湾岸都市『マレティア』
一週間は、思った以上に早く過ぎた。
訓練と準備に追われ、気づけば俺たちはマレティアの城門をくぐっていた。
「ふむ……われら、いささか早う参りすぎたようだな。」
海風に袖を押さえながら、カミヤ先生が目を細める。
「おぉー!見ろよリオール!あの帆船!でけぇ!!」
「ほんと、アンタって元気ね。」
ヴァレリスがため息をつくが、その目も港の船団をしっかり捉えている。
「わぁ……すごい人の数……。」
「はぁ……人混みとか無理なんだけど~……。」
ヴァインは鎖を指先でいじる仕草をしながらうんざりした顔を見せる。
「ヴァイン、そう言わないの。きっと大丈夫だから。」
「……ほんと調子いいんだから、アラエルは。」
「ひ、人が……多すぎて……あ、あの、僕……。」
「ペイルゥ!踏ん張れェ!流されんなァ!」
オルテアが笑いながら背中を叩くと、ペイルは小さな悲鳴を上げた。
「見てよ!あんな大船団、戦いの舞台にぴったりじゃん!」
イゾルデが両手を広げて声を上げる。
「相変わらず楽しそうだな……。」
俺は苦笑するしかなかった。
「……騒がしい。」
ザミエルは短く言い放つ。その視線は仲間でも人混みでもなく、ただ海の先を射抜いている。
港は船と人でごった返していた。帆布のはためきは雷鳴のように響き、タールと魚の匂いが混ざって鼻を刺す。石畳を走る馬車の車輪がきしみ、怒号と笑い声が絶えない。
さらに市街へ足を踏み入れると、そこはまるで異国の市のようだった。干した魚を高々と吊るした屋台、貝殻を磨き上げて装飾品に仕立てる職人、異国風の衣をまとった旅人が香辛料を並べている。
焼き立てのパンと海老を煮込んだスープの香りが、潮風に乗って広がってきた。
「リオール!見ろよ、あれ!丸ごとの魚を串に刺して焼いてやがる!」
オーウェンが指さす先では、炭火の上で大魚が豪快に焼かれ、観光客が列を作っていた。
「…ちょっと脂っこそう。」
ヴァレリスがそっぽを向く。だが鼻先はほんの少し揺れている。
「まぁ……貝殻でこんな細工ができるのねぇ。」
アラエルが足を止めた露店では、小さな貝を組み合わせたペンダントが光っていた。
「お守りになるんだってさ!」
イゾルデが笑い、値切り交渉を始めようとして店主に睨まれ、慌てて引っ込む。
「人混みとかほんと最悪……でも、あの布はかわいくない?」
ヴァインは不満を漏らしながらも、染め物屋の派手な布地に視線を奪われている。
「ほら、結局楽しんでるじゃない。」
アラエルがくすりと笑うと、ヴァインは顔を背けてしまった。
オルテアは露店の串焼きを勝手に手に取り、店主に代金を投げつけるようにして渡したかと思うと...豪快に齧った。
「うんめェなァ!!戦の前に食わねえと損だぞォ?」
「こ、こんな大声で……!」
ペイルは真っ赤になりながら縮こまる。
オスカーとアレクセイは、相変わらず人目を憚らない。
「見てくださいよアレクセイ君、この剣、骨董品らしいですよ?『持つだけで勇気百倍!』…本当ですかね?」
オスカーが露店の武具を勝手に持ち上げ、商人の口調を真似してまくしたてる。
「ふふ、ならば我らは舞台に立つ役者ですねぇ!」
アレクセイが大袈裟に手を広げる。
「喝采を浴びる準備は整った!さあ観客の皆さん、声を上げてください!」
当然、通行人から冷たい視線が返るだけだった。
「……ほんと、あの二人はセットで厄介だな。」
俺は小さくつぶやいた。
一方、少し離れた場所にいたザミエルは、人混みなど眼中にないかのように海を見据えていた。
潮風に揺れる外套の裾だけが動き、視線は一度も街に向かなかった。
その背中は他のみんなとは違う色を帯びているように見えた。
――この遠征に、あいつだけは別の意味を見ている。
活気に満ちた市場のざわめきは、観光に来たような気分にすらさせる。だが俺の胸には、奇妙な圧迫感が残っていた。
――この街は、俺たちの討伐の出発点。
明るい声と匂いに満ちていても、その根底には戦いを控えた緊張が確かにあった。
そして一通りの用事を終え、仲間たちはそれぞれ宿へ向かった。
だが俺は一人、人気のない波止場へ足を運んだ。潮風が肌を刺す中、木刀を呼び出す。
「……やっぱり落ち着くな。」
構えを取り、素振りを始める。潮騒に混じって木刀の風切り音が響く。肩から背にかけて汗が流れ、呼吸はすぐに荒くなった。
「小僧。」
突然声をかけられた。手が一瞬止まりかける。だが俺は木刀を握り直し、そのまま振り続けた。
視線の端に、白髪混じりの老人が立っている。背は少し曲がり、日に焼けた皺深い顔。だが眼光は獲物を狙う鷹のように鋭い。肩には長年使い込まれた銛。
「その木刀……妙なもんを握っとるな。」
軽口めかした声音。俺は返事をせず、木刀を振り下ろす。
「海の怪物にゃ、“怖さ”を飼いならせにゃならん。怖いもんを怖いまんま突っ込める奴だけが、生き残るんじゃ。」
潮風に混じってその声が響く。俺は息を整えながら問い返した。
「……あんたは、討伐に加わるのか?」
「ほっほ、どうだろうなぁ。わしみたいな年寄りでも、呼ばれれば海に出るさ。借りを返すまでは死ねんでな。」
笑っているはずなのに、その声は鋭い刃のように冷たい。
素振りを続ける俺に、老人は淡々と語り続けた。
「小僧。怖さは捨てるな。わしも若い頃は、怖くて震えながら銛を握っとった。けどな、その怖さで獲物を仕留めてきた。……今もそうじゃ。」
俺は木刀を振り下ろしながら耳を澄ませる。潮風の音と老人の声だけが、夜の波止場を支配していた。
「わしはな……怖さで全部失った。村も、家も、家族も。白蓮に飲まれ、跡形もなくなったわ。」
「……。」
「だからこそ、借りを返すんじゃ。怪物を海に沈めるまでは、わしは銛を離さん。」
素振りの動きが、知らず鈍る。老人の声は笑っているのに、その奥からにじむ執念が肌を刺してくる。
「忘れるな、小僧。怖さを抱えたまま立てる奴だけが、最後に生き残る。」
潮騒が一度強く吹き抜けた。気づけば老人の姿は、もうどこにもなかった。
宿へ戻ると、ヴァレリスが怪訝そうにこちらを見た。
「リオール? 顔色が悪いわよ。」
「いや……なんでもない。」
笑ってごまかしたが、胸の奥には重苦しい余韻がこびりついて離れなかった。
――誰だ、あの爺さんは。
ザミエルの低い呟きが頭をよぎる。
「あいつも……来るんだろうな。」
港の喧噪の中で芽生えた違和感は、夜になっても消えなかった。
俺は窓辺に立ち、暗い海を見つめる。
水面の奥に、白蓮の花弁がひらひらと咲き誇る幻影が揺らめいている気がしてならなかった。