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夜想曲

 一音。

 蘇ったばかりの光景が、一滴の墨で壊された絵のように闇へ沈んだ。シャンデリアの炎が順に消え、赤い緞帳は黒い布へと変わる。客席の金縁は影の輪郭に溶け、視界はただ、音の起伏だけを残した。


 ――第二楽章『夜想曲ノクターン』。


 床がわずかに斜めに滑った、気がした。次の瞬間、足裏は確かに舞台板を踏んでいるのに、身体は別の場所へ押し出されたような錯覚に攫われる。視界の奥行きが入れ替わる。観客席の列は波のように湾曲し、舞台の奥行きは気まぐれに伸び縮みする。位置転移――そう思わせたいだけの、音の歪曲。


 音もなく“敵”が現れる。顔のない黒い影。人の形に切り抜かれた闇が、漆黒の剣を握っていた。

 踏み込み。横腹へ届くはずの一太刀。俺は木刀を内から外へ軽く払って軌道を滑らせ、身を沈めて抜ける。床板が裂け、闇の中を鋭い残響が走った。


 ――この剣筋。真正面からの力の載せ方。ヴァレリスの斬り口だ。


 右から、ナイフの閃き。床に“点”を打つように刺さった刃の直上へ、黒影がすっと移る。間合いは半歩詰め、上体はわずかに左へ傾く。

 オスカーの転移。刃の角度まで、見覚えがありすぎる。


 背後。鎖の節が床を擦り、足首に絡みつこうとする。巻き付く重さ。その瞬間にだけ体温が奪われる嫌な感覚が、皮膚の裏にじわりと沁み込んだ。

 ヴァインの鎖――吸われる。反射で足を跳ね上げ、鎖を木刀の腹で叩いて滑らせる。鎖はぬるりと退き、すぐにまた床を這った。


 頭上から鉄の羽根。表面が空気を裂く音色で、足元の退路を釘付けにする。直線ではなく、僅かに弧を描く庇う軌道。

 アラエル。仲間を守るときの癖が、そのまま線に残っている。


 床に黒い裂け目が走る。深さも温度もないのに、視線だけを呑み込む切れ目。足を落とせば、そのまま舞台の裏へ吸われるように見える。

 ペイルの鎌。線が細く、だが確実に効く。


 奥から乾いた銃声。弾道は拍を“予約”したように、今ではなく次の瞬間の俺の位置に現れる。

ザミエルの射撃だ。正確すぎて、先に手を出すとこちらが間違える。


 ――姿はすべて黒い影。けれど、動きは仲間のものだ。


 「コピーか?」

 心のどこかが、まずそう処理する。敵のヴェルディアが俺たちを模して影を出している。理屈は立つ。

 だから最初は、そうとして戦う。


 俺は“敵”を敵として捌いた。

 ヴァレリスの剣筋に合わせて木刀の角度を二度変え、刃の載りを空転させる。

オスカーの転移は刃の“点”を早めに潰し、出鼻を挫く。

ヴァインの鎖は足裏の圧で転がして、絡みの輪を小さく切る。

アラエルの羽は踏まず、羽根の“陰”を跨いで前へ出る。

ペイルの裂け目は線の頭を叩いて浅くし、ザミエルの弾道は拍を半拍ずらして空供にする。


 応戦はできる。数合、いや十数拍は凌げる。

 けれど、胸の奥に棘のような違和感が残る。

 ――似すぎている。


 真似なら、欠けるところがある。角が立つ。塗り重ねた色の下から、素地が見える。

 なのに、見えない。


 オスカーの“投げ”。刃を離す直前、わずかに手首を内側へ入れる癖。模倣者は角度を真似るが、手首の“ため”までは拾えない。なのに、この影はそれをやる。


 ヴァインの鎖。節のひとつが他より重く、引くときにだけ「ん」と小さく踊る癖。俺しか知らないはずの手触りが、足首にぞわりと蘇る。


 アラエルの羽根。狙いが厳密な直線を避け、味方の背を舐めるように回り込む保護の癖。敵の真似ごとが、仲間の安全まで配慮するか?


 「……完璧すぎる。」

 息が乱れ、汗が目尻を刺す。

 と思ったところへ、拳。真正面から叩き潰す一撃が落ちてくる。


 合わせない。

 俺は横へ飛び、拳風を頬で受け流す。床が砕け、舞台板がはねる。踏み込みの重さ、上体の倒し方、握り拳の親指の隠し方――オーウェン。

 身体が反射で名前を出す。

 影は、オーウェンの拳だった。完璧な、本人の拳。


 不意に視界がにじんだ。いや、舞台の奥行きがまた入れ替わっただけだ。音の波が空間を曲げる。足場は変わらないのに、距離感だけが更新される。

 コピーだと思って戦う俺の脳に、次の“違和感”が重なる。


 ――呼吸。


 ヴァレリスの影が斬る前に、ほんの刹那、肩甲骨の間で息が硬くなる。炎を走らせるときの、あの癖。


 ザミエルの影は引き金に触れる直前、足の指を開いて床を噛む。銃を“据える”ときの微細な前置き。


 ペイルの影は裂け目を走らせる寸前、鎌を視界から外す。自分の刃を見ない。見てしまうと怖くなるのを知っているから。


 アラエルの影は舞台の風を読むように、首筋の髪をわずかに震わせる。羽根の群れを飛ばす前触れ。


その時、俺は違和感を覚えた...。

模倣が、ここまで“内側”を写せるか?


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