赤と白
胸の奥で疼いていた赤黒が、もう抑えきれなくなっていた。
船員たちの命が次々と白に呑まれ、その叫びが耳の奥にこだまする。痛みも怒りも混ざり合い、刃のように心を削っていく。
――呼んでいる。
死者の声が。
あの赤黒い刀が。
「リオール!下がってくれ!」
オーウェンの声が飛ぶ。だが俺は首を振った。
「下がれない……ここで退けば、全部が無駄になる!」
木刀を胸に寄せ、息を吸う。
肺の奥まで冷たい空気を流し込み、心臓の鼓動と合わせて刻む。
カミヤ先生の声が甦る。
――流れに呑まれてなお、汝は汝であれ。
次の瞬間、木刀が灼けるように熱を帯び、指の中から抜け落ちた。
甲板に転がったそれは赤黒い炎に包まれ、花弁となって散る。
代わりに、俺の掌に咲いたのは――ヒガンバナ。
無数の声を宿し、熱と重みをまとった異質の刀。
「……あ、ははっ……!」
笑いが零れた。
恐怖のはずなのに、体の芯が熱に震え、昂ぶりに呑まれていく。
鼓動が爆ぜ、血が火のように全身を駆け抜ける。
死者のざわめきすら、今は背を押す風に思えた。
髪が赤黒に染まり、視界は薄赤く滲む。
頬を伝う涙は熱を帯びて顎を濡らしたが、俺はまだ自分を保っている。
「俺は……まだ俺だ!」
ヒガンバナを振り下ろす。
赤黒い軌跡が走り、甲板を覆う白い根を裂いた。
浄化の光が触れたが、赤黒は消えない。
白と赤黒がぶつかり合い、甲板の中央に裂け目が刻まれる。
「あれ...リオール~?」
ヴァインが困惑する。
「赤黒い刃……? リオール君……?」
アラエルは震えながらも見つめる。
「アイツ...まともじゃァねェぞ...!」
オルテアのその額には汗が滲んでいた。
ザミエルは静かに呟く。
「……なるほど。」
そしてアスファデルが狂った笑みを浮かべる。
「ハァァ! そうだ、そうでなくちゃよォ、小僧!」
返さない。ただ前を睨み続ける。
白蓮の背に広がる花園。咲き誇る白弁の群れ。
その中心に、赤黒を叩き込む。
「散らすんだよなぁ……!?この白を!」
刃が唸り、赤黒い弧が夜を裂いた。
花弁が風を切る音を立てて散り、白の庭に初めて色の痕が刻まれる。
巨影が仰け反り、海の白光が揺らいだ。
同時に、耳の奥で奔流が叫ぶ。
我を見ろ、我を思え、我を生きろ――無数の記憶が雪崩れ込む。
知らないはずの名を呼び、知らない景色を見、知らない痛みが体に馴染んでいく。
足元が崩れ、膝が折れかける。
「リオールッ!」
仲間の声が飛ぶ。
俺は息を一つ沈め、鼓動と刃の重さを重ねる。
「まだだ……俺はまだ、俺だ……!」
白蓮の花弁が一斉に咲き、世界を白で塗り替えようとする。
だが赤黒の軌跡は消えず、薄い膜に皹を残した。
ザミエルの銃声が重なり、白の皮膜に針穴が開く。
「揺れ、左二。次弾、一秒。」
その声に合わせて踏み込み、穴へ刃先を捻じ込んだ。
ギリ、と白が軋む。
世界がわずかに暗んだ。届いている。
「いいぞ!」
オーウェンが吼え、砲手が火縄を押し込む。
ヴァインの鎖が根を釣り、イゾルデの斧が支点になって巨影の背を傾がせた。
船員たちが綱を引き、小舟が船腹を押し上げる。
それでも白は咲き、塗り直してくる。理不尽は終わらない。
笑いがまた零れた。自分の声が少し高い。
怖い。けれど、気持ちがいい。
刃を振るうたび、誰かの最適が手に入る。誰かの最後の一撃が、俺の腕を通って世界を裂く。
「斬れる……斬れるぞ……!」
「リ、リオール君、戻って!」
ペイルの悲鳴。
戻る? どこへ? 俺は――俺はまだ、俺だ。
呼吸。足の指で甲板を掴む。肘の返しを小さく、肩を殺す。声は喉じゃない、腹で響かせろ。
特訓の記憶が身体に沿って並び、死者の記憶と噛み合っていく。
白蓮が身を丸め、背の花が十数輪同時に開いた。
世界が真昼に焼け、炎がしぼみ、砲痕が消える。音が遠のき、痛みが薄れる。
しかし、今度はわずかに遅い。花弁の縁が紙のように痩せ、光に濁りが混じっている。
「今。」
ザミエルの一言。
銃声。白に針穴。
俺は刃の腹で穴を叩き、柄で押し広げた。
崩れた膜の向こうに、脈打つ何かが覗く。
そこへ、アスファデルの銛が飛び込んだ。
「ハハァ!見せろよ、白蓮!わしが穿った穴だ、死ぬまで開けてろやァ!」
白が噴き、銛の意味は洗い落とされた。だが膜は薄いままだ。
俺は穴へ踏み込み、体を捻る。
赤黒い軌跡が曲線を描き、白い花弁の根元を斜めに裂いた。
ざらり、と乾いた音。
海の白がわずかに退き、黒が顔を出す。
その瞬間、奔流が吼えた。
我を見ろ、我を思え、我を生きろ。
笑え、泣け、怒れ、絶て――無数の終わりが、一度に喉を塞ぐ。
息が詰まり、視界が赤黒に染まる。
「笑うなァァァッ!」
俺は自分に怒鳴り、足を叩きつけるようにして前へ。
刃が鳴り、白が裂ける。
胸の内で大きく脈が跳ね、一瞬だけすべての声が遠のいた。
静寂の芯で、呼吸がひとつ。
――流れに呑まれてなお、汝は汝であれ。
俺は刃を収め、次の一歩へ肩を落とした。
『白蓮巨影』の背で、花弁が続けて散る。
海が傾き、白の厚みが薄くなる。浄化に、確かな疲れが出ている。
「行ける!」
俺は喉の奥で笑い、仲間の方を見ずに言った。
「俺が道を開ける。掴め!」
砲列船が再び隊列を詰め、矢の雨が白の庭に影を作る。
アレクセイの幻影が踊り、オスカーの刃が影に合わせて実体を噛ませる。
オーウェンが拳で根を殴り、ヴァインの鎖が体力を吸い上げた。
俺は前へ。白の呼吸と自分の呼吸を重ねる。
花弁が伏せ、薄く開く――その瞬間に斬る。
もう一度、もう一度。
赤黒い軌跡が重なり、白の膜に皹が走るたび、世界の色が取り戻されていく。
遠くでアスファデルが叫ぶ。
「美しいなァ、白蓮! もっと見せろよ、その白光をよォ! 小僧、まだ行けるか!」
行ける。今は行ける。
だが同時に理解する。
これは始まりにすぎない。
この刃は俺を強くするが、同時にどこかへ連れていく。
声と声の間、赤黒い流れの中、俺の輪郭は少しずつ薄れていく。
それでも――今は、まだ俺だ。
俺は海の白へ刃先を向け、喉の奥で短く笑った。
「白を、散らす。」
ヒガンバナが低く鳴り、夜の海に赤黒い息が走った。




