第八話:毒なき夜に、愛を
夜風が吹き抜ける屋敷のバルコニーで、カミラは一人、空を仰いでいた。
毒も、偽装も、仮面も身にまとっていない自分。
それは、これまでの人生で最も脆く、けれど最も“生きている”と感じられる瞬間だった。
足音もなく現れたハロルドが、黙って隣に並ぶ。
「……今夜は、薬も演技もいらないみたいだね」
「ええ。……なぜかしら、あなたの声を聞いていると、心臓の鼓動が“自然”になるの」
カミラの言葉に、ハロルドはふっと笑った。
「それは医者として嬉しいけど……それ以上に、“一人の男”として救われる気がする」
二人の間に沈黙が流れる。だがそれは、不快でも気まずくもない。
互いの呼吸を感じ合う、心地よい静けさ。
そんなときだった。
「随分と丸くなったじゃないか、“黒百合の姫”」
冷たい、刺すような声が背後から響く。
振り向けば、そこに立っていたのは――
白髪に金の眼。かつて“黒の園”で、カミラの訓練を担当していた毒の達人、ヘルマ・フォン・ゼクト。
「……生きていたのね、ヘルマ」
「死ぬ理由がなかった。あんたのような“期待外れ”を見るためにな」
カミラの指が無意識に震える。
彼女にとってヘルマは、“毒”そのものを叩き込まれた過去の象徴。
肉体も精神も、その女の手によって作り替えられた。
「何しに来たの?」
「確認しに来ただけさ。
“死を演出する暗殺者”が、“恋などという毒にもならない幻想”に溺れていないかどうか」
ハロルドが一歩前に出る。
「彼女に近づくな。もう過去の鎖で縛るような真似は――」
「何様のつもりだい? 医者風情が」
ヘルマの足元に、煙のような何かが立ち上った。
「……これは!」
「心配しないで。ただの幻覚性の香煙よ。
“真実”を引き出すだけのもの」
カミラの視界がわずかに霞む。心拍数が上がる。
(――また、“毒”の世界に引き戻される……?)
けれど、カミラは目を閉じて深く息を吐いた。
「……私はもう、戻らない。
あの頃の私には、確かに“毒”しかなかったけれど、今は“別の力”がある」
ヘルマは鼻で笑った。
「それが恋だと? 愚かな。
それは何よりも脆く、裏切りやすく、変質する。
そんなものに賭けるぐらいなら、私の教えを信じろ」
「信じないわ。だって私は、あなたに“生き方”を教わっていない。
“殺し方”しか、教えられていないもの」
そう言い放ったカミラの背後に、ハロルドがそっと立つ。
「……彼女はもう、誰の教えにも染まらない。
彼女自身の“選択”で、毒を超えようとしてる」
「面白い男ね。
……なら見せてみなさい、カミラ。
次にあなたが“愛”で誰かを救えるかどうか――それをね」
そう言い残して、ヘルマは夜の闇へと消えた。
後日、帝都で立て続けに市民が倒れる事件が発生する。
原因は不明。症状は呼吸困難、視覚異常、幻覚。
カミラは気づく。
(これは……あの女の“試験”)
毒を超えて、愛に生きる。
それが幻想でないことを証明するには――“市民”を守らなければならない。
「私がやるわ。……この“毒”には、私にしか対応できない」
その言葉に、ハロルドは一瞬、言葉を失ったが、
やがてそっと手を重ねた。
「でも一人で行かせる気はない。俺は君の“抗毒”になる。
……君が毒に染まらないために」
こうしてふたりは、“毒”の過去と“愛”の未来を天秤にかけながら、
新たな任務へと歩み出す。