『最強』
紫の気が、掌から腕、胸奥へと静かに満ちる。花弁が渦を巻き、夜の匂ひが変はる。呼吸ひとつで、世界の拍が我に合はさるるを知る。
人の身に課せられたる枷は、いま解けた。痛みも反動も、過去に置き去りにして。
一歩、前へ。地は鳴らず、風のみが走る。刃はまだ鞘の内にあるやうに静かだ。然れど、月白が刃の縁を見失ふ。薄光が、我が中心へ吸はれてゐる。
背より若き徒の息を聴く。リオールの微かな呻き、ヴァレリスの歯噛み、イゾルデが斧を抱く音。誰も声を上げぬ。良い。いまは見るがよい。
眷属の男が退く。笑みはある。眼は凍り、喉が鳴る。呼吸が狂ひ、死者の列が厚さを増す。千の「仲間」を盾に積むつもりか。愚かとは言はぬ。望みは真であつたのだ。
「来るな……来るなよ……」
と、彼の唇が動いた。声にならぬ声。残渣の縫ひ目が、彼の背で痛むと見える。
我は刃をわずかに傾けた。花弁がひとひら、落ちる。触れた砂粒が、音もなく割れた。
踏む。踏音は消え、ただ距離のみが詰まる。軍勢が一斉に咆哮を上げた。死者の喉は鳴らぬはずだが、縫はれた声は模造の叫びを作る。音の皮。皮だけの波。
我は肩を落とし、肘を緩め、腰で受け、腰で返す。宵の門の稽古が骨の形で甦る。焦るな。呼吸を置け。拍を継ぐな。見える前に歩を置け。
指先が柄の木目を撫で、刃は真横へ滑り出る。紫の軌は細く、短い。だが、夜の輪郭ごと裂いた。
一度。世界が遅れた。次の瞬間、軍勢の胸に縫ひつけられた見えざる糸が、まとめて解けた。死体は倒れぬ。倒れるという工程を失ひ、ただ「止まる」。泥偶のやうに、そこに在ることをやめる。
砂塵が起こらぬ。血も肉も飛ばぬ。ただ、静寂が濃くなる。刃はなお乾き、月の光は戻らぬ。
眷属が膝をついた。
「……嘘だろ」
その肩が震え、次の瞬間、彼は狂ったやうに後退り、叫ぶ。
「もっとだ! もっと来い! 起きろ! 俺の仲間――起きろ!」
地面の下から、遅れて重い拍動が響いた。学園の外縁、石垣の影。さらに繕はれた死体が、土を破って起き上がる。腕や脚に木釘、縄、鉄線。顔は人の形に近づくほど、遠い。
「足りぬか」
我は呟く。自らに向けて。まだ刃は濡れてはならぬ。この夜は、導くためにある。
我は右手を緩め、左の掌を柄に添ふ。刃先を低く、地へ落とす。花弁が一条、流れる。宵の門の声が骨で鳴る。「間を継がないこと」
二度。斜に払ふ。刃は土を掠め、紫の気が地中へ入る。根を断つやうに。縫い合わされた縁が解れ、土中で固められた関節が音もなくほどける。起き上がりかけの死体はそこで止まり、腕は腕の位置を忘れ、脚は脚たることをやめる。
三度。上へ。風は鳴らず、月が鳴る。薄光がひと呼吸ぶんだけ明滅し、遠くの林の梢が遅れて揺れる。遅れて落ちた葉が一枚、我が肩に触れ、冷たい。
我は歩を進め、刃を収めぬまま収める。線が消え、夜が戻る。戻つたはずの夜は先ほどとは別物だ。輪郭が澄み、匂ひは軽い。学園の土が温かい。
眷属の男の足がもつれる。彼は短剣を抜いた。鈍く錆び、儀式のような刃。自分で自分の胸に押し当てる勢ひで掲げ、「残渣様……!」と呼ぶ。祈りとも怨嗟ともつかぬ声。
花弁が彼の頬に触れ、傷もつけずに去る。祈りは届かぬ。願ひの縫い手は、願ひを与へぬ。己の望みで己を縫うたこと、それ自体が罠なり。
「汝の望み、確かに見た」
我は言ふ。
「仲間を求めること、咎めはせぬ。されど、死に縫ふをやめよ」
男は首を振る。
「やめられない。俺はもう、ひとりじゃない。俺は――」
その言葉は自らの歯で途切れた。
背後で、最後の列が起きる。学園の門柱の影に沿ひ、かつての制服、かつての作業服、かつての軍靴。形だけの歩調。彼らは我に背を向け、男の前に横一線に並ぶ。壁だ。人の形をした「拒絶」。
我は刃を肩に置く。宵の門の夜がまた骨で鳴る。「見える前に歩を置いて」
四度。踏む。踏んだ場所が静かに沈み、夜の音が一枚はがれる。刃はまだ上がらぬ。花弁が逆巻き、紫の縁が輪となる。輪は小さい。小さいが、閉じてゐる。
五度。輪が広がる。音は戻らぬ。眷属の口が開く。声は出ない。彼はそれに気づかず、まだ叫び続ける形を保つ。
六度。刃がわずかに動く。動きと呼べぬほどの角度。だがそれで充分だ。輪は合図を受け、門の前に立つ壁の縫い目だけを、選んで解いた。倒れない。倒れることなく、その場で「壁であること」を失ふ。影が光り、光が影になる。夜が均される。
我は刃を下ろし、吐息をひとつ落とした。手の中の重みは変はらぬ。力を誇る必要はない。誇りは導きを鈍らせる。
男が、やっと声を取り戻す。
「やめてくれ……俺が、ひとりになる……」
涙は出ぬ。死の縫い目は水を許さぬ。彼の頬を流れるのは、ただの冷気。
「独りは、終りに非ず」
我は言ふ。
「独りで立つは、始まりなり」
彼の肩が、かすかに下がつた。短剣の切っ先が揺れる。彼の背後、誰も動かぬ。音が戻る。虫の声、学園の草の擦れ、遠い塔の鐘。夜は夜の位置に戻つた。
だが、まだ終はらぬ。残渣の縫ひは深く、彼の心の底へと針を下ろしてゐる。表の縫い目を断つは易い。奥の縫い手を外すには、さらに一歩が要る。
我は刃を胸の高さに持ち替え、男に向けて半身を切る。殺さぬ。断つのみ。導きのために。
宵の門の最後の問いが、骨の奥で灯る。独りでも立つか。応へは変はらぬ。然り。我は独りにて立つ。
「来い。」
男へ言ふ。
「汝の望みの芯を、我が断とう。」
彼は足を踏み出した。笑みが戻る。虚ろな目に、かすかな光が混じる。短剣が、わずかに角度を変へる。守りではない。攻めでもない。迷ひの角度。
我は一歩、受けに入る。拍は落ちない。刃は鳴らない。花弁は静かに輪を閉じる。世界の重さが肩に乗る。その重さごと、我は斬る。
紫は揺れず、夜は揺れず、ただ縫い目だけが解けた。
男の膝が折れた。刃は彼の掌から離れ、砂に落ちる。
花弁はゆるく散り、夜の色は静まる。軍勢は跡形もなく、土は温かい。若き徒らの息が、背で揃ふ。彼らの拍が、生者の拍だと、夜は告げる。
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紫の花弁が嵐のように舞い、夜が違う色に変わった。
あの瞬間から、戦場は先生ひとりのものになった。
刃が振るわれる。
音はない。ただ景色が一枚ずつ剝がれていく。
軍勢の列が、存在ごと切り取られて消えていた。
「……っ」
イゾルデが喉を押さえた。
斧を握る彼女の腕は、普段なら揺るがないはずなのに震えている。
「化け物……いや、それ以上だね...。」
震える声に、俺の背筋がさらに強張った。
ヴァレリスは血の滲む唇を噛み、視線を逸らさなかった。
「……レオンハルトの王剣ですら、届かない高み...。」
彼の肩から滲む汗は、痛みのせいだけじゃない。誇りを持つ剣士が、認めざるを得ない圧倒的な差。
オーウェンは拳を膝に押し付けていた。
爪が掌に食い込むほどの力で。
「俺たち、同じ人間なのか……?」
その問いは、全員の胸に沈んでいたはずだ。
アレクセイは笑おうとした。
「いやぁ、こりゃ……」
続けるはずの軽口が、喉の奥でひしゃげて消えた。
彼の目はただ、夢中で先生を追っていた。
冗談すら砕く迫力。
ペイルは肩を抱いて縮こまっていた。
「怖い……でも、目が離せない……」
彼の言葉は俺の心そのものだった。
刃が一閃する。
紫の光が走っただけで、骸の軍勢が一斉に「止まる」。
倒れたのではない。砕けたのでもない。
存在をやめた。
音もなく、影だけが散って消えた。
「うそだろ……」
誰かが呟いた。俺か、仲間か、もう分からない。
一振りごとに世界が変わる。
一歩ごとに戦場が塗り替えられる。
人が振るう武器の範疇じゃない。
怪物の咆哮よりも、異象の災厄よりも、ずっと恐ろしい。
けれど――美しい。
俺は拳を握った。
「必ず……」
唇が震えても、言葉を押し出す。
「必ずあの背を、越えてみせる」
誰も返事はしなかった。
けれど、全員の眼が同じ背中を見ていた。
震えながらも、憧れながらも。
その背が「最強」だと、誰もが理解していた。




