乱打を受けて砕ける。その散り方すら様式美にして、彼は“舞台”を保つ。崩壊する空間の上に、たぶん、俺たちの足場は彼が作っているのだ。大仰な台詞の裏で、ちゃんと仲間の位置と呼吸を見ている。道化、と自称しながら、まるで座長のようだった。

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