嗤いと静寂のはざまで
白は呼吸するたび膨れ、花弁が伏せては咲く。昼と夜が擦れ合い、海は白光に酔っていた。
俺の手にはまだ『ヒガンバナ』。赤黒い脈が柄から腕へ、心臓へ、頭蓋へ、針の列となって登ってくる。耳の奥で声が泡立つ。笑え。泣け。怒れ。絶て――誰の声だ。俺の喉が勝手に開き、同じ音をなぞる。
「ハ、はは……ッ、アハハハハァッ!」
やめろ。嗤うな。これは俺の声じゃない。けれど止まらない。肩が痙攣し、視界の端が赤黒く裂ける。甲板の板目が歪み、足の感覚が薄くなっていく。境界が削られている。
「リオール! 戻れ!」
オーウェンの怒号が風を裂く。
「無茶は俺がやる。お前は――」
「戻ってこォい!」
オルテアが叫ぶ。
「主演がここで倒れられては幕が持ちません!」
アレクセイが笑ってみせるが、笑いの形が崩れている。
「揺れ、左一。次弾、二」
ザミエルは短く告げ、白の膜に針穴をもう一つ穿った。
俺は穴へ滑り込み、刃の腹で叩き、柄で押し広げる。白がきしむ。わずかに暗い海が覗いた。だが次の瞬間、花弁が十輪、いっせいに咲いて塗り直す。努力が消える。理不尽。――だが薄い。縁は紙だ。
「押せやァあ!」
アスファデルが銛を肩で担い、白光の中へ跳んだ。
「もっと焼け、白蓮! 俺の目玉を焦がし尽くせやァ! 小僧、穴を増やせ、増やして迷わせ!」
狂信の熱が潮風を熱くする。俺は舌を戻し、奥歯をほどく。吸って、吐く。――先生。
呼吸に合わせ、知らない誰かの動きが肩へ落ちる。矢羽の匂い。脛に巻いた布の締め具合。名を知らぬ少年の、最後の一矢。
「曼珠葬送」
名を刻むより早く、四つの斬線が花の根元を斜めに裂き、ザミエルの針穴と合流する。白がよろめく。
……来る。声が増える。我を見ろ。我を思え。我を生きろ。沈んだ水夫の視界、笑う女の硬い手、焦げた装填手の呼吸。誰かの膝が俺の膝になり、誰かの癖が俺の手首に宿る。
「は、ははっ……」
怖い。のに、軽い。もっと、を欲しがる。刃が自分で震えて、次の一撃へ俺を引く
「リオール君。」
天から鉄の羽が降る。甲板と海上に針の雨が走り、白の薄皮を叩いて仲間の足を守る。
「これ以上は危ういわ。呼吸を、落として」
アラエルの声は静かで、母のように柔らかい。だが胸骨の裏で、俺の呼吸は別の声に掴まれている。
「……ぐ、あ……ッ」
喉がつまる。血涙で視界が曇り、花と花の距離が測れない。足が空を踏み、甲板が遠い
「限界だ」
ザミエルの一言。乾いて、冷たい。だが、事実だ。
わかっている。もう次を振れば、俺は呑まれる。ヒガンバナに、死者に。仲間へ刃が向く。最悪の手が眼前にぶら下がる。
「や、めろ――」
自分に言う。けれど刃は笑って、俺の指をほどこうとする。
ヒガンバナの脈が跳ね、刃の根で音が割れた。赤黒い光が膨らみ、花弁となって弾ける。
掌は空になり、熱だけが残る。音が遠い。耳鳴りの底で、波が一度、静かに返った。
俺は膝を折り、両手で甲板を掴んだ。嗤いも怒号も去り、虚脱だけが残る。
――終わった。このままじゃ、立てない。それでも、海は続いている。砲列船が吠え、火矢が尾を曳く。小舟が船腹を押し、旗が一度倒れて、すぐまた立つ。オルテアが舵輪に肩を入れて叫ぶ。
「止まるなァ! まだ負けてねェぞォ!」
立っている。みんな、まだ立っている。
胸の底に、温度の違う何かが残っていた。長い時間をかけて磨かれた、白木の手触り。稽古場の乾いた空気。先生の声。――流れに呑まれてなお、汝は汝であれ。
「…来い。」
掠れ声で言って、掌を開く。吸って、吐く。舌の位置を戻し、肩を落とす。指先に重さが戻る。白木の質感。汗と樹脂の匂い。
木刀が、再び咲いた。
「……やっぱり最後を飾るのは『月下美人』か...。」
名を心で呼ぶ。最後に残っていた赤黒い花弁が散り、ヒガンバナの気配は完全に消える。静けさが刃に集まり、手の中の呼吸が一本の線に収束する。
ペイルが小さく息を呑む。
「り、リオール……」
「まだ立つのか」
ザミエルが銃口を揺らさずに言う。
「お客様、千秋楽はここからですよぉ!」
アレクセイの笑みは薄いが、声は舞台に届く。
オーウェンは拳を握りしめ、
「よく戻った!ここからだ!」
と短く吼えた。
白はなお咲き、海は白紙に戻ろうとする。だが塗り直しは遅い。薄い。縁が裂けやすい。これまで皆で刻んだ揺らぎが、確かに残っている。
アスファデルが白の庭で踊るように銛を回し、
「もっと見せろやァ、白蓮! わしを焼け、わしを失明させろォ! 小僧、咲かせるも散らすも好きにしなァ!止めはわしがもらうからよォ!」
と笑う。その笑いは不気味で、美しく、目を逸らせない。
俺は木刀を胸に構え、足の指で甲板を掴み直す。重心、低く。肩、落とす。肘、畳む。――次で、道を開く。終わらせるために。終わらせる前に、俺が倒れるとしても。
白蓮の背で花弁が伏せ、わずかに遅れて咲く。間がある。そこにしか、入口はない。呼吸を合わせ、線をひとつ、胸の内に引く。
「『月下美人』。」
俺は夜の海に短く告げ、息を吸った。
甲板の上の時間がわずかに揺らいだ。白い庭が、薄く、透ける。
――ここだ。
俺は踏み出す。木刀はまだ静かだ。だが、確かに生きている。次の一歩のためだけに。
その姿勢のまま、俺は海を睨み、息をひとつ沈めた。




