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存在喝采

実験室に再び静寂が戻っていた。

だが俺の耳にはまだ、遠い拍手が鈍く響いている。舞台は消えたはずなのに、胸の奥に残る余韻はしぶとく、呼吸のたびに肺を震わせた。


黒鍵のペンダントはただ静かに横たわっている。けれどその表面には、まるで心臓のようにかすかな脈打ちが伝わっていた。


「ふぅ……」

アレクセイが深く息を吐き、大仰に胸へ手を当てた。

「やはり喝采とは、なんと罪深いものか。あの熱狂の渦、その甘美な重圧……。演者にとっては蜜であり、毒でもある。あと一歩でワタクシは――舞台に取り込まれるところでした」


言葉の端々には誇らしさと恐怖が混じっていた。

彼の瞳はまだ光を宿していて、完全には日常へ戻っていない。


「全く、自覚があるならもっと気をつけなさい」

リリアが杖を抱き、冷ややかに告げる。

「あなた一人が舞台に消えるだけならいいけど、こっちは付き合わされるんだから」


「まぁまぁ」

ジェムが片手をひらひらさせ、無理やり場を軽くした。

「でもさぁ、あれだけ喝采を浴びて戻ってきたんだ。案外、アレクセイって舞台向きなのかも?」


「観測。臨界寸前。舞台適性、危険域」

ブルーノの短い言葉が、実験室を一層重くした。


アレクセイはそれを受け、深々と一礼する。

「危うきほどに価値あるものです。喝采に呑まれぬ役者こそ、本物の舞台人でありましょう」


――その直後だった。


「さて」

ミレーユが静かに口を開いた。懐中時計を指で転がしながら、主任らしい声を響かせる。

「残響位相が最終的に偏差12を超えた。これは小規模ながら《劇場恒常化》に移行しかけた兆候だね。アレクセイ君の精神構造なら、限界は同調率82%前後……。それを超えれば遺物が“舞台そのもの”へ自立する危険がある」


「そうだね。」

エレノア先生がすぐさま応じ、ペンを走らせる。

「幻質粒子は自己循環に入り、《残響伝導率》が臨界を越える。観客残響が40dBを超えた時点で既に臨界兆候は出ていた。つまり、喝采そのものが擬似的な演算子となり、舞台を閉曲面として固定する」


「演算子! つまり《舞台演算式》は擬似閉曲面方程式に従う……!」

ミレーユの瞳が輝く。

「なら、境界条件をアレクセイ君の精神エネルギーに設定すれば、有限時間内の舞台永続も可能じゃないかな? ただしエネルギー収支は負になるから、持続時間は指数関数的に減少するはず」


「いや、収支の問題じゃない」

エレノア先生は眼鏡を押し上げ、滑らかに続ける。

「問題は《観客残響》が音圧から存在へ変質する点だ。喝采が環境音ではなく、実体化した観客群として作用し始める。それを『存在喝采』と仮称しよう」


「わぁ……素敵なネーミングだね!」

ミレーユが小さく手を叩いた。

「存在喝采が成立すれば、舞台上の演目が環境法則を書き換える。重力、温度、時間――全部“演出”として操作可能になる。……ただし、演者の精神が主体を失った瞬間に不可逆化する」


「つまり論文三本どころじゃないな」

エレノア先生はにやりと笑い、ペンを止めた。

「ボクなら十本は書けるね。」


「わたしは二十本いけるよ!」

ミレーユが即座に応戦する。

「だってまだ観測してない変数がいっぱいあるもの。《喝采減衰曲線》とか、《幕下り後の残響指数》とか! “舞台閉鎖後の残留共鳴”を調べるだけでも、新しい学説が立てられる!」


「えっと……」

ジェムが困ったように視線を彷徨わせる。

「ねぇ、これってボクら聞いてなくても大丈夫だよね?」


「大丈夫じゃないが、どうせ止まらないな...。」

ルキウスが疲れた声でタブレットを閉じた。

「この二人が議論を始めると数時間は続く。」


「ほんとよね」

リリアが肩を竦める。

「私たちが何言っても、もう耳に入ってない」


「聞いていない。だが、安定はしている」

ブルーノが淡々と返し、さらに場を白けさせた。


ミレーユとエレノア先生の議論は止まらない。


「存在喝采が成立するなら、演者は観測者ではなく“演算子”になる……つまり精神が関数化するんだ!」

ミレーユが身振りで熱弁する。


「ならば次は、《精神関数化仮説》としてまとめるべきだな」

エレノア先生がすかさずペンを走らせる。

「舞台は人を呑み込むのではなく、人を方程式に変換する。その過程こそが“呑まれる”の正体かもしれん」


「……」

俺はその応酬を聞きながら、言葉を失った。

学術的には恐ろしく価値のあることなのかもしれない。だが、今の俺にはただ、あの喝采に包まれた時の恐怖が蘇るばかりだった。


アレクセイはそんな二人を見て、芝居がかった笑みを浮かべる。

「科学者たちの舞台も、また壮大な演目ですな。ワタクシはただ喝采を浴び、役を演じるだけで十分でございます」


誰も彼も、自分の役を果たしている。

研究者は真理を求め、役者は喝采を求める。

――では俺は、何を求めてここにいるのだろう。


黒鍵は静かに沈黙していた。

だが耳の奥にはまだ、遠い観客の笑い声と拍手が、消えずに残っていた。

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