熱戦の後で
白い花弁が霧となって散り、男とアスファデルの姿は夜空に掻き消えた。
討伐の勝利を告げるはずの甲板には、安堵ではなく重苦しい沈黙が漂う。
俺は膝をついたまま動けなかった。
『月下美人』の反動が全身を苛み、腕は震え、呼吸は荒い。剣を支える力も残っていない。
ただ甲板に伏せながら、遠くの声に耳を澄ませるしかなかった。
「……連れ去られたか。」
カミヤ先生の低い声が夜風に溶ける。
「ワタシの目の前でやってのけるとは、愉快ではないですよ。」
学園長は口元に笑みを浮かべながらも、瞳は鋭く光っていた。
その時、沖合から灯が近づいてくる。小舟が波を裂き、和装の女を乗せてこちらへ寄っていた。
黒と白の衣、長い薙刀。背後に重なる鳥居の幻影が淡く揺らぎ、ただそれだけで空気が張り詰める。
各々警戒を強めるが、俺はその人物が誰かを知っていた。
「……宵の門。」
俺は薄れゆく意識の中でその姿を認め、胸の奥が冷たくなった。かつて戦い、圧倒された異象。
「少し、話をしに来ました。」
彼女の声は澄んで柔らかく、それでいて場を支配する重みを持っていた。
「汝、今の男を知っているか。」
カミヤ先生が問いを投げる。
宵の門は静かに頷いた。
「“月暈の残渣”。――私は彼を追っている。あれは人の『望み』を掬い取り、それを呪いに変える存在。与えるのではなく、元から在るものを歪めて力とする。だからこそ拒めない。」
「望みを……武器に……。」
俺は地に伏したまま、掠れた声で繰り返す。
オーウェンが前に出て宵の門を睨む。
「おい、あんたも信用ならねぇな……こっちに刃を向ける気はねぇだろうな?」
ヴァレリスも剣を構え直し、炎を散らして仲間を庇うように立つ。
「油断は禁物です。異象は常に、どちらに転ぶか分からない。」
宵の門は二人の警戒を受けても、微笑を崩さなかった。
「安心して。私は君たちを試すつもりはない。今日は残渣のことを伝えに来ただけです。」
学園長が目を細める。
「なるほど……だからアナタは彼を追っているのですね。均衡を守るために。」
「はい。あれは試すべき者ではなく、止めるべき異象です。」
宵の門の声は淡々としていた。
その時、寡黙なザミエルが口を開いた。
「……俺は知っていた。」
皆の視線が集まる。ザミエルは銃を下ろし、淡々と、しかし深い陰を帯びた声で言った。
「俺とアスファデルは、同じ浜の人間だ。俺がまだ子供だった頃、あの人は漁師であり狩人だった。銛の握り方も潮の読み方も、漁師の心得を、俺は彼から教わった。」
仲間たちが息を呑む。俺は伏したまま、その声だけを頼りに耳を傾けた。
「だが、白蓮が村を呑み、船も家族もすべてを奪った。残ったのは彼一人。……俺は生き残った。それが、あの人を狂わせたのかもしれない。」
宵の門が小さく頷く。
「だから残渣の囁きが効いた。“獲物を奪った者を穿てばいい”――それは単なる誘惑ではなく、彼の心の奥底に沈んでいた因縁を抉ったのです。」
「……俺が引き金だったか。」
ザミエルは悔恨を押し殺すように低く吐いた。
学園長は冷徹な眼差しで告げる。
「彼にとってアナタは、かつて教えを授けた弟子にして、生き残りの象徴。羨望と憎悪と望みが絡み合い……残渣に掬われた。」
「哀れなことだが……その哀れはやがて刃となって我らに向くやもしれぬ。」
カミヤ先生が重く断じる。
宵の門は夜空を見上げ、散り残る白い花弁を見やりながら囁いた。
「望みは救いにも、呪いにもなる。残渣はそれを呪いとして均衡を崩す。だから私は彼を追うのです。」
俺は甲板に伏したまま、握った『月下美人』の柄に力を込めた。
花弁の残滓は冷たく舞い、俺たちの未来を暗示するかのように夜空へと消えていった。
宵の門は薙刀を収め、背後の鳥居が霞のように消えていく。
「ここで話すべきことは終わりました。……彼を取り戻すか否かは、あなたたち次第です。」
そう残し、小舟は月光を背に遠ざかる。
残った甲板には疲弊した仲間たち。オーウェンはまだ拳を握りしめ、ヴァレリスは炎剣を収めながらも周囲を睨んでいる。
イゾルデがため息をつき、ザミエルは無言で銃を抱えたまま海を見つめていた。
俺は『月下美人』を握ったまま、膝をつく。視界が霞み、力が抜けていく。
「……くっ……」
誰かの声が遠ざかり、花弁の残滓が目の前で揺らめいた。
やがて意識は闇に落ち――戦いの幕は閉じられた。




