研究者の舞台
銀の台座に置かれた黒鍵のペンダントが、静かに揺れた。
その小さな震えは、まるで心臓が打つかのようで、見ているだけで胸の奥をざわつかせる。
室内には薬品の匂いが漂い、機械の低い唸りが絶えず響いていた。
張り詰めた空気の中、俺たちの視線はすべて、その黒鍵に集まっていた。
「第一段階――開始」
ルキウスの短い指示が落ちる。
すぐに観測機器が稼働音を立て、モニターの数値が揺らぎ始めた。
アレクセイは一歩前へ進み、芝居がかった動作で胸に手を当てる。
「ソリストの残響……その幕を、ワタクシが引き継ぎましょう!」
ペンダントが淡く鳴き、床に黒い幕が垂れ落ちた。
静かな波紋のように広がる黒は、壁を侵すことなく、しかし確実に“舞台”の気配を生んでいく。
照明が一つ、天井に走り、アレクセイを照らした。
観客席の輪郭はまだぼんやりとして、影が座っているのかさえ曖昧。
だが、そこに確かに「場」が成立している。
「残響位相、安定。変動率0.3%」
ブルーノの低い声が響く。
「幻質粒子密度、3ppm。基準値以内」
「シナプス同調率、12%。主観干渉値、低位安定」
ルキウスがタブレットを見つめながら告げる。
「舞台同調時間、30秒経過」
リリアが杖を握り、冷ややかな声で読み上げる。
「……幻質投影の初期安定度がここまで高いとはね」
エレノア先生が記録に走らせたペンを止め、眼鏡越しに舞台を睨む。
「通常なら影像はもっと歪むはずだ。さすがはソリストの遺物、というべきか」
アレクセイは両腕を広げ、誇らしげに笑った。
「おお……! 喝采はまだ聞こえませんが、この張り詰めた空気! まさしく舞台のそれですな!」
彼の声が響くと同時に、幕はわずかに揺らいだ。
幻質投影が安定し、照明の輪郭がさらに明瞭になる。
「一分経過。精神安定指数、93%。干渉は微弱」
ルキウスが冷静に告げる。
「第一段階――終了。安定確認」
ふっと、張り詰めた空気がわずかに和らぐ。
そのときのミレーユは、いつもの無邪気さを潜めた落ち着いた声で言った。
「ここまでは順調。だけど――ここからが本当の試練だよ」
幼い容姿に似つかわしくない響きが、主任としての存在感を示していた。
「第二段階、開始。出力を二割まで引き上げます」
ルキウスが指を滑らせる。モニターが一斉に数値を跳ね上げ、低い警告音が鳴った。
黒鍵の鼓動が強くなる。
舞台の幕はさらに広がり、観客席に列が生まれた。
影はより明確な輪郭を得て、ざわめきが室内の空気を震わせる。
「観客残響、10dB……12……15dB」
ブルーノの報告が重なる。
「幻質粒子密度、22ppm。残響位相、偏差2.9」
「シナプス同調率、34%。干渉値、急上昇中」
ルキウスの声が低くなった。
やがて、音を持たぬ口が合わさり、拍手が音となって響き始めた。
「アンコール!」「もっと!」
幻影の観客が一斉に声を上げる。
喝采は空気を震わせ、胸を打ち抜く。
俺は思わず呼吸を詰めた。
「ははっ……! ついに喝采が、聞こえますぞ!」
アレクセイの瞳が輝き、口元に笑みが広がった。
しかし、その笑みはどこかソリストのそれに似ていた。
「アレクセイ!」
俺の声が思わず上ずる。
「主観干渉値、危険域手前。だが、まだ侵蝕閾値には届かない」
ルキウスが冷静に状況を刻む。
「幻影を薄めます」
リリアが杖を振り、観客席に淡い光を散布した。
人影の輪郭が滲み、喝采の圧が少し緩む。
「感覚遮断もすぐに入れられる。……でも、ここは本人に任せようか」
ジェムが軽い調子で言いながら、短剣の柄を握り直した。
そのとき、ミレーユが懐中時計を鳴らす。
「時間を少し遅くするね。」
低く落ち着いた声が響き、空気が粘度を帯びた。
喝采のテンポが半拍遅れ、アレクセイの肩の力が抜ける。
彼は深く息を吸い込み、胸を張って叫んだ。
「――この舞台は、ワタクシのものだ!」
喝采が揺らぎ、観客の幻影が崩れ落ちる。
残ったのは黒幕と照明の跡だけ。
「シナプス同調率、28%へ低下。精神安定指数、88%へ回復」
ルキウスが静かに報告する。
「第二段階――終了。安全圏内で収束」
アレクセイは大仰に礼をして笑った。
「喝采は甘美でしたが……ワタクシを呑むには至りませんでしたな!」
「……今のは際どかったけど」
リリアが淡々と告げる。
「でも緊急手順を使わずに済んだんだ。大成功じゃない?」
ジェムが満足げに笑い、ブルーノが頷いた。
「観測完了。異常なし」
ミレーユは懐中時計を閉じ、主任らしい落ち着きを湛えて言った。
「よく持ちこたえたね。……でも次は、もっと深い。喝采に抗えなければ、本当に呑まれてしまう」
黒鍵は静かに脈を打ち続けていた。
その鼓動は、まだ終わらぬ舞台の幕開けを告げているようだった。