炭の亡霊
……熱い。
それだけだった。
焼けた皮膚が崩れていく感覚。骨も筋肉も炭に変わって、呼吸はとっくに途絶えているはずなのに、胸の奥だけがまだ燃えていた。
立ち上がろうとしても、もう足は動かない。剣も握れない。それでも――奪われたものだけは、消えずに残っている。
ヴィクター。
フィオナ。
父のように、姉のように、僕を導いてくれた人たち。
その二人が、無惨に倒れていた光景が、瞼の裏に焼き付いて消えない。
「……返せ……」
声にならない声が漏れた。焼け潰れた喉からは、空気しか出てこない。
それでも、心の奥で叫んでいた。返せ。僕の大切を。僕の居場所を。
そのとき――。
「……ならば、まだ終わってはいないよ。」
風に混じるような柔らかな声が、耳の奥へ落ちてきた。
月明かりに照らされた視界の隅で、誰かの影が揺らめく。
振り返ることもできないはずの僕の眼差しの前に、すでに男は立っていた。
痩せた体を長い外套で覆い、背には淡く揺れる光環。
その光から散る白い花弁が、夜気に舞っては消えていく。
「……誰だ……」
喉は焼けて声にならなかった。それでも、言葉にならない呻きを拾ったのか、男は笑みを崩さぬまま歩み寄ってくる。
「君は大切なものを奪われた。恩師を。姉を。……だから返してほしいと思っている。そうだろう?」
胸が揺れる。
心の奥を覗かれたようで、息が詰まる。
けれど否定はできなかった。僕は確かに、返してほしかった。
「……ああ……返してほしいんだ……」
かすれた声が、ようやく空気を震わせた。
その瞬間、男は静かに頷いた。
「ならば、返してあげよう。君の中に、彼らを」
差し伸べられた手から、白と黒の入り混じる霧が流れ出す。
それはやさしい風のようで、同時に腐蝕する毒のようでもあった。
崩れかけた僕の体に吸い込まれ、骨の隙間を埋め、焦げた皮膚を裏側から縫い合わせていく。
「……ぐ、あああ……ッ!」
声が勝手に溢れた。
背骨に黒薔薇が絡みつく。腕には茨のような感触が巻きつき、焼け落ちたはずの皮膚から白い棘が芽吹いて突き破る。
炭のようになった肉体は、もはや人ではなかった。
「見えるかい?」
男が囁く。
「君の望みが、形を得ていく。恩師の力も、姉の力も、君の中に戻ってきているんだよ」
瞼の裏に、ふたりの姿が浮かぶ。
ヴィクターの落ち着いた声。フィオナの冷たくも優しい視線。
そのすべてが幻だと分かっていながら――心は縋りつかずにいられなかった。
「ヴィクター……フィオナ……僕は……」
「ええ、まだ終わりじゃない。君が立つ限り、彼らはここにいる。……そして、君には復讐が残っている」
男の声音は穏やかだった。
だが、その穏やかさは僕の心に鋭い杭のように刺さる。
「リオール……ヴァレリス...。」
名を呟いた。胸の奥に熱が走る。
「……君たちだけは……許さない……」
握った手に、重みが戻ってきた。
そこに現れたのはヒマワリの剣。
かつて黄金に輝いていたはずの刃は、黒に煤け、光ではなく怨嗟の残光を撒き散らしている。
背には黒薔薇の棘が絡み、片腕にはアイビーの鎖剣が融合していた。
守るための象徴だった剣は、今や奪うための呪具に変わっている。
「……どうして……」
問いかけるように呟いた僕に、男はただ柔らかく答えた。
「それが君の望みだからさ。奪われたなら、奪い返す。君の剣はそのためにある」
白い花弁が夜風に散り、男の姿は霞のように揺らめいた。
だがその微笑みは最後まで崩れなかった。
「安心していい。君は孤独じゃない。……俺が傍にいる」
その言葉と共に、僕の足が動いた。
炭と化した肉体が、怨嗟を燃料にして再び立ち上がる。
心臓の鼓動は黒い脈動となり、全身を震わせる。
僕は亡霊になった。
だが、それで構わない。
構わない……そう思えた瞬間、僕はもう、完全に彼の導きに飲み込まれていた。




