第十話:黒百合の花束を、あなたに
帝都郊外、廃教会――
そこはかつて“黒の園”の秘密訓練施設だった場所。
現在は放棄されたとされるその教会に、ひとりの女が待っていた。
白髪に金の瞳。毒と幻覚の魔女――ヘルマ・フォン・ゼクト。
「来たのね、カミラ。私の“娘”」
扉を軋ませて現れたのは、黒のドレスに身を包んだカミラ。
しかし、今日の彼女の眼差しには、かつての“殺気”はない。
代わりに宿っていたのは、確固たる意志だった。
「……これで終わりにする。
あなたから受けた“死の教え”も、私の過去も」
カミラは左手でゆっくりとスカートをつまみ、優雅に一礼した。
「ごきげんよう。汚いごみのお掃除に参りました」
その動作は、貴族の礼法――
けれどその奥に潜むのは、死の舞踏。
「ずいぶんと様変わりしたじゃない」
ヘルマは笑いながら、銀の針を投げ放つ。
空間に毒の靄が広がり、視界が歪む。
けれど、カミラはすでに備えていた。
脈拍調整薬と、感覚の誤差補正香――
それらを使い、すでに**“死んだふり”は必要なくなった女**は、
真正面から毒の魔女に挑む。
二人の戦いは、毒と意思のぶつかり合いだった。
かつてのカミラは、“命令された相手を殺す”ことでしか存在意義を見出せなかった。
だが今のカミラは違う。
“愛された記憶”が、“救った命”が――彼女の中に灯をともしていた。
「あなたの毒はもう、私には届かない」
「なら、これでもか!」
ヘルマが撒いたのは、幻覚誘発毒・第四式。
かつて“カミラの初仕事”で使った、記憶を歪める毒。
――幻が見える。
幼いカミラが泣いている。
家族が焼かれる屋敷。
血塗れの手で、自分の首を絞めようとする“かつての自分”。
だが――今のカミラは、一歩も引かなかった。
「私は……もう、過去に溺れない」
幻影の中で、カミラは自らの幻の手を取り、
そっとこう言った。
「……ありがとう。
あなたがいてくれたから、私は“愛されたい”と願うようになったの」
その瞬間、幻は弾け、毒は霧散した。
「そんな……おかしい……あなたは、私の最高傑作だったはず……!」
ヘルマが崩れ落ちる。
カミラは、毒も武器も使わず、その女に歩み寄る。
そして、そっと一輪の黒百合の花を差し出した。
「これは、“終わり”の花束。
あなたの教えはもう、私の中で終わったのよ」
それから数日後――
ヘルマは帝国治安庁に引き渡された。
その際に発見されたのは、かつての“黒の園”の毒配合記録と、
数多の暗殺依頼の記録。
帝都に平穏が戻ったのは、それからだった。
そして、あの日。
診療室の奥、ハロルドがカミラを待っていた。
「……これで、全部終わったの?」
彼女の問いに、ハロルドは首を横に振る。
「いいや。
“始めよう”としたばかりだろ?
君と俺の、生きる物語を」
ハロルドは、カミラの手を優しく取った。
その手は、かつて幾人もの命を奪った指。
だが今は――命を救うための手。
「これから先、私はどうなるのかしら。
毒のない人生なんて、想像できない」
「じゃあ……俺がその代わりに、君の心に効く“薬”になろうか?」
カミラは、ほんの一瞬だけ目を見開き――
次の瞬間、小さく笑った。
「……効き目は、強すぎないといいけど」
帝都の空に、今日も陽が昇る。
黒百合の姫は、毒を捨てた。
けれど、心の奥にある“闇”は――愛によって、少しずつ塗り替えられていく。
この物語は、終わりではない。
ただの始まり。
【第一部 完】