無型
翌日の放課後。
訓練場は静まり返っていた。ただ一人を除いて。
中央に立つ影、木刀を構えるカミヤ先生。
その存在だけが、夕暮れの空気を張り詰めさせていた。
「待ちわびたり、リオール君。」
その声に背筋が伸びる。昨日の戦いで叩き込まれた恐怖と熱がまだ体に残っている。
だが、今日は逃げない。先生と交わした約束がある。
「……お願いします。」
俺が木刀を構えたのを確認すると、先生はゆるりと首を振った。
「構えに頼るな。構えは心を縛る。どの姿勢からでも応じられるようにせよ。」
次の瞬間、視界に木刀が走った。
反射で受けようとしたが遅い。肩口に鈍い衝撃が走り、体が揺れる。
「ぐっ……!」
「今のは『受けよう』と思った時点で遅れておる。考えるより先に、身が応ずるようでなければならぬ。」
息を整える間もなく、二撃目。脇腹を打たれ、膝が折れそうになる。
必死に呼吸を整えようとした瞬間、先生の木刀が胸元に突き込まれる。
「息が乱れたな。剣は息なり。吸うとき、吐くとき、そのすべてが刃ぞ。」
言葉と同時に、また一撃。
呼吸を読まれている――そう気づいた瞬間、俺は自分が無意識に隙を晒していたことを理解した。
「呼吸を整えよ。敵に聞かせぬよう、己に聞かせよ。」
歯を食いしばり、深く息を吸い、吐く。
次の斬撃が来る前に、心臓の鼓動と呼吸の流れを合わせた。
木刀が振り下ろされる――今度は辛うじて受け止められた。
「うむ、そのままにてよいぞ。」
初めて先生の口から肯定の言葉が洩れた。
だが木刀は止まらない。打ち込みは間合いを測るように変化し、今度は足を狙ってくる。
「間合ひを違へたりな。」
軽く払われただけで、俺の踏み込みは空を切った。
半歩。ほんの半歩の違いで、全力の斬撃が無に帰す。
「踏み込むことばかりを勝ちと思うな。退くこともまた勝ちにつながる。」
次の瞬間、先生は逆に一歩退いた。
その動きで間合いが狂い、俺の木刀は地面を叩いた。
振り返る前に、背中に木刀の衝撃。砂が舞い上がる。
「ぐあっ……!」
「汝の剣、いまだ直線なり。円にも、曲にも、虚にも応ぜよ。」
先生の言葉が頭に突き刺さる。
立ち上がる。踏み込む。再び弾かれる。
斬り込んでも、捌いても、常に半歩外される。
「勝たんと欲する心は剣を鈍らせる。負けぬよう努めんとする心もまた同じ。心を曇らせれば、それが隙となる。」
俺は叫び声を上げながら振り込んだ。
だが、その叫びが焦りを示す証だったのか、先生の木刀が再び脇腹を打つ。
「怒り、恐怖、焦り……すべてが剣を曇らせる。心はただ在るのみぞ。」
砂に膝をつく。視界が揺れる。
だが倒れている暇はない。
木刀を支えに立ち上がると、先生の瞳がわずかに和らいだ。
「よい。立ち上がるその意志こそ、剣の芽だ。」
言葉と同時に、さらに速い斬撃が降り注ぐ。
受け、外し、捌く。何度も叩き伏せられるが、体が徐々に「考える前に動く」ことを覚えていく。
呼吸を刻み、間合いを測り、心を澄ます。
だが――やはり先生の木刀は常に上を行く。
「視線が泳いでおるぞ。」
今度は顔面に木刀の切っ先が突きつけられる。
「剣を見すぎても、目で追いすぎても遅れる。視線は全体に置け。敵の体を、呼吸を、動きを、すべて視野に含めよ。」
額に汗が滲む。俺は視線を広げ、全体を捉えるように意識した。
その瞬間、先生の木刀が振り上げられる。反射的に木刀を合わせる。
火花のような衝撃。だが今度は弾かれなかった。
「よき悟りを得たりな。」
わずかに褒められ、胸が熱くなる。だが木刀は止まらない。
「力みに縛らるることなかれ!」
強く打ち込んだ俺の木刀は、先生に軽くいなされただけで大きく流された。
「剣は押しつけるものにあらず。力を抜くことで自在となる。水のごとく流れ、風のごとく舞え。」
「っ……!」
力を抜く? そんなことができるのか。
だが言葉通りに意識を変えた瞬間、重心が軽くなった。
木刀の振りがわずかに速くなった気がした。
「その感覚、決して忘るるなかれ。」
先生の木刀が最後に大きく弾き飛ばす。
俺は砂に転がり、息を荒げた。
汗が目に入り、視界が霞む。
だが、先生はさらに口を開いた。
「剣は腕で振るものにあらず。腰を軸とし、大地を踏む足より生まれる。体を柱とし、木刀を枝葉とせよ。」
再び打ち込む。腕に頼った斬撃は軽く払われ、逆に胸を打たれる。
歯を食いしばり、今度は腰を沈めて斬った。
木刀がわずかに重みを増す。
「うむ、それに近づいたな。」
さらに先生は続ける。
「音を聞け。風を聞け。敵の息を聞け。目に頼るばかりでは遅れるぞ。」
耳を澄ます。砂を蹴る音、衣の擦れる音、先生の呼吸。
次の瞬間、木刀が振り下ろされ――俺は音で先に察知し、受け止められた。
「よし、その耳を育てよ。」
何度も打ち込まれ、何度も倒される。
汗が砂を濡らし、掌の皮は裂け、膝は震える。
それでも立ち上がるたびに、呼吸は整い、間合いは掴み、視線は広がり、耳は研ぎ澄まされていく。
「本日はここまでと致そう。」
最後に木刀を弾かれ、砂に転がった俺を見下ろし、先生は木刀を納めた。
肩で息をしながら、俺は必死に顔を上げる。
「今日の汝は百に敗れた。だが百を学んだ。これこそ成長なり。」
その声音は厳しさの奥に、確かな温かさを含んでいた。
俺は震える手で木刀を握り直し、歯を食いしばって答える。
「……次は……先生の一撃を、受け流してみせます……!」
先生は微かに笑みを浮かべ、夕暮れの空を背に立っていた。
訓練場に吹く風が、俺の火照った頬を冷やしていく。
木刀の音だけが、胸の奥に残り続けていた。




