戦いの果て
俺は走る。
彼も走る。
互いの距離が閉じていく。
それは終わりの距離だ。
終わらせるための距離だ。
刃が上から来る。
俺は木刀を斜めに上げ、刃の腹を滑らせ、肩で受け、腰で逃がす。
刃が横から来る。
俺は膝を折り、背を丸め、髪が燃える匂いを嗅ぎながら潜る。
刃が下から来る。
俺は飛ぶ。
足が床を離れ、重力が一瞬だけ消える。
空中で木刀を返し、柄頭を落とす。
彼の鎖骨に当たる。
骨が呻く。
それでも、彼は止まらない。
「ッ……まだ……!」
ヴァレリスの息が限界に近い。
肺が鳴り、声が掠れる。
それでも彼女は刃を振る。
炎が細く、鋭く、刺すように走る。
それが、光の皮膜に弾かれ、散る。
光輪がまた、静かに広がる。
――間に合わない。
このままでは、間に合わない。
「カイル。」
俺は、できるだけ静かに呼んだ。
「それでも、俺はお前を止める。」
彼は答えない。
答えの代わりに、刃が来る。
俺は受ける。
二度、三度。
腕が痺れる。
握りが緩む。
木刀が悲鳴を上げ、芯まで割れそうだ。
それでも、握る。
握り続けることが、今の俺にできる唯一の約束だ。
「ヴァレリス、最後だ」
「――ええ」
彼女が火を吸い、白を吐く。
広間の空気が燃料になっていく。
床の粉塵が一瞬で空に消え、空気が薄くなる。
息がつらい。
それでも、前へ。
合図は要らない。
俺たちは、もう同じ景色を見ている。
同じ終わりを、同じ場所に描いている。
同時に、踏み込む。
俺は上へ。
ヴァレリスは下へ。
カイルはまっすぐ。
三つの線が交わる。
交点が、白に弾ける。
――そして、音が消えた。
光の洪水。
時間が伸び、空間が遅れ、思考が追い越し、肉体が遅れる。
白の中で、俺は木刀を握っている。
握っているはずだ。
握りの感触が、薄く遠い。
それでも、握っている。
耳に、遅れた音が戻ってくる。
爆音。破砕。悲鳴。
誰の悲鳴か、分からない。
俺か、ヴァレリスか、外の誰かか。
白が薄れる。
世界が戻ってくる。
最初に戻ったのは痛みだ。
次に、熱。
次に、倒壊の音。
そして最後に、視界。
視界に入ったのは、膝をついたカイルだった。
直剣は手の中にある。
だが、刃はもう光っていない。
鈍い金属の色に戻り、ところどころが黒く焦げて、ひび割れている。
彼の掌は裂け、血が滴っている。
背の光輪は、まだある。
だが、うすい。
花弁が透け、向こうの崩れた壁が見えるほどに。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
カイルが息をする。
それだけで、胸が締め付けられる。
痛い。
彼の息が痛い。
彼の呼吸が、俺の肋骨の内側を殴る。
その感覚が、滑稽なくらいはっきりあった。
「リオール……」
呼ばれた。
俺は頷く。
頷く以外に、何をすればいいか分からない。
彼の目に、やっと、俺以外のものが映った。
崩れた天井。
割れた床。
焼け焦げた壁。
そして、床に並ぶ二つの影。
「ヴィクター……フィオナ……起きてよ……」
膝から崩れ、手を伸ばし、触れる。
触れた指先が震え、血と灰とで汚れる。
彼は目をぎゅっと瞑り、唇を噛む。
また光が漏れそうに見えた。
だが、漏れなかった。
ただ、震えだけが残った。
「カイル」
ヴァレリスが近づく。
彼女の炎は消えている。
刃も下ろしている。
声は低く、柔らかい。
あの彼女の声が、こんな音になるのを、俺は初めて聴いた。
「聞いて。私――」
「やめてくれ。」
カイルは、首を振った。
涙で濡れた顔で、俺たちを見ない。
亡骸だけを見る。
「今は……何も聞きたくない。」
「……分かった」
ヴァレリスはそれ以上、何も言わない。
俺も言わない。
言えば、言葉が刃になる。
彼の傷口に塩を塗るだけだ。
崩落の音が、遅れて、広間の向こうからやってくる。
天井の大梁が軋み、壁が裂け、空が広がる。
外気が入る。
橙の夕暮れではない。
さっきの白の残光が、街をまだ薄く照らしている。
遠くで、人の叫びがする。
俺はその方向へ視線をやった。
救助に行かなければ。
でも、足が動かない。
今この場所で、誰よりも止まっているべきは俺たちだと、直感が告げている。
カイルは、しばらく動かなかった。
亡骸のそばで、息だけをしていた。
彼の肉体はあちこちが炭になったかのように焼けている。
背の光輪が、風に吹かれた燭火みたいに揺れて、そして――消えた。
広間に、本当の夜が戻った。
闇の中に、俺たち三人の息だけが浮かぶ。
遠くの崩落の音も、街のざわめきも、今は別の世界の出来事みたいだ。
「……君たちを。」
やがて、カイルが口を開いた。
声は掠れて、擦り切れて、砂を噛んでいるみたいだ。
「君たちを、一生恨むよ。」
「――」
言葉が喉で止まる。
真実はひとつではない。
事実はいくつもある。
それらをどう繋げるかは、いつも誰かの都合が入り込む。
俺の都合も、彼の都合も、ヴァレリスの都合も。
彼の目には、まだ怒りがある。悲しみもある。
憎しみは、もう形を変え始めている。
いずれ、それがどんな形になるのか――今は分からない。
ただ、彼は俺たちから視線を外し、亡骸へもう一度、深く頭を下げた。
「行こう」
ヴァレリスが腕を引く。
俺は頷く。
一歩、二歩。
足音が、広間に滲んで消える。
背後で、カイルは動かない。
彼の背中は、もう光っていない。
ただ、暗闇の中に、まっすぐ立っている。
広間を出て、崩れた回廊に出る。
夜気が肺を洗い、焼けた喉が少しだけ楽になる。
俺は木刀を握り直し、ヴァレリスと目を合わせた。
彼女は小さく頷いた。
俺たちは走り出した。
背後には、まだ終わっていない夜がある。
カイルの夜。
俺たちの夜。
そして、この街の夜。
いくつもの夜が重なり合い、まだ朝は遠い。
それでも、走る。
次の叫びへ。
次の光へ。
次の、選択へ。
――そして、俺たちは知らない。
この夜が、どれほど長く、深く、彼の中に残るのか。
いつか、彼がもう一度光を背負って立つとき、その光が祈りか罰か、祝福か断罪か――今はまだ、誰にも分からない。
ただ、あの広間で見た光は、神々しくて、ひどく哀しかった。
それだけは、忘れない。