第三話:仮面の下にあるもの
「そのお茶、薬草が入ってるの。香りはいいけれど、胃には重いわ」
薄暗い書斎で、カミラ・フォン・エーデルシュタインはティーカップをそっと机に戻した。
柔らかな微笑み。その奥にあるのは、冷徹な計算。
対面するのは、評議員の後任候補であり、表向き“善良な改革派”として名を挙げている男、イヴァン・グランツ。
「いやはや、さすが噂通り。味にまで繊細な感覚をお持ちで」
「ふふ。長く床に臥せっておりますと、味覚くらいしか楽しみがないものですわ」
そう言いながらも、彼女は相手の口元、指先、飲み込む喉の動きをじっと観察している。
次の“処理対象”が本当に彼なのか――まだ確定ではない。
トゥリスタン伯の死は、今のところ“心臓発作”で処理されていた。
誰も、病弱な令嬢が彼に触れた瞬間、毒針で心臓を撃ち抜いたとは気づかない。
しかし、ひとりだけ――
「……演技、とは思いたくないのですがね」
帝都医師団、侍医ハロルド・ベイルは、資料を閉じて呟いた。
彼がカミラの心音を聴診したあの日から、違和感はずっと胸にあった。
彼女の心拍は、確かに“不自然なほど綺麗に不規則”だったのだ。
薬物反応は出ていない――だが、それが逆に怪しい。
「脈を乱す毒が存在するとすれば……」
彼の指は記録帳の名をなぞった。
『カミラ・フォン・エーデルシュタイン:生後7歳時に誘拐未遂の記録あり』
その先の記録は“不可解なほど空白”。
貴族の娘であれば、社交デビュー、教育記録、成績などが並ぶはずだ。
(――ある時期から、彼女の“存在”は虚無になっている)
何かが隠されている。そう、意図的に。
一方そのころ。
夜の執務室で、カミラはひとり仮面を脱ぎ、黒のレースをまとった衣装に着替えていた。
手袋をはめる指先は優雅で、けれどその下には、毒針や微細な刃が仕込まれている。
今日の標的は、グランツ候補の側近――
奴が情報を横流しし、裏でトゥリスタン伯と繋がっていた証拠をつかんだ。
だがグランツ本人はまだ“白”。だからこそ、“黒”を切り落とすのだ。
夜会の隙を突いて、側近の男の部屋へと忍び込む。
カミラは物音ひとつ立てず、部屋の窓から入り込んだ。
ベッドの脇に立ち、男の寝息を確認する。
ゆっくりと、礼儀作法のようにスカートの裾を少し持ち上げ――
「――ごきげんよう。汚いごみのお掃除に参りました。」
男が目を覚ますより早く、カミラの指先が小瓶の蓋を開け、枕元に香を落とす。
数秒で気管を焼く蒸気毒。
眠ったまま、男の肺は内部からただれ、声を上げる暇もない。
目を見開いたまま動かなくなる男を見下ろして、カミラはそっと瞼を閉じた。
「あなたは……トゥリスタンと違って、ただの“駒”だったのね。
罪を背負って死ぬ価値もない。
でも、死んでもらうわ――“静かに”」
帰還後、浴室で香の香りを洗い流しながら、カミラはぼんやりと天井を見つめていた。
毒を仕込む。
死を偽る。
嘘を纏って生きる。
それが自分の“役割”。
でも――
「……もし、本当に、病気で死んでしまったら」
そのとき、自分を思って泣いてくれる者など、いるのだろうか。
その夜。
ハロルドは、誰にも言わずにカミラ邸の近くの森を歩いていた。
彼女の薬の流通ルートを探るための、密かな調査。
ふと足元に、微細な金属瓶の残骸が落ちているのを見つけた。
拾い上げて、香りを嗅ぐ。
かすかに残る――
「……肺を焼く香。これは……“処理の道具”だ」
彼は、静かに笑った。
「貴族の仮面をかぶった、完璧な殺人者……あなたはどこまで私を楽しませてくれるんですか、カミラ様」