研究者の舞台-終幕
「――第三段階、開始。出力四割へ」
ルキウスが短く告げた瞬間、黒鍵が強烈に震えた。
低い唸りが床を這い、実験室の景色が一変する。
板張りの床が軋み、壁は漆黒の幕に塗り替えられ、天井からは強烈な照明が降り注いだ。
一瞬でここは“劇場”となり、俺たちは観客席のただ中に放り込まれたような錯覚を覚える。
「空間そのものが、演出に従い始めた……」
エレノア先生が記録を取りながら呟く。
「これは報告を受けていたソリスト本体の現象に近い。だが、規模は縮小されている」
「観客残響、38dB……42……上昇中」
ブルーノの低い声が室内を切り裂く。
「幻質粒子密度、54ppm。残響位相、偏差11.8」
ミレーユは懐中時計を掲げ、針を弾いた。
「出力の上昇速度が早い。……みんな、冷静に。呼吸を舞台のリズムに合わせないよう意識して」
声は幼い外見に似合わぬ落ち着きで、室内の空気を安定させた。
アレクセイが舞台中央に立ち、深々と礼をした。
「本日お届けする演目は――悲劇でございます!」
その瞬間、照明が赤く染まる。
温度が跳ね上がり、息苦しさが肺を満たした。床板が裂け、炎の幻影が舌を伸ばす。
観客席の幻影が一斉に立ち上がり、烈しい拍手と声援を浴びせかける。
「観客残響、56dB! 幻質粒子密度、65ppm!」
ブルーノが報告する。
「シナプス同調率、68%。MSI、53%。……侵蝕閾値へ接近!」
ルキウスの声が鋭さを増す。
「アレクセイ君、意識を保って!」
ミレーユの指示が飛ぶ。
「火は幻影。熱は脳の錯覚にすぎない。――役を演じるのは君自身だけだよ!」
だがアレクセイは陶酔に震える声で応えた。
「この喝采! この熱! まさしく舞台の華!」
俺は思わず木刀を握った。
アレクセイの声色は、すでにソリストの影を帯びていた。
「主観干渉値、急増! 同調率、72%!」
ルキウスが叫ぶ。
「リリア、幻影を上書き!」
「了解!」
リリアが杖を振り下ろし、白い光を観客席へ散布する。
炎の色が淡く薄まり、喝采の輪郭がわずかに揺らいだ。
「干渉、減衰効果あり。だが不足」
ルキウスの報告。
「主任、時間を!」
「――了解」
ミレーユの声が低く響いた。
懐中時計の針が狂ったように回り、空間全体のテンポが半拍遅れた。
喝采がねばり気を帯び、炎の揺れも鈍る。
「同調率、74%で頭打ち。侵蝕率、緩和……」
ルキウスが眉をひそめた。
「だが安定していない!」
その瞬間、アレクセイが再び声を放った。
「幕を変えろ! ――喜劇だ!」
炎は掻き消え、舞台は一転して鮮やかな花吹雪に包まれた。
だが華やかさとは裏腹に、観客席からの笑い声は甲高く、刃のように突き刺さる。
笑いは頭蓋の内側を叩き、思考を削り取っていく。
「MSI、47%! 同調率、77%!」
ルキウスが声を荒げた。
「ジェム、遮断を!」
「任せて!」
ジェムが短剣を叩き、灰色の膜がアレクセイを包む。
視覚と聴覚が鈍化し、花吹雪と笑い声が弱まる。
だがアレクセイの瞳はなお輝きを増していた。
「観客よ! もっと声を――!」
叫びは遮断を突き破り、舞台を震わせた。
「ブルーノ!」
ルキウスの指示に、巨体が駆ける。
鋼の腕がアレクセイの肩を押さえ、動きを封じ込める。
「力学拘束、成功……だが、舞台が抵抗!」
ブルーノの低い声が響く。
実際、板張りの床が隆起し、拘束する彼をも舞台の“役者”に取り込もうと蠢いていた。
「MSI44%! 臨界突破寸前!」
ルキウスの声が緊迫する。
そのとき、ミレーユが強い声で命じた。
「アレクセイ! 聞きなさい――舞台は観客のものじゃない。演目を決めるのは演者、あなただけ! “幕を下ろす”と宣言すれば、すべては終わる!」
彼女の瞳は幼さを消し、年長者の落ち着きを帯びていた。
主任として、役者に指示を下す者の声だった。
アレクセイは荒い息を吐き、やがて大仰に片手を掲げた。
「――終幕だ!」
緞帳がゆっくり降り、照明が一斉に消える。
観客の幻影は崩れ、喝采も笑いも霧散していった。
実験室には再び薬品と機械の匂いだけが残る。
「……同調率、58%へ低下。MSI、65%回復」
ルキウスが深く息を吐いた。
「第三段階――収束。緊急手順、全処理完了」
ジェムが短く笛を吹く真似をして肩を竦めた。
「いやぁ、落とさずに済んでよかったよ。あと一歩で強制ダウンだったね」
ブルーノは拘束を解き、静かに頷く。
「観測終了。記録、正常」
ミレーユは懐中時計を閉じ、主任らしい落ち着きで言葉を落とした。
「空間を支配する――これがソリストの遺物の真骨頂。けれど、君の舞台はまだ未完成。喝采を浴びるほど強くなるけれど、その分だけ呑まれやすくもなるよ。」
アレクセイは深く礼をし、芝居がかった声で応じる。
「観客の幻影に飲まれるなど、役者の恥。……ワタクシ、心に刻みますとも」
エレオノーラ先生がペンを走らせながら呟いた。
「結論――遺物は演者の宣言に応じて空間を変質させる。だが同調時間の延長は危険。実用化するなら制御法の確立が前提だな」
ミレーユはふっと息をつき、柔らかい声へ戻った。
「今日はここまでにしよう。よく頑張ったね。――心を休ませて、また明日、同じ自分でいられるように」
黒鍵は静かに沈黙していた。
けれど俺の耳の奥には、まだ遠い拍手が、消え残っていた。




