有力な手掛かり。黒幕の影
太鼓は遠くで鳴り続け、灯籠は風に合わせてさざめいた。
広場の輪の中で、カイルは子どもたちに囲まれて笑っている。
木の剣を振る子の姿勢を直し、転びそうになった小さな手を支え、屋台の主に深々と頭を下げる。そこだけ昼のように明るい。
俺とヴァレリスは、そこから一枚、薄い幕を剥いだような路地へ足を踏み入れた。
「急がないと、痕跡が消えるわ。」
ヴァレリスの横顔に灯が斜めに当たる。
「分かってる。」
祭の油煙、花油の香り、甘い菓子の匂い。あらゆる匂いが夜気に混じって、手掛かりを飲み込んでしまう。だからこそ、今のうちに拾えるものは拾っておくしかない。
人混みの縁で洗濯物を取り込んでいた年配の女に声をかけると、女は俺の名乗りを聞いて、ほっとしたように目尻を下げた。
「戻ってないのよ。祭の飾りを運んでたって聞いたわ。夕方ここを走って、角で立ち止まって……誰かに呼ばれたみたいでね。」
「どんな声だった?」
ヴァレリスが訊く。
「静かで、よく通る男の声。『こっちだ』って。」
「そのあと?」
「路地に入ったきり、見てないわ。」
三叉の路地は川、倉庫街、そして祭の灯から離れる薄暗い筋へと分かれている。石畳の砂に小さな足跡。
踵が内へ寄り、つま先がばらつく――走り慣れない子どもの跡だ。途中から深く沈み、引かれたように擦れている。
「こっちだ。」
俺が示すと、ヴァレリスは黙って頷き、裾をからげてついて来た。壁の陰は熱が抜け、ひやりとしている。祭の音が遠くの膜の向こうに感じられ、こちらの足音だけがやけに大きい。
曲がり角ごとに、痕跡を拾う。指で触れるとかすかにざらつく擦痕、布が引きずられた跡、路面に移った細い車輪の筋。
「二輪ね。大きくない。」
「荷は軽いはずだ。」
「『軽い』のに、人を運ぶ高さの箱……。」
そこまで言って、ヴァレリスは唇を噛む。言い切らない。その慎重さを、俺は肯定する。
倉庫の列へ出る。表は施錠され、戸に封蝋。だが鍵の周りだけ、爪でこじったように摺れて新しい。戸前の縄目がほどけ、繊維が何本も落ちている。
「表は飾りね。」
「裏口を探す。」
建物の裏を回ると、川へ突き出した細い桟橋がある。繋がれた小舟が一艘、暗い水を撫でていた。夜灯りの揺れが船底の黒ずみを照らす。鼻先を寄せると、薬草と消毒のきつい匂い。
「運搬用にしては綺麗すぎる船――目的が決まってる。」
ヴァレリスの言葉に、俺は頷く。
桟橋の端に木箱が二つ重ねられていた。上は空。下の箱には古びた布が詰められ、角に小さな数字の糸目が縫い込まれている。
「孤児院の札……。」
ヴァレリスの手がわずかに強張る。
俺は桟橋の板を指先でなぞった。薄く焦げたような黒。火を当てた痕か、何かで擦った痕か――均一すぎて生活の煤ではない。
水際は、異様なほどに掃き清められていた。桟橋の脇、石の継ぎ目だけが濡れて光り、青白い灯の反射を細い帯にしている。
「水を被せたのか。」
「そう。流すように、まとめて。」
手際が良すぎる。臨時ではなく、繰り返しに馴れた動きだ。
祠の基壇の割れ目に、金具の欠片が挟まっていた。指の腹でつまみ上げると、爪ほどの薄さの金属片に、ごく短い繊維がいくつか貼り付いている。繊維は綿、だが触れた指にわずかな油が残る。
倉庫列の影を縫うように進む。薄い足音が二つ、手前の通路で止まった。俺はヴァレリスの手首を軽く触り、壁に背を預けて呼吸を浅くする。
「先生に渡せって言われてる。落とすな。」
「わかってるさ。……祭が終わる前に、だ。」
荷の擦れる音、木が触れる鈍い気配。二人は俺たちの前を通り過ぎ、桟橋の方へ消えていく。制服の袖口に付いた白い繊維、腕に残る消毒の香り。
「“先生”ね。」ヴァレリスが囁く。
「誰のことかはまだ分からない。」
そう言いながら、脳裏に老紳士の姿が浮かんだ。慈善の人、聖人と呼ばれる落ち着きの笑顔。
――ヴィクター。
確定はしない。だが、手掛かりは彼の輪郭に近づいていく。孤児院の札、祠の灰、船の底の黒、掃き清められた水跡、そして“先生”。
「……偶然にしては線が太すぎる。」
俺の独り言に、ヴァレリスが同意も否定もしない目で一瞬だけ俺を見る。燃えるような色の瞳が、夜灯りで揺れた。




