素手の剣鬼
先生の腕が振り下ろされた。空気が爆ぜ、骨が砕ける乾いた響きが夜を縫った。
目が追いつかない。死体は触れられた瞬間に紙細工みたいに崩れ、砂のように広がって消えていく。
「……速い」
思わず声が漏れた。ヴァレリスが隣で息を呑む。
「これほどの膂力を、素手で……」
王族の彼女が、ただ事実を呟くしかない。イゾルデは大斧の柄を握り締め、指の骨が鳴るほど力を込めているのに、一歩も前へ出られなかった。
「斬ってない……砕いてる……」
声が震えていた。豪胆に笑って敵へ飛び込む彼女が、今は武器を構えることすらできていない。
先生は群れに踏み込み、掌で頭蓋を砕き、肘で胸骨を折り、踵で背骨を断つ。その動きは音しか残さない。粉塵の渦に紫の月光が滲み、夜気が震えた。砂埃が舌にざらつき、喉が音の衝撃で勝手に鳴る。
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我は歩を止めず。
虚ろなる軍勢、息を合わせるごとく足並みを揃ふ。仲間と名乗るために形だけの呼吸を刻むか。哀れなり。
「退くがよい」
掌が一つ鳴り、亡者の列に穴が穿たる。糸切れの操り人形どもは膝から崩れ、面だけ笑みを貼り付けたまま砂に埋もれたり。
男、喉を裂いて叫ぶ。
「やめろッ!俺の仲間に触るな!」
その叫びは、過ぎし夜の我が胸にも鈍く響く。恩の家を奪はれしのち、我もまた虚無に沈み、刃に血を吸はせし。されど今は違ふ。導きのために振るう。
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先生の背が近づいたかと思えば、次の瞬間には遠い。足音が聞こえない。地面だけが遅れて沈む。爆ぜる砂の音と、砕ける骨の音だけが等間隔に続く。
「……化け物」
イゾルデが小さく漏らして、口を押さえた。ヴァレリスは視線を逸らさず、肩で静かに呼吸を揃える。震えはもうない。王族の矜持が、畏怖を飲み下して整っていく。
「私たちが並び立つ背中は、あれよ」
彼女の言葉に、俺の胸が熱くなる。けれど足はまだ動かない。脚の内側が痺れて、力が逃げていく。
男が短剣を掲げた。錆びて鈍い刃が月を歪める。
「見えるだろ!俺は一人じゃない!仲間が、俺を守ってくれる!」
死体たちが同時に腕を振り上げ、波になって押し寄せてくる。誰かの歩幅に全員が合わせ、音が一つの線に合わさっていく。生者の行進みたいな、気味の悪い整然さだ。肩章の布色が揃っている。手首の同じ位置に、黒い印が見えた。俺はそれを知らない。けれど、同じ場所で同じ日を過ごしていた証みたいに思えた。
先生は振り返らない。肩も揺れない。拳だけが、必要なぶんだけ動いた。波の先端が弾け、列が割れる。割れ目に空気が流れ込み、遅れて砂煙が噴き上がる。
「止まれえええええ!」
男の喉が潰れた。返事のように、死体たちが一斉に膝をつく。まるで祈るみたいに首を垂れ、次の瞬間には倒れていた。
砂煙が薄れ、群れの中の顔が浮かび上がった。
知らないはずの人間たち。けれど、誰もが生きていた頃の温度を残したように整っている。
見覚えはない。俺の記憶にはないはずなのに――なぜか組織だった統一感を感じさせた。肩の縫い目、靴紐の結び方、刈り揃えられた髪。ばらばらの街の人間にはありえない、同じ癖。
そのとき、先生の目がわずかに揺れるのを、俺は見逃さなかった。
俺には知らない彼らが、先生にとっては過去の影なのだ。
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我は列の奥を視る。糸を手繰る手はどこぞ。刃でも呪でもなく、望みそのものを縫い合わせた結び目。見つけたり。
「そこか」
踏み出す。土が一寸沈み、虚ろなる兵はその重みだけで崩れた。男は慌てて退るも、おそし。手首の角度、肩の逃げ、目の泳ぎ――すべてが糸の端を指し示す。
「やめてくれ、来るな、来るな……!」
我は応えず。掌を返し、見えぬ糸を断つ。音は鳴らずとも、列の呼吸が乱れ、統一の拍がほどけていく。仲間と呼ばれた虚像は、それぞれ別の死に戻った。膝が砂を掻き、指が意味もなく宙を掴み、顎が遅れて閉じる。生の残像が、夜気の中でほどけて消える。
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風が戻ってきた。割れていた雲が流れ、月の輪郭がはっきりする。さっきまで止まっていた世界が、先生の歩幅に合わせてまた動き始めたみたいに。
先生が一歩、さらに奥へ進む。男が後ずさり、短剣の先が震え、月光を砕いた。
「来るな……来るな……!俺の仲間を、連れていくな!」
「……先生」
俺は呟く。届かないと知りながら、それでも声に出す。
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我は影を見る。亡霊は声を持つ。過ぎし夜の我もまた、孤独を恐れ、刃に縋りたり。
「独りでも立てるか」
あの問いが、遠い鐘のように胸の奥で鳴る。
我は瞼を上げ、ただ歩む。導くために。いまここで、過去の糸を断つために。
砂塵が一筋、月へ昇った。