『虚無の剣鬼』。その力。
我は思ひ出す。あの夜を。
恩をくれし一家の灯火が、炎に呑まれし時を。
かつて我に居場所を与へし人々ありき。
血の縁はなくとも、共に膳を囲み、稽古の汗を笑ひ、ただ「在れ」と受け容れてくれし。
されど、戻れば皆、炎の中に在った。
柱は崩れ、畳は燃え、声は煙に溶けたり。
幼子の瞳は既に閉じ、慈母の掌は冷たく、父の腕は灰に埋もれし。
我は呼べど、答ふる声はなし。
虚ろなる穴が胸に開いた。
泣くこともできず、嘆くこともかなはず、ただ喉を焼く空虚のみが残れり。
足下に、一振りの大太刀が転がりたり。
赤錆に沈み、刃は欠け、ただの鉄塊に過ぎぬ。
されど我は、その重みにすがった。空洞を埋める術が、それしかなかった。
復讐――それだけが我を支ふる柱と化した。
我は夜ごとに歩きたり。
組織の手先を追ひ、匿ひし隠れ家を探り、容赦なく踏み荒らす。
刃は鈍くとも、血を吸ひてなお重く、骨を砕くに足れり。
門を蹴破り、廊下を抜け、逃げ惑ふ声を背に、ただ前を進む。
振り下ろせば肉は裂け、横に払へば骨は砕ける。
叫びは耳に届かず、我が眼はただ血を映す。
「剣鬼だ……!」
誰かがそう叫び、怯えて退いた。
良し。恐怖こそ我が糧。名など要らぬ。
刃は軋み、錆はさらに広がる。
されど構わぬ。崩れ落ちる屍の山こそ、我が虚無を埋める石垣なれば。
一人を斬れば、少しは息が楽になる。
十人を屠れば、胸の空洞がわずかに塞がる気がする。
されど刃を収めれば、すぐに虚無は口を開く。
ゆゑに止まれぬ。
夜毎、夜毎に斬り続け、血の泥を踏み抜きて進んだ。
幾夜を越え、組織は壊れ果てたり。
要を担ひし者らは悉く地に伏し、旗も拠点も焼け落ちた。
我が足跡には炎と屍ばかりが並び、振り返ればただ赤黒き道が延びておる。
勝利などなかった。
敵も、仲間も、恩の記憶すらも、刃に呑まれて消え去った。
残ったは、ただ「虚無」。
剣を握らぬ時、我は己が存在を確かめることさへできなんだ。
人を斬らずしては、呼吸すらままならず。
その姿こそ「虚無の剣鬼」と呼ばれし所以なり。
夜の闇に佇む時、我は己に問うた。
「これが果てなのか」と。
答へは返らず。刃のみが、血錆の重さで沈黙を告げる。
虚無を埋めんと振るうほど、虚無は広がる。
それでも、歩を止められぬ。
我はその夜もまた、刃を振るった。
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影の底より、一振りの大太刀が姿を現した。
錆びに覆われ、刃こぼれ深く、切れ味などとうに失せし鉄塊。
我はその柄を握る。
「良い……虚無を背負ひし刃よ。今一度、我が手に応へよ」
振り抜いた。
轟音とともに骸どもが弾け飛び、骨は粉砕され、砂の雨と化して降り注いだ。
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「……速すぎる……!」
俺は声を失った。
剣すら構えられず、地に伏したまま見ているしかない。
白蓮の死闘で残った傷はまだ疼き、立つこともできないのに――先生はただの鉄塊を振るって軍勢を蹂躙していた。
「数など……意味をなさない……」
ヴァレリスが低く息を吐いた。
イゾルデは斧を胸に抱きしめたまま、笑いもせず震えている。
俺たちは皆、戦えない。
けれど、誰一人として目を逸らすことはできなかった。
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我は歩を進め、横薙ぎに払ふ。
錆びた大太刀は風を裂き、骸ども数十をまとめて宙に散らす。
斬るに非ず。叩き潰すのみ。されど、それで充分なり。
「やめろォォ! 俺の仲間に触るな!」
男の叫びは耳に入らず。
我はただ踏み込み、刃の重みを以て虚ろなる軍勢を粉砕せり。
足を置けば大地は沈み、衝撃に骸は立つ間もなく崩れ落ちる。
刃の欠け目に骨が噛み砕かれ、血も声もなく砂と化す。
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「圧倒的だ……」
俺は胸の奥でそう繰り返した。
悔しさも、憧れも、畏怖も、全部が入り混じって胸を焼く。
白蓮と死闘を繰り広げ、命を賭してなお届かなかった壁。
それを今、先生は錆びた大太刀で易々と踏み越えている。
最強――その言葉では追いつけない。
俺は拳を握り締め、動けぬ身体でただ、あの背中を焼き付けるしかなかった。




