...迷った。
「……どうする。」
気づけば、もう一時間は歩き回っていた。何も決められないまま、同じところをぐるぐると回っている気がする。胸を締め付けているのは、ユンタルの存在だ。子爵家の坊ちゃん――俺の中ではすでに“タル坊”と呼ぶことにした。彼と決闘するのは避けられない。
負ければ奴隷だ。屈辱にまみれた未来が待っている。最悪、内部から派閥を壊すという手もあるのかもしれないが……あまりにも現実味がない。
「ここ……どこだ。」
足を止めて周囲を見渡す。森。いつの間にか、学園の街並みから大きく外れていた。人の姿は一人もなく、鬱蒼と茂る木々ばかり。陽の光は枝葉に遮られ、地面には昼間とは思えないほど濃い影が落ちている。耳に入るのは鳥の声だけだ。
「……圧倒的に迷子だな。タル坊に負けるより、みじめな結末かもしれない。」
吐き出すように呟いた声が、森に吸い込まれていく。戻ろうとしたが、枝の形も、地面に散らばる落ち葉も、どれも似通っていて目印にならない。急ぎ足で進めば進むほど、道は深みに入り込むだけだった。
「……出られるかどうかすら怪しい。」
心が少しずつ沈んでいく。木刀を握る手にも汗が滲んだ。そう思ったとき、不意に声がした。
「おい、坊主。ここから出たいか?」
「ッ!?」
低い声だった。地の底から響くような、おぞましい声。耳に届いた瞬間、背筋に冷たいものが走る。これは絶対に聞いてはいけない声だ。悪魔。そんな言葉が自然と浮かんでいた。
「誰が悪魔だって?」
脳裏に響く声が答える。……心を読まれている。間違いない。
「はっはっはっ。お前、面白いな!」
見えない存在が笑った。冗談のような響きなのに、背中をぞわりと撫でるような嫌な感覚が残る。
「出たいなら、こっちへ来い。出口はこっちだ。」
言葉に合わせ、目の前に炎が現れた。宙に浮かぶ緑色の小さな火の玉。まるで生き物のように揺らめき、俺を誘うように進んでいく。
「……本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫だ。心配するな。」
声は自信に満ちている。疑念は消えない。それでも、導きに逆らう理由はなかった。引き返せば、タル坊との勝負で確実に地獄を見る。ならば、進むしかない。
森はさらに深くなる。獣の唸り声が遠くに響いた。風が木々を揺らし、ざわめきは不気味に耳を打つ。
「……出口なんですよね?」
「しつこいな。大丈夫だと言っただろう。」
言葉の鋭さに押されるようにして、さらに奥へと歩く。
やがて視界が開け、古びた遺跡のような建物が現れた。崩れた石壁、苔むした柱。自然に飲み込まれた廃墟。
「ここが……出口ですか?」
「んなわけないだろう。馬鹿か?」
嘲笑が返ってきた。心の奥に冷たいものが沈む。
「まぁいい。中に入れ。」
「……怪しいにもほどがあるだろ。」
思わず立ち止まる。だが声は続ける。
「そんなことを言うな。お前、自分のヴェルディアをまだ把握できていないだろう。俺なら、それを強くしてやれる。」
胸が強く脈打った。俺が抱えていた不安を、見透かしたように突いてくる。どうして知っているのか。なぜ、俺のことをここまで分かっているのか。
「理由は簡単だ。俺はここにいる全てを知っている。……それに、この中の時間は外とは違う。ここで一年過ごしても、向こうでは一秒にしかならない。」
現実離れした言葉。それでも、否定できなかった。目の前の異質さが、逆に説得力を帯びていた。
「年は取らねぇ。空腹も、ほんのわずかしか感じない。水がなくても一か月は生きられる。」
「……しばらく、ここにいさせてください。」
自分の口から自然に答えが漏れていた。声は満足そうに笑い、名を告げる。
「そうか。お前はリオールというのか。なら、俺は……師匠とでも呼べ。」
気づけば、石段を下りていた。足音が冷たい反響を残す。学園に入ってわずか三時間。なぜ知らぬ存在に導かれ、こんな地下へ降りているのか。疑問は尽きないが、立ち止まる余地はなかった。
「着いたぞ。この扉を開けろ。」
重厚な扉。両手で押すと、ゆっくりと開いていく。中にあったのは、宙に浮かぶ花の球根のようなものと、一体の人形だった。奇妙な光景に息をのむ。
次の瞬間――
ドォン、と背後の扉が閉ざされた。
「……閉じ込められた?」
慌てて叩き、蹴る。石を投げつける。だがびくともしない。最後は頭から突っ込むような無茶までしたが、結果は同じだった。声ももう返ってこない。
「……仕方ない。探索するしかないか。」
諦めを胸に押し込み、足を進める。まず気になったのは花の球根だった。光を帯びながら宙に浮かび、静かに脈動している。
恐る恐る手を伸ばす。指先が触れた瞬間――
「qasdvsjklhd;fjlahkldflkhalhgslgkl;」
頭の奥に直接、奇怪な響きが流れ込んできた。脳が悲鳴を上げる。だが体は逆に引き寄せられるように動き、球根を掴み、口に運んでいた。
「やめろ……!」
心の叫びも虚しく、喉を通っていく。
次の瞬間、全身を貫いたのは筆舌しがたい苦痛だった。
焼かれる、刺される、切り裂かれる……人が想像できるあらゆる苦痛が、一度に押し寄せる。血管を駆け巡り、骨を砕き、魂までも焼き尽くすかのような痛み。
「アアアァァァ――!!!」
叫びは声にならず、喉を裂くような悲鳴だけが響く。
やがて意識は、闇に飲まれていった。




