恋じゃなくとも
潮溜まりを泳ぐ雲のようにわたしも泳ぐ。
春子は、二十五歳になった。
同級生の中には、都会に出て結婚した人もいれば、もう子どもがいる人もいる。
SNSをひらけば、まぶしい笑顔と高そうなバッグ、知らない駅のホームが次々に流れてくる。
そのたびに、自分の暮らしは、ほとんど変わっていないな、と思う。
潮風にさらされて髪がきしみ、安い化粧水を肌にのばす。
高校生のころのような、つるんとした肌にはもう戻れない。
鏡の前に立って、自分の顔を見つめるたびに、ふっと気持ちが沈む。
頬骨が少し出ているのが気になって、鼻筋もメイクじゃごまかせない。
「もう二十五だし。」と口に出してみると、不思議と何かが終わったような気がして、胸がぎゅっとなった。
祖母が営む小さな美容室には、地元の人たちがよくやってくる。
そのなかに「宮田さん」という常連がいる。
釣具屋の息子で、春子より二つ年上。
昔はバイク仲間と夜の道を走っていたけれど、今は店を継いで、父親と一緒に働いている。
ある日、美容室のシャッターを下ろしていたとき、宮田さんがふいに声をかけてきた。
「潮の匂い、好き?」
唐突な問いに、春子は思わず笑ってしまった。
「嫌いだよ。ずっと同じ匂いしかしないし。」
「でもさ、都会に出たやつら、たまに帰ってきて言うじゃん。『やっぱこれだよな』って。」
「強がってるんだよ。」
「……でも、強がりって、生きてくのに必要じゃね?」
その夜、春子は久しぶりにノートを開いた。
日記というより、ぽつぽつと思いついた言葉を書き留めてきた、小さな自分だけの世界。
“強がりって、生きてくのに必要?”
その言葉を、ページの余白にそっと書いた。
数日後、宮田さんが髪を切りに来た。
「春ちゃんって、なんで都会に行かなかったの?」
「……向いてないと思ったから。」
「それ、自分で決めたの?」
「わかんない。誰かに言われたわけじゃないけど、なんとなく、そう思ってた。」
少しの沈黙のあと、宮田さんがぽつりと言った。
「俺さ、春ちゃんの笑い方、すげー好きなんだけど。」
思いがけない言葉に、春子は小さく声を飲み込んで、視線をそらした。
「そんなの、変なとこだよ。」
「変なとこが、いいんだよ。誰も真似できないし。」
胸の奥が、そっと波立った。
笑いたかったけど、うれしくて笑えなかった。
帰り道、空は薄い桃色で、波が静かに岸に寄せていた。
潮だまりに映る空を見ながら、春子は思った。
「自分って、誰かの目に映ってるんだな。」
それは、ずっと忘れていた感覚だった。
恋だかどうかなんて、今はまだわからない。
でも、あのときの一言
「すげー好きなんだけど。」
は、春子のなかに、やわらかく小さな波を立てていた。
布団にくるまりながら、春子は考える。
私は、いったい何者なんだろう。
二十五歳。地元の古い美容室で働いていて、都会に出る勇気もない。
結婚もしていないし、昇進とも無縁。自由な暮らしも知らない。
「私、まだ子どもなのかもしれないな。」
そんなふうに、素直に思えた。
同じ年の友人がインスタに載せていた、白くて整った部屋。
どうしてあの子はあんなに「大人」に見えるんだろう。
私の時間だけが、どこかで止まってしまったみたい。
制服を脱いだその日から、ただ流れるままに、ここにいる。
大人のふりをして、毎日髪を切って、ごはんを作って、眠るだけ。
だけど、わかることもある。
私は、きっと笑っていられる。
誰かが、自分をちゃんと見てくれた。
それだけで、人生のなかにひとつ、確かな灯りがともったようだった。
それが恋の優しさでも、友情でも。
海は変わらない。
でも、潮の満ち引きは、毎日少しずつ違う。
春子も、そうなのかもしれない。
大きな変化はなくても、すこしずつ、少しずつ。
誰かと向き合い、断ったり、受け入れたりしながら、
「わたし」として、この町に立っている。
⸻
ある日、スマホに通知が届いた。
宮田さんからだった。
「来週、花火あるってよ。……行かね?」
画面を見つめて、春子はふっと笑った。
迷いながらも、たぶん、行くと思う。
これが恋じゃなくとも、あの人のとなりで笑っていたい、そう思える自分が、たしかにここにいる。
花火大会の夜。
春子は、町の坂道をゆっくりと上っていった。
浴衣を着るほどの気持ちにはなれなくて、薄いブラウスにジーンズ。
海辺の空き地には、小さな屋台と笑い声、舞い上がる砂煙。
子どもたちが走り回り、大人たちはビール片手に語り合っていた。
宮田さんは、少し遅れてやってきた。
コンビニ袋の中から、パックのかき氷を差し出す。
「なんかさ、俺たち、昔からあんま変わってないな。」
「うん。」
「変わってないのに、ちょっとだけ大人になったっていうか……わかる?」
「わかる。たぶん、すごくわかるよ。」
その夜、何度も笑った。
肩がふと触れたけれど、それ以上のことはなかった。
手もつながず、告白もしないまま、ふたりは同じ星を見上げて、並んで帰った。
でも、それでよかった。
春子は心からそう思った。
ちゃんと人と向き合えたこと。
それが、なによりも大事だった。
⸻
日々はまた、変わらず続いていく。
美容室には、今日も変わらないお客さんたちがやってくる。
祖母は春子の動きを見守るように、そっと笑う。
「春子は、これからどうするんだい?」
ある日、祖母がぽつりと聞いた。
「……わからない。でも、今はまだ、ここにいたいかな。」
「そうかい。」
それだけ言って、祖母は静かに髪にブラシを通した。
春子は、自分の“未完成”をようやく受け入れられるようになってきた。
誰かみたいに輝いていなくても、なにも特別なことがなくても、
それでも、今日をちゃんと生きている。
焦ってもいい。立ち止まってもいい。
町の空も海も風も、変わらずここにある。
そして祖母が、言葉にしなくても、ずっと春子を支えてくれている。
⸻
映画のように、人生は一晩で変わったりはしない。
奇跡も、劇的な別れも、そう簡単には訪れない。
でも、それでいいのだと思う。
いつか町を出てもいい。
ここで、生きる意味を見つけられたのなら、それがなにより幸せだ。
⸻
今日も、春子は海を見ている。
小さな潮だまりの中に、空が泳いでいる。
すこし揺れて、でも確かに、そこにある。
春子は、この町に立っている。
未完成なまま、ゆっくりと、大人になっていく。
宮田編ーーー
潮風は、いつも同じ匂いがする。
けど、嫌いになれたことは、一度もない。
釣具屋のシャッターを下ろすたび、ほんの少しだけ、遠くを見てしまう。
海の向こうとかじゃなくて、この町の、もう少し奥のほう。
春ちゃんを見かけるのは、美容室の前。
古くなったガラスのドア越しに、背筋を伸ばして働く彼女の姿があった。
よく笑う子だった。けど、最近はちょっと、疲れて見える。
たぶん、自分もそうなんだろうなって思った。
ある日、ふと口にした。
「潮の匂い、好き?」
我ながら、何言ってんだって思ったけど、
春ちゃんは、ちゃんと笑ってくれた。
「嫌いだった。ずっと同じ匂いしかしないから。」
その返しに、なぜだか少し救われた。
俺の感じてた「変わらなさ。」を、彼女もちゃんと知ってたから。
それが、なんとなくうれしかった。
数日後、美容室に行った。髪を切ってもらうのは口実みたいなもんだった。
ただ、春ちゃんと話したかった。
理由なんて、いつもあとからついてくる。
「春ちゃんって、なんで都会行かなかったの?」
自分で聞いといて、少しだけ後悔した。
だけど、その答えを聞いたとき、胸の奥がちょっとだけじんとした。
「……わかんない。誰かに言われたわけじゃないけど、なんとなく、そう思ってた。」
俺も、たぶんそうだった。
跡を継ぐって言えば聞こえはいいけど、正直に言えば「なんとなく。」だった。
でも、その「なんとなく。」を、ちゃんと選び続けてること。
それって、すごいことなんじゃないかって、春子を見てて思った。
だから、口に出た。
「俺さ、春ちゃんの笑い方、すげー好きなんだけど」
そう言った瞬間、心臓がばくばく鳴って、手のひらが汗ばんだ。
春ちゃんは目をそらしたけど、逃げはしなかった。
それが、なんだかものすごくうれしかった。
花火大会の夜。
LINEで「行かね?」って送るだけで、どれだけ時間がかかったか。
送ったあと、スマホを握った手がじっとりと濡れていた。
春ちゃんは、約束どおり来てくれた。
ジーンズに薄いブラウスがよく似合う。
ほんの少しだけ、浴衣を見たかった。
それでも、屋台の明かりが彼女の横顔を照らすたび、ちょっとだけ見とれてしまう。
コンビニのかき氷を差し出しながら、なんでもない会話をした。
でも、心はずっと「なんか、すごいことが起きてる。」って言ってた。
肩が少しだけ触れて、それだけなのに、手をつなぐ勇気は出なかった。
星を見上げるふたりの間に、静かに流れる時間があった。
それで、よかった。
今日の春ちゃんの笑いが、俺には、ちゃんと届いてたから。
日々はまた、戻っていく。
釣具屋は変わらず開き、美容室の前を通るたび、ガラス越しに見える春ちゃんの姿を目で追ってしまう。
なにかが劇的に変わるわけじゃない。
でも、少しだけ世界が優しくなった気がするのは、きっと春ちゃんが、自分の世界に少しだけ俺を入れてくれたから。
それが恋でも、ただの優しさでも、
その日々が潮だまりの水みたいに、俺の中にたまっていく。
少しずつあたたかくなって、
やがて、ちゃんと光を映せるような、そんな日が来るといいと思う。